hy Loves … -342ページ目

永遠の姉妹 第29話『わたしを抱いて…』

翌日、知永子は一週間ぶりに出勤した。真っ先に、課長のデスクへと足を運ぶ。
「長い間、ご迷惑かけて申し訳ありません」
知永子は、深々と頭を下げた。
「いや…ことがことなんだ。気にするな。それより、もう大丈夫なのかい?」
「はい。ご心配にはおよびません。一週間泣き続けて、もう涙も枯れましたから」
課長の気遣いに対し、笑顔で返した。
「…まあ、それならいいんだが、しばらくは無理しないでくれよ」
「はい」
知永子は再度頭を下げ、自分のデスクに向かう。途中、和彦とすれ違った。
「本当に、もう大丈夫なのか?」
和彦が、小声で尋ねて来る。知永子は、和彦に微笑みかけた。
「えぇ…」
昨日とは打って変わって生気に満ちた知永子の表情に、和彦は面食らう。
「それより…今日の夜、時間あるかしら?」
「あっ…あぁ。どこか店でも予約しとくよ」
「お願いするわ。じゃあ、仕事が終わったら連絡ちょうだい。待ってるから」
知永子はきっぱりと言って、自分のデスクに座った。
「…何か、倉内先輩雰囲気変わった気がしない?」
「ええ…」
後ろにいた後輩OL達の、小さな耳打ちが聞こえたが、気にならない。知永子はパソコンを立ち上げ、黙々と仕事を始めた。



同じ頃、澄江は浩二郎の会社の応接室にいた。滝から、呼びつけられたのである。
「奥様、今日はわざわざ足をお運び頂き申し訳ございません。まあ、どうぞ楽にして下さい」
応接室に姿を現した滝は、そう言って澄江の向かいにどっしりと腰を落とした。以前とは違い、どこか余裕に満ちた滝の態度に、澄江は違和感を覚える。
「楽にも何も…ここは、あたしの会社なのよ。緊張するいわれなんてないわ」
澄江の言葉に、滝は思わず吹き出した。
「何が可笑しいのよ!?」
澄江は明らかに不快感を露わにしたが、滝は尚も笑い続けている。
「ふふ…。奥様は、本当に何もお気づきになられていないんですね」
滝は、自らの胸ポケットの中から名刺入れを取り出し、一枚を差し出した。滝の名前の上に、代表取締役と記されている。
「…こ、これは!?何の冗談なの。…この会社の社長は、あたしでしょう…?」
澄江は、声を裏返らせた。
「奥様こそご冗談を。この会社の社長は、他でもないこの私です。先日の役員会において、正式に任命されました」
澄江は、滝に促されて署名した書類のことを思い出す。あの時は滝の口車に乗せられ、言われるがままに署名をしたが、果たしてあれは何だったのだろうか。
「あれは…権利放棄と譲渡手続きの誓約書ですよ」
滝は、にんまりと笑った。
「な…何ですって!?」
「まさか、奥様は本気でご自分がこの会社の社長に就任出来るとでも思っていたんですか?書類の内容もろくに確認せずにサインをするような世間知らずの専業主婦に、務まるわけがないでしょう」
穏やかな口調で、澄江を侮蔑する。澄江は、わなわなと震えた。
「騙したのね!!」
「奥様には感謝してますよ。まさか、ここまで簡単にことが運ぶとは、私も思っていませんでしたからね…」
澄江は立ち上がり、滝に掴みかかった。しかし、滝に呼ばれた警備員に取り押さえられる。
「奥様のお帰りだ。お連れしろ」
澄江に握られたネクタイの皺を直しながら、滝は警備員に命じた。
「離しなさい!このあたしを、誰だと思っているのよ!!」
澄江は力の限り叫んだが、警備員は澄江を離さない。
「それから…現在奥様がお住まいになっているお宅も、会社名義に変更されておりますので、なるべく早く受け渡し下さい」
「そ、そんな…あたさは、どこに住めばいいって言うのよ」
「ご心配なく。赤羽にある薄汚い小料理屋は、奥様の名義です。どうぞ、元社長とその愛人が心中したあの家で、末永くお暮らしになるんですね」
滝は、駄目押しするように告げた。その言葉に、澄江の体から力が抜ける。澄江は警備員に抱えられるようにして、応接室から追い出された。
「いやぁ~!!!!」
廊下に、澄江の悲鳴が響き渡る。



