ひむかのブログ

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アクセス稼ぎのためにあえて火中の栗を拾います。まあ、焚火からはるか後方でですけどね。

 

結論から言うと、おそらく中性子の専門家で「弥助は侍ではない」と言い切る人はいないんじゃないかなあと。いや、某ゲームを擁護しているわけじゃないですよ。むしろ「弥助は侍だ」という専門家もあの描写は百パーセント間違いだと言い切るでしょう。でもね、侍か侍じゃないかの二択だとそうなっちゃうんですよ。これは中世において侍かそうでないかの境界問題がものすごくむつかしいからなんですよ。いわゆる武家奉公人の扱いです。

 

念のために言うと、侍の中での階級は逆に厳格に定められています。特に戦場で敵を殺すのが許されているかいないかについては厳格で、許されていないものがいくら戦場で活躍しても手柄になりません。それどころか悪くすると味方に「慮外ものめ」と切り殺される可能性まであります。で、弥助については侍だとしてもこの「敵を討つことが許されていない身分」なのは明らかで、その証拠として明智光秀の本能寺の変後における弥助の扱いはまさにそういう身分の者に対する扱いです。なのでゲームにあるように鎧を着て平時の市中で人を殺しまくったら速攻とらえられて打ち首です。

 

じゃあ侍じゃないだろというとそれは早計で、中世戦国時代であれば、いや近世でも浪人なんかはそれにあたりますが、自分で侍だと言い切るやつをいや侍ではないと言い切る根拠はないのです。先ほど「戦場で敵を殺せる人間は厳格に決められている」と言いましたが、正確に言うと「『戦いが終わった時点で』厳格に決められる」のです。戦場での活躍が著しければ後付けで身分がもらえるんですよね。典型的な例が前田利家の再仕官ですか。戦いの始まる前の利家はそこら辺のごろつきと同じ扱いです。この場合、先に述べたようにいくら活躍しても「慮外ものめ」と切り殺されてなかったことにされるリスクはあるのです。まあ、かつては織田家にちゃんとした身分で使えていた利家にはそういうリスクは少なかったでしょうけどね。出身身分がそれなりにあれば知り合いに「陣借り」として身分保障してもらう手もありますからリスクは少なくなります。どこの馬の骨かもわからないやつだとリスクは跳ね上がります。が、ちゃんとした身分の侍になれるチャンスはゼロではありません。戦場で出世できる可能性が(わずかとはいえ)ある人間を侍じゃないといえるかというと。。。。。実際応仁の乱以前は足軽層はすべてこの「戦場で活躍してはいけない」層だったのです。それが応仁の乱(ある意味人手不足?)で丸ごと「活躍が認められる」層に格上げされてしまった。

 

自称OKなら境界はどうなるんだという議論は当然出てくるでしょう。それは、はっきり言って中世史のホットな話題だと思います。早い話が結論はまだ出ていない。専門であればあるほどうかつなことが言えない話です。なので中世史の専門家が弥助が侍かどうかに責任をもってコメントすることはまずないと思って間違いありません。(呉座先生とかが無責任にコメントする可能性は、、、、さすがにしないか)

 

翻って弥助はどうなるのか?実は侍とみなせる点が一点あります。境界があいまいだといっても一つ見分けやすい点があり、それは一般に認められている武家から扶持を得ているかどうかです。ご承知のように弥助は信長から『知行では決してないですが』扶持は得てます。というわけで「侍だ」とする根拠は実はあるんです。とはいえ、同じような「侍」を近世の武鑑で探すと「御絵師」とか「御大工京都棟梁」とか「御作事方大棟梁」とか「御小普請方大棟梁」とか「御大鋸棟梁」とかが該当しちゃうでしょう。

 

以上長々述べたようにこの話はかなり微妙でよくわからないのです。しかもその結論は論争しているどちらからも気に入られられるはずもない。というわけで、私のような愉快犯以外は歴史に詳しい人はこの話に首を突っ込まないのです。特に多くの人に見られている影響力のある人は。

 

 

