ひむかのブログ

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「悪いね」

「いや、君の頼みなら何でも協力するよ。でも、なんだいこのバカでかい装置は?」

「この宇宙と全く同じ宇宙を作る装置だ」

「はい?」

「だから言ったとおりだ、この装置を起動することによりこの宇宙の外にこの宇宙と同じ宇宙が新たに誕生してその中を観測できる」

「いや、何言ってるのかよくわからないが、ひょっとしてビックバンを起こしてその様子を観察するというのか?」

「そうではない。現時点のこの宇宙のコピーがこの宇宙の外にできるのだ」

「いや、それおかしくないか?そんなことが起きたらその宇宙の中で矛盾が起きまくるだろ」

「5分前創造論というのを知っているか?創造論者が化石の存在を説明しようと神が世界を創造したときには過去まで含めて創造したと主張した始めたのに対してそれならその創造が5分前でなかったと証明できないだろと批判した論だ。これ自体は皮肉だがそれをあったはずはないと言い切ることは実はできない。現にこの装置でそれが実現できる」

「ほんとかよ。で、俺を呼んだ理由は?」

「創造はできるがその維持はかなりむつかしくて10分しか持たない。新しく作った宇宙の中の観測と装置の操作は一人ではできないので君に手伝ってほしいと思ってね」

「わかった」

 

 

「さあ、創造が終わったぞ。観測を始めよう」

「これを、こうすればいいんだったな」

「そうだ、別の宇宙の中の映像が届いたぞ」

「え?これ、この部屋じゃないか」

「この宇宙のコピーなんだからこの部屋があるのは当然だろう。あ、中の君がこちらを振り向いたな」

「いや、ちょうど俺も後ろを見ているよ、カメラがないかと思ってね」

「なんだ、君を担ぐためにこれをしたとでも思っているのか。モニターを見てみたまえ、ことらとよく似た動きをしてはいるが微妙だが確実な違いがある。この画像がここを映したものでないことは明確だ」

「確かにそうだな」

「さあ観測を続けよう」

 

「なあ、ちょっと思ったんだが」

「手短に頼むあと6分しかない」

「この中の人間は4分前に創造されたんだがそれ以前の記憶もあるんだよな」

「そうだ」

「多分この中の俺たちは俺たちと同様に別の宇宙を創造してそれを観察している」

「そういわれればそうだな」

「でも後、6分後にこの中の世界は終末を迎えるんだよな」

「そうなる」

「しかし、この中の人間はまさか自分たちが4分前に創造されたなんて思いもしない」

「ああ」

「じゃあ、、、ああ、もうあと5分か、、、5分後に終末を迎えるのは本当はどっちだ?」

 

 

 

 

大規模言語モデル(いわゆる生成AI)の原理は、枯れた技術である多変量解析により求めた現時点のシチュエーションに最もふさわしい単語を並べていくというものである。その際ふさわしい単語を決める方法にディープラーニングを求めているところが最新技術たるゆえんとなる。なので、生成AIが斬新なアイデアを導き出す可能性は猿がタイプライターでシェークスピアを書く確率(ありえなくはないがほぼないことを表す)とほぼ同じくらいとなる。

 

では、一見生成AIが出してきた斬新なアイデアのようなものは何か? 実はどこかの誰かが考えてウェブ上に挙がっていたが忘れられていたアイデアなのだ。(えてして自分が忘れていただけのアイデアの時がよくある)

 

逆に言えばどんなアイデアでもウェブ上に挙げておけばまわりまわってどこかで画期的な変化を引き起こす可能性があるということになる。なんであれブログを書いておいて無駄にはならないゆえんである。

 

ただ、これは別に生成AIがなくても昔から行われていたことにすぎない。いろんな人のいろんな考えがいろいろな経路でいろんな人に伝わった結果、今の社会と思想がある。つまり何であれ今の社会であれ思想であれ変えようとすればその膨大な思想を敵にしなければならない。まあ、全部を敵にする必要はないかもしれないが、大きく変えたければ敵は増えていく。それこそ億単位で。

 

だから大きくは変えられない。でも、わずかずつずらすことは誰にでもできる。ウェブに文章を挙げることは昔の時代よりはるかに効率的にそれができる手段だと言える。ただ、たとえ幼児であってもその結果が見られるときには死んでいるだろうが。

 

