前回のブログ
『5.葵・立花・橘 前回の追記 タチアオイはお菓子の原料』より続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12607129132.html
私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。
新型コロナウィルスの感染により、お亡くなりになられたすべての方々のご冥福を
心からお祈り申し上げます
感染した方々の早期回復を心からお祈り申し上げます
ついに、日本でもワクチンの臨床実験が始まりましたね(^'^)
ただ、ブログ『少し一息 新しい生活様式はかっての日本人にとっては当たり前だった事ばかり・・』で書いたように古(いにしえ)の日本(生活様式)を見つめ直す事は、未来へ繋ぐ大事な何かを見つける事だと私は考えています。
今回のブログタイトルは 凄く長いのですが
謎の飛騨守の方と 橘氏と縁がおありの藤原姓の方々と・・臼太鼓踊り としました。
タイトルの最後に書いた球磨地方の臼太鼓踊りとは
参考 多良木町公式ホームページより
https://www.town.taragi.lg.jp/gyousei/soshiki/kyouiku_shinkou/syakai_kyoiku/129.html
人吉・球磨地域の臼太鼓踊りは十五夜踊りが風流化したものが起源とされています。江戸時代の人吉藩主によって、武道奨励・士気鼓舞のため踊られていたと伝わり、内容は源平合戦等を表現したものです。 以上 多良木町公式ホームページより
人吉球磨地方の各所20数か所に今でも伝承されている臼太鼓踊りですが、私の父が子供の頃は家の長男しか踊る事が出来なかったと言っておりました(p_-)
しかし、いまでは、そのような継承の仕方は行われてはいません(ー_ー)!!
『源平合戦等を表現したもの等』とあるように、源平の合戦表す勇壮な踊りの中で、YouTubeに公開されている球磨郡湯前町の東方臼太鼓踊りをご紹介させて頂きます。
2015年 第64回全国青年大会最優秀賞を受賞された時の映像です。
重い太鼓を抱えて、さらに重い兜を被りながらも、勇壮に激しく踊られる姿に、
私は古の「武士(もののふ)の心構えを感じます。
19分あまりの映像ですので、お時間がおありになられる時に、じっくりとご覧頂ければと思います。
私、個人的には映像開始後10分を過ぎた頃からの激しい戦いの様子を表現するクライマックス部分が特に心の中の熱いものが湧き上がってきて・・何度も見返す程、好きなのです・・
(私の内なる激しい部分が反応しているようです・・)
武道奨励・士気鼓舞のため踊られていた「臼太鼓踊り」
もちろん、私の住む球磨郡旧久米郷宮原村(現あさぎり町岡原)にも継承されています(^'^)
がっ!・・・・ここにも「立花」の文言が・・・
早速(p_-)
①臼太鼓踊り 立花殿はおいとし様よ・・・
球磨郡旧久米郷宮原村は岡本村と合併して岡原村となりました。(現球磨郡あさぎり町岡原)
この岡原村に継承された臼太鼓踊りの歌の歌詞について昭和16年皇紀2600年を記念して発行された球磨郡誌に記述が残っていました。
歌詞は各村々によって違っていて村のオリジナルソング?が沢山残っているようです。
その中に異風と呼ばれるものがあり、岡原村の異風な?歌詞も書かれていました。
ご紹介します
岡原村 太鼓踊 歌名 「豊後」
豊後の国の兼平様よ ハ萬餘騎でお立ちやる
立花殿は少しの武士で 槍と太刀とで手向ひめど
無勢多勢で手も合ひ召さぬ 攻め落されておいとし様よ。
★立花殿は少しの武士で 槍と太刀とで手向ひめど 無勢多勢で手も合ひ召さぬ
攻め落されておいとし様よ。
この記述に気が付いたのは今から5年前の事です。
当時、この歌の意味を調べたのですが・・全く解りませんでした😞
皆様方、もうお気づきの事かと思いますが、私が「橘」と「立花」の関係に最近拘って?いたのは、根底にこの「歌」が気になっていた事もあるのです。
ただ・・旧宮原村は橘公業後裔の重代相伝の地。
立花殿は・・・おいとし様よ
きっと何か意味があるのでは!?とは考えていたのですが、太田亮博士のお言葉
立花 タチバナ 古くは橘と通じて、異なるなし
後世も時に通ず。
を拝見した時に、真っ先に頭に浮かんだのが、地元に継承された臼太鼓踊りの「歌」だったのです。
おそらく、私の住む「この地」は「橘」と「立花」が通じて、異なるなし という事をよ~く理解している「地」なのではないのか!?