レストランで食事を済ませた知永子と和彦は、行きつけのバーにいた。
「そろそろ帰ろうか?送って行くよ」
腕時計で時間を確認した和彦が、知永子に言う。知永子は、首を振った。
「…帰りたくないわ。帰っても…あたし、独りきりなんだもの…」
「でも、そろそろ終電になるよ。明日も仕事だろう」
知永子は和彦の言葉を遮るように、和彦の手を握る。
「…今日は、朝まで和彦と一緒にいたいの。いいでしょう?」
潤んだ瞳で、そう言った。
「えっ!?」
「和彦と、一緒にいたい…」
知永子は、和彦の顔を真っ直ぐに見つめ繰り返す。



「…本当に、いいのか?」
戸惑ったように、和彦は尋ねた。
和彦のマンションの寝室のベッドサイドに、知永子と和彦が腰かけている。
「えぇ。わたしは、そのつもりで来たのよ…」
知永子は、真っ直ぐに答えた。
「本当に、いいんだね…」
知永子の瞳に、和彦は再度問いかける。和彦を見上げ、知永子は頷いた。和彦は、徐に知永子を押し倒す。
「…和彦。わたしを、抱いて…」
「知永子…」
和彦は、そう言って知永子のブラウスに手をかけた。同時に、知永子に唇を重ねる。
ふいに、十年前の陵辱の夜の記憶が蘇った。自らに覆い被さる和彦の顔が、あの時の男達のそれと重なって見える。
知永子はぎゅっと瞼を閉じ、和彦を受け入れた。
「和彦…愛しているわ…」
フラッシュバックしてしまいそうになる自分を叱咤するように囁きながら、強くシーツを握り締めた。



<和彦に抱かれながら、知永子は自らの理性と感情の狭間で戦っていた。心では受け入れつつも、体の奥底では拒んでいる。
それは、奇妙な営みだった。>



「ママ、いないの?」
倉内の家に駆けつけた知香子は、玄関から中に声をかける。澄江からの反応はなく、家の中はひっそりと静まり返っていた。
昼間に、澄江から何度も着信があったので折り返してみたのだか、いっこうに繋がらない。妙な胸騒ぎを覚えた知永子は、仕事を早上がりして来たのだ。
「…入るわよ」
そう言って合い鍵を差し込んだが、鍵は開いたままだった。訝りながらドアを開く。明かりは灯っていなかったが、人の気配を感じた。かすかに、奥のリビングの方から物音がする。
「…ママ!?」
恐る恐るリビングに足を踏み入れた知香子を待ち受けていたのは、衝撃の光景だった。
真っ暗な部屋の中、澄江が床に座り込んでいる。澄江はぶつぶつと何かを呟きながら、手掴みてまシュークリームを頬張っていた。
澄江の口元や床を、クリームがべっとりと汚している。
ふいに、澄江が知香子を見上げた。鬼気迫った表情で、にんまりと笑う。
「ママ!しっかりしなさいよ!!一体、何があったって言うのよ!?」
知香子は澄江に駆け寄り、彼女を揺さぶった。しかし、澄江は何も答えない。
知香子に肩を捕まれたまま、狂ったように笑い出した。
「ママ!お願いだから、正気に戻ってちょうだいよ!!」
知香子の問いかけも虚しく、澄江の乾いた笑い声がリビングに響く。



