朝に虹の湯に行って、シェイプアップバスでお腹を鍛えて、珈琲を飲み、親友の宮田君に電話を掛けて、西ノ京の薬師寺へと向かった。というのは、お寺を造る目的があって、参考にしたい寺院が薬師寺だったので、宮田君と一緒にお寺へと向かった。

 

 お寺は確かに見事でさすがに世界遺産なわけですが、仏像がデカくて堂内が狭いというのと、ベンチが数えるほどしか置いてないという様子だった。

 

 それでも、ここが、多くの方が病気平癒を祈願する一大パワースポットであることは身をもってわかっています。

 というのも、小学校1年生の終わりから、2年生まるまる私は腎臓病で自宅休養していて、ある夜僧である父が、薬師寺に私を連れて行ったのです。

 もう夜なので薬師寺の門は閉まっていたので、薬師寺の北側から、南を向いて金堂に向かって手を合わせたら、1週間後に腎臓病が治ったのです。

 

 如来(にょらい)は悟った身で、菩薩(ぼさつ)は修業中の身なのですね。金堂には薬師如来が坐して、講堂には弥勒如来が坐す。あれ、何で如来かは、56億7000万年後に如来となった弥勒菩薩を、今如来として、未来からの利益(りやく)に与るという唯識ならではの発想なのかと感じました。法相宗の本山でもありますから。時空を超えていますね。それが本当だと思います。

 

 常に修業し続ける人や仏を見つけては、その方が、どこの時代のどんな空間においでになられたとしても、意識で通信し、求める利益(りやく)に与ることが大切です。

 

 世界全体に利益(りやく)するように祈ってみても、それに対応する魂でなくては機能しないわけですから、誰しもが己の要望を最優先するべきです。

 

 すなわち、自身が成し遂げるが先で、後に人々を教化していく、いわゆる十六条戒を広宣するということです。

 

 自ら修業し悟りを得ることを怠って先に受戒していない人を優先するならば、それは非常に愚かなことです。受戒した人は、それだけで悟りへの大船に乗ったことになります。なので、口が酸っぱくなるくらいにここで、十六条戒を会得しましょうと言っているわけですね。

 

 魂の状況が清浄となると、自動で悟りへと導かれるのです。

 

 私は人間生命の不老長寿を目指す寺院を建立したいと思います。自分も同じ希望があるという方は物でも心でも、ご協力になられてくださいますよう、お願い申し上げます。