とあらためて考えております。
実は「臼太鼓踊り」が・・後ほど書かせて頂く「某家の家紋」に繋がっている事に気が付いたのですが、この事はブログ後半でご説明させて頂きます<m(__)m>
②宮原氏系図に記された「謎の飛騨守」の方
ブログ『(再編集・再追記あり)2.相良頼景公と飛騨判官の関係 球磨の中世のパンドラの箱プロローグ・・』 で書いたように・・・
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12600749735.html
相良氏系図では相良頼景公の父は飛騨判官藤太 という方であり、調べた所(p_-)
当時の飛騨国を受領した一族 本物の飛騨守、飛騨判官とは・・
★飛騨守景家 藤原(伊藤)景家公。
★飛騨太郎判官景高 藤原(伊藤)景高公。景家公の子息。
であった事が解り、さらに、この方々は
平景清(藤原景清)公の伯父、従兄弟となられる方々であった・・・
と言う事まで理解致しました。
さらに、さらに・・・
平景清(伊藤景清)公の娘様とお供の方のお墓は、私の住む旧宮原村宮麓の切畑集落にあり、平景清(藤原景清)公の母君は切畑大明神(切畑神社)に鎌倉時代に御祭神として合祀となられていらっしゃいます。
当時の飛騨国を受領した一族 本物の飛騨守、飛騨判官とは・・
所が!! 宮原氏系図にも、ご先祖様「橘 公長」の兄弟の方に当時(平安時代末期)
飛騨守と注釈が記された方がいらっしゃった事に気が付いてしまいました!!
\(◎o◎)/!・・・\(゜ロ\)(/ロ゜)/
熊本県氷川町宮原の宮原城主「宮原公忠」公 後裔の宮原様から頂きました
宮原氏系図では橘公長兄弟の方々はこのように記されています。
橘公長 兄弟の方
飛騨守 橘 公経
子息橘四郎公茂
飛騨守??????何故?? な~ぜ!?
ブログ『(再編集・再追記あり)2.相良頼景公と飛騨判官の関係 球磨の中世のパンドラの箱プロローグ・・』でも書きましたが
平安時代末期 当時の「飛騨守」の方は
平繁識 : 長治2年 (1105年) 任官
平時輔 : 保延、永治の頃 在任
平時景 : 久安の頃 在任
平景則 : 保元の頃 在任
平景家(藤原景家 ※ 伊藤景家) : 安元、治承の頃 在任
平景高 (藤原景高※ 伊藤景高): 寿永2年 (1183年) 任官
藤原朝高 : 弘安年中 (1278年) 在任 (地頭)
飛騨守 橘 公経 ・・・この方 どこにも見当たりません。
しかし きっと何かあるはずだ!
と私は考えます。
偶然とかそういう問題ではない!
と私は考えます。
何故ならば・・・飛騨守・飛騨判官と言う称が付く方々に関わられる
相良頼景公も橘公長 公も 私のご先祖様でいらっしゃる方々だからです!
お二人の多くの末孫となられる「相良氏族」の方々、「橘一族」の方々の中の
私も・・その中の一人だからです。
以前からずっと胸の内で考えていた事がありました・・・
系図を研究なさる方々が、よくお使いになられる「冒称」と言う言葉
「冒称」・・・この言葉を私は不適切ではないのか?と思うのです。
きっと何らかの理由が、繋がりがあるからこそ の事だと
その理由は、関係性は、後世において
きっと・・繋がっている人達にしか解らないようになっている
そういう事なのでは ないのでしょうか・・・
飛騨守・飛騨判官と言う共通の記述に気が付く事が出来たのは、私自身の力ではありません。それは、相良氏、宮原氏の双方の系図を拝見する事が出来る環境が整っていたからであり、その事に心より感謝いたしております。
きっと何らかの理由が、繋がりがあるからこそ の事
たとえば・・例えばですね・・
※平安時代は主に通い婚が行われていたので、婿となられる方を兄弟として系図に残した。
と言う可能性もあります。
又は・・逆に
※通い婚であれば、子供は母方の家で育つ事から考えて、兄弟のように育った母系の従兄弟同士が絆から兄弟として系図に残された・・
と言う可能性も無いとは言えません。
しかし、何故?その事を隠す必要があったのか? それは・・
堅い絆を割く事が起こったから・・例えば、敵味方に別れて戦う道を選んだから・・・??