無駄ではない。ただ、期待はしない方がいい。

鶴屋「蔦屋さん、お加減が悪いと伺いましたが、どんな具合ですか?」

蔦重「これはどうも。いや、なんか最近足がむくんでねえ」

鶴屋「足がむくむ?そりゃ今はやりの江戸煩いじゃないですか?」

蔦重「なに、大したことありませんや。ところでそちらの方は?」

柳亭種彦「申し遅れた。拙者高屋彦四郎と申す。一応旗本の端くれじゃ」

蔦重「これは、ご無礼を」

柳亭種彦「いや、旗本といっても、、、こちらの鶴屋殿や西村屋殿と親しくさせていただいており、戯作者になどなれるものかと腑抜けたことを考えておる道楽者じゃ」

鶴屋「実は源氏物語の現代版など書いてみてはいかがかと申し上げているのですよ」

柳亭種彦「江戸娘おひろ(まひろ)が石山寺ならぬ石屋の二階で書き上げる、、とな」

蔦重「そりゃあいい。今でも上方の連中は江戸物をもののあわれも知らぬ田舎者と言いやがるが、連中が大事にしてる源氏物語をしっかりいただいて見返してやりましょう。で、いつ頃出されるんで?」

鶴屋「いえねえ、思案はいいがこの高屋様、なかなか筆が進まない」

蔦重「まあ、お旗本ですし御立場上むつかしいこともいろいろございますよねえ」

柳亭種彦「お察しいただきありがたい」

蔦重「そうそう歴史ものと言えば私にも一つ腹案があるんですよ。太閤記をね。ただの太閤記じゃ詰まらねえ、主人公を太閤殿下ではなく弟の大和大納言様にするんでさあ。『兄者、久しぶりではないか。なんでも信長様の御家来衆に加わったとか』『おうよ小一郎それでお前に頼みがある』『なんだ、金はねえぞ』『金はいらぬお前が欲しい。俺の家来になればお前を一国一城の主にしてやる』『なんととてつもないほらを吹くものじゃ。されどこのような兄者をほっておいては悌の徳にもとる。仕方ないから助けてやろう』なんてな。こういうのをうちで手代やってるやつに書かせようかとな」

鶴屋「手代というと馬琴さんですか?しかし、太閤記となると当然権現様も出てきてしまう。そんな話は御上がほってはおきますまい」

蔦重「ううん、確かに。いや世知辛いもんだ。いつかこのような話も自からに由りてかけるような世が来ないものでしょうかねえ」

 

光る君へ=べらぼう=豊臣兄弟 繋げてみれば繋がるものです。

正解がないならば何でもありかというとそういうわけではない。いわゆる「正しい」ものと「正しくない」ものはあると思う。何がそれを決めるのか?私はより多くの人にとって得なものがより「正しい」と思う。

 

ここで「得」と言っているものは別に金銭的な利益やそれに類するものだけではない。より生きやすい。より知的満足が得られる。より名誉が得られる。エトセトラエトセトラ。

 

また天動説を例に出そう。

 

原点を太陽に取った座標系ではすべての惑星の軌道は原点を一焦点とした楕円という簡単な式で表せられる。一方地動説では惑星は地球の周りを楕円で回る太陽の周りをさらに楕円で回るという複雑な動きをする。どっちのモデルの方が理解しやすいかは明白だろう。天動説の方が理解しやすく多くの人が楽をできて「得」なのだ。

 

この考え方は結構説得力があると思う。誰かが思い付きで生み出した珍説は当人にとっては自分の名誉欲と知的満足を満たしてくれるので得なものだが、ほかのすべての人にとってはどうでもいいのであまり「正しく」はない。(なおこの文章自体がそれにあたると思われるかもしれないが、、、、その通りである!!)

 

多様性が「正しい」とされるのも多様性を認めた方が得な人が多いからだし、今一「正しさ」が認められないのは少なくない多様性を認めるとそんな人がいるからだろう。多様性を広めたいなら多様性で得をしないと思っている人に得をすると思ってもらえるように説得するのが筋だろう。「正解」だから従えなどは笑止千万。

 

だから私はこれから「これこそ世界の正解です。あなたも従いましょう」という人に「それに従って私に何の得があるんですか?」と聞くことにします。

正解が存在するとすると多様性は認めることができなくなる。Aという生き方とBという生き方があった場合、正解があったとしたら寄それに近いものだけが認められ、逆は誤った生き方になってしまう。究極許される生き方はただ一つということになる。多様性は完璧に否定される。

 

なので、多様性を大切にしたい人は正解は存在しないと胸に刻まなければならない。正解が存在しないので、多様性があることも正解ではない。だから多様性を主張する人は多様性を否定する人の存在も認めなければならない。そういう人に対してできることは、「私に押し付けるな」ということだけだ。あと、第三者に対して多様性があった方が得だと説得することもできる。この際注意すべきは「多様性は正しい」「多様性は認められなければならない」とは口が裂けても言わないことだ。なぜならそれを言った瞬間あなたの主張は「多様性」を正解とする多様性を否定するものになってしまうからだ。

 

そんなことでは多様性は消えてしまうと思うだろうか? 確かにその可能性は高い。にもかかわらず現実の人類の多くは多様性を求めている。これは逆説的に多様性が都合がいいものであることの証拠の一つではないだろうか?