つづく

永遠の姉妹 第28話『踏みにじられた遺影』

買い物を終え、帰宅した織江は奥に人の気配を感じた。
「知永子…帰ってるの?」
奥に向かって、声をかける。しかし、中から姿を現したのは、浩二郎だった。
「あ、あなた…」
ほんの数日ぶりに会うはずなのに、浩二郎のあまりの憔悴ぶりに、織江は言葉を失った。
「…ど、どうしてここに!?」
震える喉を振り絞り、ようやくとそう口にする。浩二郎は、狂気じみた笑みを織江に向けた。
「織江…」
言いながら、ふらふらとした足取りで織江に近づいて来る。昼間から酔っているのか、浩二郎の吐く息には酒の匂いが混じっていた。織江は、思わず後ずさる。
「…あなた、飲んでるの?」
「あぁ…飲まずにいられるか。…もう、終わりだ…」
「い、一体、何があったって言うのよ?」
織江が、恐る恐る尋ねた。
「…澄江だよ。あいつが、会社から俺の追い出しにかかったんだ。お陰で俺は、社長の座も…銀行の預金も…土地も、このちっぽけな店さえも…全てを失ったんだ」
浩二郎は、がっくりとその場にうなだれる。
「ちくしょう!俺が…今までどんなにかあの会社の繁栄の為に、この身を捧げてきたか。あいつの親父が道楽で傾かせたあの会社を…あそこまで発展させたのは、他でもない俺なんだぞ。それなのに…あいつは、使い捨てカイロよろしく俺をポイ捨てしやがったんだ…。全く、恐ろしい女だ。あいつは…俺憎さから、復讐の鬼になっちまったんだ」
「そ、そんな…奥様が…」
「…織江。俺にはもう…お前しかいないんだ…」
浩二郎は、ゆっくりと織江を見上げた。
「…い、言ったはずです。あたしは、あなたと別れて…祖母が住む山梨に引っ込むつもりだって…」
「何でだ…。お前まで、俺を見捨てるのか!?」
「お願い…やめて、離して下さい!」
織江は、自分に縋りついて来る浩二郎から逃げるよう、身を捩った。しかし、浩二郎の力は強く離れられない。
「お願いよ…。知永子の…あの娘の為なの…」
浩二郎の腕の中、織江は懇願した。
「お前にまで見捨てられたら…俺はもう生きてさえいられない。それならいっそ…」
浩二郎の視線が、厨房にある包丁を捕らえた。それに気づいた織江は必死に包丁に手を伸ばしたが、寸前のところで浩二郎に奪われる。
「いっそ…このまま一緒に死のう。俺達は…あの世で結ばれるんだ…」
包丁を手にした浩二郎が、譫言のように呟いた。瞬間、織江の腹部に鋭い痛みが走る。
「あっ…」
織江は腹部を押さえながら、ゆっくりとくず折れた。掌から、夥しい量の血が溢れ出る。
「…あ、あなた…」
「織江…済まない。俺達にはもう、こんな道しか残されていないんだ…」
浩二郎は、横たわった織江の傷口から包丁を抜き取り、自らの首すじにそれを突きつけた。
「織江…愛しているよ…」
そう言って、一気に引き抜く。室内が、赤く染まった。
「あぁ…知永子。…ごめんなさいね…」
織江は、自分の体に折り重なるようにして倒れ込んだ浩二郎の髪を撫でながら、呟く。次第に、視界が霞み始めた。ゆっくりと瞼を閉じる。織江の目尻を、一筋の涙が濡らした。



「倉内先輩、お電話です」
オフィスでパソコンに向かっていた知永子に、後輩が声をかける。
「誰から?」
「それが…警察からなんです」
知永子の質問に、後輩は声を潜めた。
「えっ!?警察…?」
「はい…」
訝りながら、知永子は電話を引き継ぐ。ふいに、織江の笑顔が脳裏をよぎった。
「はい、もしもし。お電話変わりました。倉内です…」
受話器から聞こえる警察官らしき男の声。次の瞬間、受話器が知永子の手から滑り落ちた。
「いやっ…嘘よ!嘘よ~!!」
オフィスの喧騒の中、知永子の悲鳴が響き渡る。それは、無情にも愛する母の死を告げる電話だった。



「大丈夫か?」
織江の遺影をただただ眺めていた知永子の肩に、和彦は手を添える。
「…あれ以来、ろくに飯も食っていないんだろう。いい加減、体壊すんじゃないか」
織江と浩二郎の心中事件から、早一週間。葬儀を終えた後、知永子は抜け殻のように毎日を過ごしていた。
「辛いのは解るけど…お前まで倒れてしまったんじゃ、元も子もないだろう」
和彦は、優しく話しかける。しかし、知永子はゆっくりと首を振った。
「…ごめんなさい。毎日来てくれるのは嬉しいんだけど、今は…今だけはそっとしておいてくれないかしら…」
「知永子…」
「今は…ひとりでいたいの…」
そう言う知永子の頬を、涙が流れる。あれから毎日のように泣いていたが、知永子の涙は枯れることを知らなかった。ふと織江のことを思い出すたびに、自然と湧き出て来る。
「解った…。また明日来るから」
和彦は、そう言って『長谷倉』を後にした。