周囲に「あらぬ疑い」をかけられる事を避ける為に、隠す必要があった!から??
または・・・双方が守るべき共通の御方を思い、あえて敵味方に別れて戦ったから??
その為には、どうしても隠さなければならない「絆」であったから・・・
色々な考えが浮かびます。
さらに考えてのですが
上記で書いた※の「例えば」の場合
A家の方がB家の娘様を妻になさって通婚となっていた場合その方はA家では本当の名で系図に残り、B家では別の名で系図に残る・・と言った事も有り得るのでは・・・?
☆系図を拝見すると注釈に別の名が記されている事を度々見かけます。
母方の家で育った方の場合でも、A家、B家では名前が異なる事も有り得るのでは・・・?
宮原氏系図に記された 飛騨守 橘 公経 子息橘四郎公茂
ここで・・・気が付いたのですが・・・何故?公茂と言う方は四郎なのかな??と
この方々をお探しする為に 飛騨守 公経 四郎・・と言ったキーワードを組み合わせてネット検索を行っていた所・・・飛騨 四郎 に該当する御方を見つける事が出来ました。
吉川英治氏の著書 新・平家物語に記されていた、その御方のお名前は
飛騨四郎兵衛景経
飛騨四郎兵衛景経 この方は飛騨守 伊藤景家公の御子息 伊藤景経公
さらに・・・別のサイト様で多くお見かけした御方は
飛騨四郎兵衛景俊
この方は飛騨守 伊藤景家公の御子息 伊藤景俊公
飛騨守 伊藤景家公の御子息の方々・・・
驚きすぎて・・頭の中が一瞬 真っ白になってしまいました
飛騨守 橘 公経
飛騨守 伊藤景家公の御子息 飛騨四郎兵衛景経 伊藤景経公
公経 ・ 景経 共通の「経」の文字
さらに・・何より 伊藤氏は「橘家 嗣」と系図に記されています・・・!?
③橘家を嗣 伊藤氏
前々回のブログ
『4.立葵の季節 橘と立花は古くは通じて異なるなし』でもご紹介致しましたが
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12605494643.html
太田亮博士 『姓氏家系大辞典』 より 伊藤氏から抜粋
伊藤氏は「橘家」とお関わりがあられたようです・・・・
伊藤氏は藤原秀郷公を祖とし、相模守公光公 → 左衛門尉公清公の代に佐藤を名乗られ
左衛門尉公澄公 → 知基公 → (橘家)基景公(號 伊藤 號 伊東!?)
基清公の代に住伊勢国 となられていらっしゃるようです。
「橘家」・・
この事を太田亮博士は以下のように疑問をお持ちでいらしたようです・・・・
太田亮博士 『姓氏家系大辞典』 より 伊藤氏から抜粋
5 分脈前述伊勢の伊藤氏に橘家と註し、嫡子とあり、
橘氏と縁故あるか。・・・
(文脈・・尊卑文脈)
さらに・・・もう一つ驚いた事が・・!!
6 平姓 寛政系譜平氏氏流・・!?
正和(1312年から1317年)より系あり。家紋 庵に木瓜、十曜。
伊勢の伊藤氏は平家の家人たりしより平姓とするものあり。
確かに・・・伊藤景清公は平景清公・・
おそらくご先祖様の母系が「平姓」でいらした事にあるのかと私は推測致しておりました。
しかし!!
平姓 伊藤氏 の家紋が・・・庵に木瓜
庵に木瓜は
工藤氏、そして伊東氏の紋ではありませんか!!?