追記

なんか「弥助は中間(ちゅうげん)だから武士ではなかった」という話が出回っているみたい。中間というのは武士階級では下働き、まさに武家奉公人階級に当たります。この役職は江戸時代まで存在しており、大概順によると譜代席御家人という比較的格の高い御家人が任命される役、といっても御家人役の中でも下の方で格の低い同心と同じぐらい、なのです。しかし、なぜか比較対象にされている小姓は江戸時代には旗本役ではるかに格上なので、それと比べるとかすのような役職です。でも、そんな身分でも江戸時代でさえ武士扱いされるのです。「武士」って実はそんなものなのです。いや、そんな下級の身分まで武士に入っちゃうんです。

自慢です。

 

宝塚記念で万馬券取りました。

 

今年はエピファネイア産駒×G1未勝利騎手が勝つ⇒ブローザホーン

ダービー&大阪杯と横山家好調⇒ペラジオペラ&ソールオリエンス

 

三連複的中です。

 

え?ほかに買ったのは何か?ですか?まあ、プボと人気馬上位馬で6頭ボックス。。。ワイドも買ってかなり儲かったからよし。

NHKで放映中の八咫烏シリーズアニメ「烏は主を選ばない」が本日クライマックスを迎えるようです。このアニメの反応をYouTubeなどで見てますが、多くの原作ファンはこれらの反応を見て苦笑していると思っています。本日この話は驚愕の展開を迎えますが、このどんでん返しはこれから原作で起きるどんでん返しと比べると大したものではありません。

 

 

ということで以下ネタバレに行きます。

 

 

ここで警告を重ねます。今回のアニメを見て「若宮×雪哉てぇてぇ」とか言ってるお姉さま方、二人の信頼関係や雪哉の中心に心打たれている方々、、、、、、、、、見ないことをお勧めします。

 

 

なんというか、「烏は主を選ばない」という言葉の意味は、「望月の烏」の段階では全く違った意味になります。

 

 

八咫烏シリーズをネタに銀英伝みたいな話をしたい方は「望月の烏」の読了後増えたのではないでしょうか。

 

 

しかし、博陸候登場の衝撃を奪うことを考えると、おいそれとはできない。

 

 

そしてその衝撃を受けて改めて一部を見直すと、実は一番最初からこの話がオーベルシュタイン誕生の物語だと気が付くのです。改めてみればしっかりそのことは仄めかされていました。

 

 

ここまで離せば大丈夫かな。

 

 

というわけで現時点で推定される雪哉の心持を話します。あくまで現時点なので阿部先生のことですからあとでひっくり返される可能性は十分あります。

 

はっきり言うと、雪哉はほぼ終始一貫して若宮=奈月彦に信頼も忠誠も抱いちゃいません。雪哉にとって「主」は大切な山内を守るためのツールなのです。ツールですからあるものを使うだけです。「選び」ません。いろいろ思うところがあるはずの捺美彦とあせびの子でも金烏として使えるなら別に問題ありません。

 

というわけで銀英伝みたいな話に入りましょう。

 

そんなリアリストの雪哉ですから、紫苑の君との銀英伝張りの「民主主義か専制政治か」問答も圧倒的に優位に立ちます。まあ、後のない山内の現状という後ろ盾はあるんですが。「後がない」以上専制政治批判の定番である「賢帝の子が賢帝とは限らない」という理屈は「そんな先のことを気にしている場合じゃない」で一掃されます。そして民主主義の弱点である合意に時間がとられることを「国民全員が賢帝になる必要がある」という一言でそうできるための教育制度を整備することも含めてそんな時間はないと否定してしまうのです。

 

でもこの雪哉の意見も欠点があります。それは「専制政治」などは存在しないということです。端的に言えば、一人ですべてを管理することができない以上政治には協力者が不可欠です。そして協力者がいる以上派閥はできます。派閥ができた以上利害対立でもめます。もめた以上賢帝は誰かの恨みを買います。賢帝を恨む人間ができた以上その人間が賢帝を暗殺する可能性をゼロにはできません。と、ここまで書けば雪哉がこのことを百も承知なのはわかるでしょう。

 

そんなわけで賢帝は自分が暗殺されないように妥協をしなければならなくなります。他者と妥協する政治を「専制政治」と呼べるのか? 妥協せず専制を行うためには協力者が末端まで賢帝と同じように賢明で自分の不利益を甘んじて受ける人間である必要があるでしょう。それって、賢者しかいない国の民主主義と大して変わりませんよね。