「お母さん…」
知永子は、再び織江の遺影に語りかける。
織江の葬儀は、寂しいものだった。結局、浩二郎の葬儀は半狂乱の澄江によって取り仕切られ、その影に隠れるようにひっそりと執り行われたのである。
織江の立場を考えれば致し方のないことではあるが、せめて死への旅立ちくらいは母と父を共にさせてやりたかった。
母の遺影と対面するたびに、そんな心残りが募る。
ふいに、玄関が開く音がした。和彦が、戻ってきたのだろうか。
ふらふらとした足取りで玄関に向かった知永子は、意外な訪問者に愕然とする。
「倉内のお母さん…」
知香子と澄江だった。
「失礼するわね」
知香子と澄江は、知永子の返事を待たず、靴を履いたまま足を踏み入れる。
「待って下さい!」
知永子の制止を振り切り、織江の遺影がある居間へと土足で乗り込んだ。
「本当に…憎ったらしい顔ね。写真で見ても、反吐が出るわ」
澄江は織江の遺影を睨みつけ、忌々しげに吐き捨てる。
「お願いです。ここから出て行って下さい!これ以上、母を侮辱するのは止めて下さい!!」
「あら、何寝言をほざいているのかしら。出て行くのはあなたよ、知永子さん…」
澄江は、知永子に微笑みかけた。
「…一体、どうゆうことなんですか!?」
知永子の問いかけに、知香子が書類を見せつける。『長谷倉』の権利書だった。
「見ての通りよ。この土地の所有者はすでにママに変更されてるの。つまり、お姉ちゃんはこの土地に不法占拠している、とゆう形になるってわけ」
知香子は、淡々と語る。
「そうゆうことよ。あなたが住む権利なんて微塵もないってわけ」
「お姉ちゃんは、全てを失うってことよ。和彦はもちろんのこと…住む場所さえもね」
知香子は、勝ち誇ったように笑った。
「あたしも鬼じゃないから、何も今すぐに出て行けとは言わないわ。一週間の猶予をあげるから、その間に身の振り方を考えておくのね」
「そ、そんな…」
突然の言葉に驚愕する知永子の顎に、澄江が指を当てる。強引に、ぐいっと持ち上げた。
「言っておくけど…あたしは、あんたの母親のことを許したわけじゃ、けしてないのよ。人の亭主に手を出した挙げ句、心中までするだなんで…。あの女が、あの人をけしかけたに決まっているんだから。あたしに全てを取り返されそうになったからって、焼けになったのよ」
「…そんな!!警察の方は、父からの無理心中だったって…」
言い返した知永子の頬が鳴る。澄江が、全力で知永子に平手打ちを食らわせたのだ。
「そんなこと、あたしは信じないわ!!あの女が…あんたの母親が全て悪いのよ。全く…疫病神以外の何物でもないわ!」
そう言って、織江の遺影に手をかけた。
「や…やめて!!」
知永子の必死の制止を振り切り、織江の遺影を思い切り床に打ちつける。硝子が音を立てて砕けた。
「死んだって許さない…。あたしの、この命が果てるまで…憎しみ、恨み続けてやるわ」
言いながら、硝子の破片を掴み、織江の顔に突き立てる。ゆっくりと、遺影を引き裂いた。
「やめて!!お願いだから…やめて下さい」
思わず、知永子は澄江に飛びかかる。澄江の体に、馬乗りになった。
「…これ以上の侮辱は許しません。お母さんは、確かに愛人の身分でした。でも…こんな仕打ちを受けるなんて…」
「ふざけないで!」
知香子は、知永子の後ろ髪を掴み、引き剥がす。知永子は、もんどり打って倒れ込んだ。
「今までママが飲まされて来た煮え湯に比べたら…この程度の仕打ちなんて、ほんのぬるま湯よ」
「ち、知香子…」
知香子は知永子に見せつけるように、織江の遺影を足で踏みにじった。
「ママ、帰りましょう。いつまでもこんな辛気臭いところにいたら、黴が生えてきそうだわ」
「そ、そうね…」
澄江は、知香子からかかえられるようにして起き上がる。
「お姉ちゃん、この程度で済むだなんて勘違いしないでね。まだまだよ。あんたが、この世に生を受けたことを後悔するまで追い詰めて…全てを根刮ぎ奪ってあげるわ」
知香子は、そう吐き捨てて部屋を出た。


ひとり残された知永子は、のっそりと起き上がる。床に投げ捨てられた織江の遺影を、手に取った。
澄江に切り裂かれ、知永子から踏みにじられ、ぼろぼろに汚れている。
「許さない…。こんな仕打ち…絶対に、許さない…」
打ちひしがれた知永子の胸に、ある決意が宿った。
「お母さん。もう…わたし、負けないわ」
織江の遺影に誓うように、はっきりと宣言する。