相良氏は工藤氏庶流。
実は、工藤氏に繋がる方で伊勢国に住されていらした、橘氏から養子に入られた藤原姓の方を今まで存じ上げておりませんでした。
この方が、前回のブログで「キーマン」と書かせて頂いた御方です。
しかし・・この方は 橘家 嗣「伊藤家」とは敵対関係におありになられていたと
鎌倉時代の書物には記されておりました。
詳しくは次回ご紹介させて頂きます。<m(__)m>
橘家 嗣 伊藤氏・・・
みなさま・・すでにお気づきの方もいらっしゃるのでは? と思いますが
叔父(私の父の弟)が婿養子に入った「お家」の事は、過去ブログでも書かせて頂いております。
(反省の追記あり) 発見!「石杵」等の写真 プロローグ感謝の心と共に・・
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12569942530.html
叔父(父の弟)が宮原家(橘姓)から伊藤家(現 穐岡(秋岡)家)に婿養子に入った・・・
こんな偶然って本当にあるのでしょうか!?
伊藤家のおじい様は・・きっと何かご存じでいらしたのではないか!?
私はあらためて そう考えました・・・
④伊藤家の家紋 源平合戦を表す 臼太鼓踊
最後の行に伊藤氏の家紋が書かれています。
上り藤の丸・釘抜菱
釘抜菱紋
釘抜菱紋 を拝見して、私は何処かで見た事がある・・と思いました。
そして・・やっと気が付いたのです・・・
今回のブログを書くにあたって、あらためて球磨・人吉地方に伝わる臼太鼓踊りの映像を拝見していた時に、気が付いたのです・・・。
源平合戦を表現した人吉市の鬼木臼太鼓踊り
中央の大将の方の装束に注目してご覧下さい<m(__)m>
大将の方の装束に施された紋は・・・
釘抜菱紋 でした・・・
人吉・球磨地方には、決して後世の書物・歴史書には記される事のない「裏」の部分が
ちゃんと、何らかの形で継承されているのだ・・・と私は考えました。
①臼太鼓踊り 立花殿はおいとし様よ・・・
②宮原氏系図に記された「謎の飛騨守」の方
③橘家を嗣 伊藤氏
④伊藤家の家紋 源平合戦を表す 臼太鼓踊
と ここまで書いて参りましたが・・・
相良氏だけではなく、宮原氏も飛騨守の一族の方々とは深く関わりを持っていたのでは!?と私は確信を深めております。
ブログ (再編集・再追記あり)2.相良頼景公と飛騨判官の関係 球磨の中世のパンドラの箱プロローグ・・ で書きましたように
「高山彦九郎」の『筑紫日記』より
切畑村切畑大明神の社拝殿西向、景清が母を祀る。盲人の宿するを忌む。
社後地主権現の社あり。社より北に神主宮原勘解由宅有り、
其処に景清の娘の墓とて塚あり、石表を見るに南無観世音菩薩と書して三尺ばかりなる石表立つ。西に向ふ。
宮麓集落内切畑の宮原家は、数百年に渡って平景清公(伊藤景清公)の母君の御魂と姫君のお墓をお守りになられたお家です。
伊藤氏の女性の御魂をお祀り続けてこられたのは 宮原氏です・・・
さらに偶然とは思えません・・・
家の宮原家(橘姓)からは叔父が伊藤家(現 穐岡(秋岡)家)に
婿養子に入った・・・・
人吉・球磨地方には、決して後世の書物・歴史書には記される事のない「裏」の部分が
ちゃんと、何らかの形で継承されている・・・
後世の書物・歴史書では敵味方となって戦っていた・・と記されている方々の中には
先に書いたように
双方が守るべき共通の御方を思い、
あえて敵味方に別れて戦った・・・
その為には、どうしても隠さなければならない「絆」であったから・・・
こういう方々もいらしたのではないでしょうか・・
双方が守るべき共通の御方を思い ・・ 忠義
源平合戦当時の平景清公(伊藤景清公)の御役目は
守るべきある御方の護衛・・・
(これ以上は書きません・・・)
次回は橘氏が継がれたもう一系の伊勢国の「藤原氏」の御方についても書かせて頂き
さらに、真相を見つめていきたい・・と考えています。
最後までご覧頂きありがとうございました。
皆様方、お身体十分にお気を付けになられて、お過ごし下さいませ。
ひろっぷ でした(^'^)
次回『皆様方へ 心を込めて』 に続きます。