 

結局どちらの政治体制も現実には存在しないものなのです。しかし、理想的な政治体制が存在しないからと言って政治をしないわけにはいきません。ですから現実はなんかいい塩梅のところでみんながぶつくさ文句を言いながら進むのです。極論どんな政治体制を採ろうと誰もが少しずつ不幸になります。自分の理想が現実できる人間なんてこの世界に存在しません。

 

まあ、理想を追い求める姿は尊いですが、無理やりそれを押し通そうとすると肝心の社会が壊れます。個々人のある程度のあきらめが社会を維持する肝です。

 

そんなわけで雪哉は山内を守るためにあきらめて貴族と妥協しました。あきらめることを知らない若い紫苑の君には許しがたいことでしょう。で、結局若い阿部先生はその結末をどう描くのか?全く想像できません。「若い」と書いたけど、この作者老獪すぎるように見えるんですよ。全く人生何周目だこの人。

 

ポリコレ勢、野党議員、ネタニヤフ首相、などなど自分を絶対正義だと思い、反対する人の存在を抹殺したがっている人にぜひ見ていただきたい漫画がある。藤子F不二雄作の「ドラえもん」の一話「独裁スイッチ」だ。多分あなた方の理想が実現するのは伸びたが最後に「独裁スイッチ」を押した後の世界だけだ。

 

いやあ、藤子不二雄ではAの方が大人向けFの方が子供向けと思われているが実は逆というのはよく言われるが、年取ってから見る藤子F不二雄の「ドラえもん」はかなりハードに感じるものがちょこちょこある。

終わった。なんか、結局初戦の第三クォーターがすべてだったような気がする。プレイオフのプレッシャーはすごかった。ファイナルが終わるまで書かないでいようと思っていたけど、その前に終わってしまった。最後泰斗は泣いていたんじゃないだろうか?Bリーグ発足当時からの名古屋の顔だから思うところも大きいのだろう。以前書いたときには主役がいないと書いたが、やはり最終版の十数試合にはしっかり須田や齋藤が主役の存在感を見せてくれた、が、最後は届かなかった。齋藤はケガしちゃったし。

 

こうなったら広島には勝ち抜いて伝説を作ってほしい。

 

しかしちょっと前のBリーグは東高西低だったのに、昨シーズンは琉球が優勝して、今シーズンはプレイオフ進出の3チームがすべてセミファイナルまで進んだという変わりよう。明日琉球が勝てばファイナルが西同士ということに。

 

しかし、そこに地区一位のチームはいない。。。。。。

昨日大垣城に行ってきたんですよ。で、写真を撮ったら思ったよりうまく撮れたような気がするのでご紹介します。

 

とりあえず天守閣。

見にくい。いや、とったときはこれがいいと思ったんですけど、狙いすぎでしたね。

 

 

近くによって見上げてみました。こういう撮り方がいいとどこかに書いてあったので真似してみました。迫力があると思いませんか。

 

石垣を見るときはここを見ろと言われた隅の部分。なんか、素朴さを感じます。1500年築城(まあ、天守閣がその時代からあったわけではないだろうけど)らしいと、、、、、言っていいのだろうか?

 

で、結局これが一番うまく撮れたと思う写真です。城門の写真。

 

名古屋栄セントラルパーク地下街でついこの間まで段田安則(藤原兼家)主演の「リア王」の宣伝をしていたと思ったら、今度は吉田羊(藤原詮子)主演の「ハムレット」の宣伝が始まった。次当たり秋山竜次(藤原実資)主演で「オセロ」をやるんじゃないだろうか?あるいは玉置玲央(藤原兼家)主演で「マクベス」?

最近思うのだが、織田信長というのは一週回って革命児なのではないだろうか?