 

なお、この主張自体を否定する主張も多様性の観点から認めるべきだと私は考える。私は正解は存在しないと考えるから。

最近話題の漫画の「チ。━地球の運動について━」の第三集にある満ちた金星で地動説を確信するシーンは非常に示唆的である。

 

まず、この話は実は誤りだということを確認したい。内惑星系、地球と太陽と水星と金星の位置関係、についてだけ見れば同書で語られていた地球を周回する太陽をさらに周回する水星と金星というモデルは正しい。このモデルと現実との差は単に座標中心を太陽と置くか地球と置くかだけのことだからだ。なので、内惑星をいくら観察しても二つのモデルの差は見つけられない。実際地球で満ちた金星は見られない(外合の位置になる)。問題となるのは外惑星の軌道で地球を原点に取ると外惑星の軌道はべらぼうに複雑になり、そこから太陽系全体にわたる法則を見つけるのは著しく困難になる。(実は不可能ではない)

 

さて、前置きはここまで。正解があるという信念がどのようなことを生み出すか。まずその功績から。正解があるならそれを見つけようと努力したいと思うのが人情である。一方、正解がないならそれを求めるのは徒労である。正解がないと思っている人は、複雑な外惑星の軌道を見ても「そんなこともあるかもね」で放置するだろう。しかし正解があると信じている人は正解というにはあまりにも混乱したものを見て本当に正解かと追及する。そうしてより妥当な仮説、より妥当な仮説とつき進めていく。科学の進歩が起こるのだ。

 

一方罪状の方。正解がある場合、今まで正解だと信じていたものが正解ではなかったとしたらそれは大ごとになる。今まで正解だと教えてきた人は噓をついてきた、すなわち悪ということになるからだ。なので抵抗が大きくなる。単なる計算を簡単にするための原点の変更が、異端審問に発展したり、コペルニクス的転回やらパラダイムシフトやらたいそうな話になってしまうのだ。正解がないと思っている人にとっては「ああ、こっちの方が役に立ちそうだね」で済む話が。

 

「正解がある」という信念はそれを追い求めたいという気持ちにより進歩の原動力ともなるが、仮説を善悪で判断して新説を悪とすることにより進歩を阻害する要因にもなる。痛しかゆしである。

 

単純に考えた結果だけど、全知全能の神がいるとしたら世界のすべての問題には正解がなければならない。

 

もし正解のない問題が存在したら、神はその問題の答えを聞く質問に回答できなくなるので全知全能ではなくなる。

 

これはアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)のすべてに共通する前提であり、世界の大部分の人が漠然と望んでいることであり、アブラハムの宗教が与える救いの本質であり、残念ながら誤りである。

 

もし正解があれば、正解さえ見つければ何も悩むことはなくなるし、正解に反対するものは全て誤っていることになる。つまり正解である神の教えを知ったものは絶対正義の立場に立てるのだ。これは完全な救いだ。事実なら。

 

でも実際の世界は、大体正義に反対するものは別の正義であり、どちらも正解ではない。

 

日本にキリスト教が伝わったとき、日本人はすでに300年近く正義対正義の戦いを続けてうんざりした状態になっており、正解なんて存在しないことを叩き込まれていた。なので、キリスト教の話を聞いても「ああ、ハイハイ、なんかよくわからない新しい神様ね」としか刺さらなかった。本質である全知全能の種の存在はおとぎ話か何かのたとえ話としか受け取れなかった。なのでキリスト教はそういうもの(one of them)としてしか認識されず、広まることはなかった。

 

でも、実はヨーロッパ人もこの世に正解がないことは身に染みてるんじゃないですか?30年戦争を経て新教と旧教を無理やり和解させなければならなくなったことで。まあ、その和解に納得いかずに大西洋を越えて逃げていった人たちはいまだに理解できてないようですが。

 

「コンピュータはプログラムがないと動かないプログラムの勉強をしよう」

Excel誕生

「プログラムなしでもここまでできるんだ。もうプログラムの勉強はいらん」

「なんか効率悪いなあVBA(プログラム)で効率化しよう」

「Excelを活用するにはVBAが必要、VBAの勉強をしよう」

AI登場

「AIコーディングでここまでできるんだ。もうVBA(プログラム)の勉強はいらん」←今ココ

 

 

 

 

歴史に学ぶ意義はここにある、、、、と思う。

田沼意次 1719年生まれ

1919年生まれ 宮澤喜一

松平定信 1759年生まれ

1959年生まれ 原口一博

 

寛政1年 1789年

1989年 平成1年

 

つまり、今の「べらぼう」の政治闘争は原口一博が宮澤喜一に喧嘩売ってるってこと?

 

よく勝ったな定信。

年をまたいで最後に水星です。日付もまたいでいて12月25日朝5時に撮影してます。鉄塔のすぐ横に見えるのが水星。元の写真だと水星の右下にアンタレスが映っているような気がするんだけど。さらに右上にはさそり座のβ、δ、π星も、、、、、なお、さらに上空にはアルクトゥルスも見えます。