<知香子と澄江母娘によるあまりの仕打ちに、知永子の中の夜叉が目覚めた。母のプライドを賭けた、知永子の反撃が始まる。
こうして母娘二代に渡る姉妹の骨肉の争いは、また新たなる局面へと差し掛かったのである。>




        つづく

永遠の姉妹 第27話『因縁の秘密』

「お母さん…一体、どうゆうことなの?」
知永子は唇を震わせ、織江に尋ねた。
「知永子…あんた達と同じよ。あたしと奥様は…同じ男を愛し、奪い合った腹違いの姉妹なのよ」
知永子の問いに、織江が答える。
「…まさか、あんたから再び姉さんと呼ばれるだなんて…思いもしなかったわ」
澄江が、苦々しく呻いた。
「でも…あたしは、あんたのことを妹だなんて思ったこと、ただの一度だってなかったけど。父が…妾に産ませたあんたのことなんか…」
「あはははっ!最高。まさか…母娘二代に渡って、姉妹で男を奪い合うだなんて…こんな滑稽な話はないわね」
知香子は手を叩いて笑った。
「…とにかく、出て行ってちょうだい!あんた達が何を言ったって、あたしは考えを変えるつもりはないわ!!」
澄江が怒鳴る。手当たり次第に手近にあったものを投げつけながら、知永子と織江を家の外へと追いやった。



「本当に、驚いたわ。お母さんと倉内のお母さんが…わたし達と同じ、姉妹だったなんて…」
家路に着いた知永子は、重い口を開いた。
「ごめんなさい…。こんなこと、あなたにはとても言い出せなくて…」
「どうか教えてちょうだい。お母さん達の間に…何があったのか」
「えっ!?」
「だって…それが、全ての始まりなんでしょう」
知永子の言葉に、織江はゆっくりと溜め息を吐いた。
「そうかも知れないわね。知永子…あなたには、全てを知る権利があるんだものね…」
しばらくの沈黙の後、意を決したように口を開く。
「あたしの母は、新橋で芸者をしていたの。母は、そこで客として知り合った父と恋に落ち、あたしを身籠もったわ。しかし、父にはすでに妻子がいたの。倉内の奥様と…そのお母様よ。当時、会社を経営していた父は母を別宅に囲い込み、そこであたしを産ませたの」
「…それで」
知永子は、先を促した。
「しばらくは…母とふたりきりの生活だったわ。でも、あたしが三才になった頃、母が病に倒れ…そのまま亡くなってしまったのよ。あたしは、倉内の家に引き取られたわ」
「でも、名字が…」
「倉内のお母様が、それだけは断固として許して下さらなかったのよ。当然よね。倉内のお母様にとってあたしは…夫の不義の娘、裏切りの証なんだもの。とにかく、あたしはそれから高校卒業するまでの十五年間、奥様と姉妹として育てられたの」
「そんなことが…」
「高校を卒業したあたしは、倉内の家を出て、ホステスとして生計を立てるようになったわ。生活はけして楽ではなかったけれど、あたしは生まれて初めて手にした自由な生活を楽しんでいた。…そして、あたしはある男性と出会ったの」
ふいに、織江の表情が曇る。
「それが…浩二郎さん、あなたの父親だったのよ。運命の皮肉よね。あたしは、まさか彼が腹違いの姉の婚約者とは知らずに、浩二郎さんと愛し合ってしまったの。…あたしが倉内の奥様の存在を知ったのは、すでにあなたを身籠もってしまった…その後だったわ。」
「…お母さんと、倉内のお母さんとの間に…そんなに深い因縁があっただなんて…」
「あたしは…あなたをひとりで産み育てるつもりだった。でも、あなたを出産した直後に流行り病に罹ってしまって…泣く泣くあなたを倉内の家に託すしかなかったの。思えば、あたし達は、母娘二代にも渡って…同じ呪縛に苛まれているのよ…」
織江は、涙ながらに語り終えた。織江の告白に、知永子は呆然とする。
「…わたし達は、母娘二代にも渡る、永遠の姉妹だったのね…」
知永子はひとり呟いた。母娘で、肩を寄せ合う。
肩越しに、知永子は母の温もりを感じていた。しかし、母の肩はあまりにも細く頼りない。知永子は、織江の肩を強く抱き締めた。