 

最近の研究で信長が一般に言われているより保守的で伝統的な権威を大切にしていたことが示されるようになってきた。いわゆる革命児信長というのが虚像であるという説である。しかし、ここで一度立ち止まって革命児とは何なのかから考え直してみよう。革命というのは今までの状況をひっくり返すということだ。では、信長の生きた時代の「今までの状況」、すなわち室町時代とはどんなものなのか。これがなんかすごいのである。

 

これも近年の研究なのだが、なんか室町時代の人間って権威を自分に都合がいい判決を出してくれる存在と思っている節がある。権威が常に自分の味方をしてくれるなんてそれこそそんな都合のいいことあるかと思うかもしれないが、大丈夫、権威が自分の言うことを聞かないなら言うことを聞く権威と挿げ替えればいいのだから。それをあらゆる人があらゆるレベルでやっている。うまい具合に権威は分裂しているので選択の余地はいくらでもある。権威の側の人間も自分が権威になるために利用しようとする人間に媚びまくる。歓心を買うために朝令暮改も平気でやる。これぞごね得の時代。みんながごねまくっているのだから争いが終わるはずもない。

 

そんなところに「唯一の伝統的権威を押し立てて他を排除し朝令暮改を決してしない」ということを力ずくで実現したらそりゃ革命だろう。現在の基準では保守的になるかもしれないが、同時代から見たら革命的。そういうことは結構ある。信長にとって都合がよかったのは、押し立てた権威である天皇家があまりにも棚上げされすぎてその立場に魅力がなくなったためか、その時点で分裂しておらず対抗馬がいなかった点である。なので現朝廷の判断を最終結論としてもそれをひっくり返す存在を誰もつれてこられなかったのである。(朝廷の判断といっても実質信長の判断だろというのは置いておいて) それを意識してかはわからないが、いわゆる信長による朝廷への干渉は朝令暮改を諫めるものばかりに見える。

 

かくして朝廷の決断は変更できない最終判断となり、ごねる余地は失われる。ごねても得るものがなければ無駄な争いは誰もしたくはない。まあその後も紆余曲折はあるけど、かくして太平の世が出来上がったわけだ。

昨日久しぶりに名古屋ダイヤモンドドルフィンズの試合を見てきたので感想を。

 

いきなりだがドルフィンズアリーナは階段が多い。わかっていたから病み上がりの去年は完全に観戦をあきらめたのだが、まさか今の入場口はいきなり階段を上らせる構造になっているとは。新しいアリーナでは改善されることを期待。

 

さて試合だが、いきなり拓実が頑張ってくれた。いや、点を獲ったわけではないのだけど、相手のボール運びに対するディフェンスで体をぶつけて激しく行っていた。こりゃ相手のポイントガードは消耗しますわ。こういうのって、画面越しだとなかなかわからないけど、現地で見ると二階席からでも体がぶつかる音が聞こえてきそうなほどよくわかる。

 

そして名古屋のワークマン、ジョシュア・スミスの活躍も相変わらず素晴らしかった。先発メンバーに疲労が出てくるころに元気なスミスがあの幅でペイントにいたら絶望的にもなるだろう。古巣相手に見事に恩返ししていた。彼はこういう使い方でこそ輝く選手だと思うのだけど、富山にいたときは出ずっぱりのエースだったからなあ。もったいなかった。今は水を得た魚だと思う。

 

そして困ったときの中東。まさか泰斗がこんなに頼れる選手になるとは。

 

そんなわけで大勝したのだが、いいところばかりではない。今まで褒めてきた選手はどうしてもわき役感がぬぐえない。主役不在を感じた。須田がその役割を果たすべきなんだけど、けが明であまり出れなかったのは残念。まあ、無理にたくさん出る展開でもなかったけどね。

 

そして、主役候補となるべき坂本聖芽。彼には本当に一言いいたい。とにかくシュートを打て。遠慮するな。なんか、打つべきタイミングを外すことがものすごく多かった気がする。打つべき時に打ってくれないと周りがガクッときて、もっと強い相手とやるときには流れを相手に献上することになりかねない。打てば入るんだから(多分)自信を持って打ってほしい。そうすればいつか主役の座につけるはずだ。

ピンとくる人にだけ向けて書いています。気になる人はググるとわかると思います。

 

「光る君へ」で藤原兼家を演じている段田安則さんが、4月に愛知県刈谷市において「リア王」でリア王を演じるそうです。(笑)

 

名古屋市のセントラルパーク地下街で盛んに広告が流れてます。なんというか、まあ、道長は我が身をなげうって父に諫言するようなタマではないですけど。