<母娘は、苦難の嵐から堪えるように、身を寄せ合っていた。
しかし知永子の思いも虚しく、母との永別の時は確実に迫っていたのである。>



翌日、澄江はある男からの訪問を受けていた。澄江の父の代から勤めている古株の重役、滝である。
「滝さんがこの家に来るなんて、珍しいわね。今日は、一体何の用かしら?」
澄江はコーヒーを出しながら、滝に話を促した。滝は、おもむろに鞄の中から書類を取り出す。澄江の前に、それを差し出した。
「ご無沙汰しておりました。今日は、奥様に大事な話がございまして…」
「何かしら?」
言いながら、澄江は書類を手に取る。
「奥様は、あの男から会社を取り戻したくはないですか?」
「えっ!?」
「奥様の苦しみには、私共から拝見しておりましても目に余るものがあり、日々心を痛めております。全ては、あの男の傲慢さが成せる技…」
「え、えぇ…そうね。でも、そんなことできるのかしら?」
「実は、ここに過半数以上の役員達からのあの男に対する不信任が集まっております」
滝は、書類を指差した。滝の言葉に、澄江は唾を飲み込む。
「後は、こちらに奥様のご署名さえ頂ければ…我が社の権利は全て奥様のものです」
「何ですって!?」
「今こそ、あの会社を取り戻すのです。お父上が築き上げた財産を…自らの手にする時が訪れたんですよ」
滝は、真っ直ぐに澄江の目を見据え言った。
「ここに…あたしが署名をしたら、あの人から全てを奪えるのね」
「もちろんでございます。さあ、奥様。こちらにご署名頂けますね」
「えぇ…」
滝に促されながら、澄江は書類に自分の名前を記入する。
「…これで、あの人を丸裸にできるのね。そうなったら…きっと、あたしを頼らざるを得なくなるわ。あの人は…あたしだけのものよ…」
澄江は、譫言のように呟いた。興奮に、体が震える。
「はい。これで全ては奥様のもの。後は、この私にお任せ下さい」
滝は、にやりと笑った。



「一体、何の用ですか?」
知香子から呼び出された和明は、訝りながらバーのスツールに腰掛けた。
「あなたに、話があるのよ」
「…俺には、あなたと話すべきことなんか、何もないと思いますが…」
「そうかしら?あたし達の利害は、一致していると思うけど…」
知香子は、怪しく笑いかける。
「えっ!?」
「あたしは、和彦を自分だけのものにしたい。そして、あなたは、知永子と結ばれたい。違う?」
「そ、それはそうですけど…」
「でしょ。だったら、あたし達は協力し合えるはずよ」
戸惑う和明を煽るように、囁いた。
「で、でも…」
「このまま指をくわえて見守っているだけじゃ、いつまで経ってもお姉ちゃんは手に入らないわよ」
じりじりと、和明を追い詰める。
「本当に欲しいものがあるんだったら、傷つくことを恐れちゃいけないわ。ねえ、そうでしょう」
「…わ、悪いけど、俺はそんな卑怯な真似はできない」
言いながら、和明は慌てて席を立ち上がった。
「そう。心変わりを期待してるわ。あたし達は、きっと上手くやれるはずよ」
恐れをなしたように走り去って行く和明の背中に、知香子は声をかける。にんまりと笑った。



翌日、社長室にいた浩二郎の元に、滝が現れる。
「滝か。どうした?」
「本日は、大事な報告がございます」
滝は浩二郎に向かって、不敵な笑みを浮かべた。戸惑う浩二郎を余所に、例の書類を差し出す。
「何だ…これは?一体どうゆうつもりだ?」
書類に目を向けた浩二郎は、滝を睨みながら尋ねた。滝は、一切表情を変えない。
「ご覧の通り、社長…いや、今となっては元社長と言った方がよろしいでしょうか…あなたの不信任案です」
元のところに妙なアクセントをつけながら、滝は告げた。
「…貴様、裏切ったのか…」
「ふふ…。裏切りとは心外ですね。全ては、あなたに対する疑念が原因ですよ」
「ふざけるな!俺が…俺が今まで汗水垂らして築き上げて来たこの会社を…貴様等の好きにはさせんぞ!!」
浩二郎は、滝に掴みかかる。しかし、滝は浩二郎の腕を強引に振り払った。
「すでに、奥様からの譲渡手続きも済んでおり、我々役員としてはあなたの辞任を要求せざるを得ませんね」
打ちひしがれる浩二郎の頭上から、滝の高笑いが響く。



つづく