アニメからは想像がつかない八咫烏シリーズ【正六位下 日向守】 | ひむかのブログ

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NHKで放映中の八咫烏シリーズアニメ「烏は主を選ばない」が本日クライマックスを迎えるようです。このアニメの反応をYouTubeなどで見てますが、多くの原作ファンはこれらの反応を見て苦笑していると思っています。本日この話は驚愕の展開を迎えますが、このどんでん返しはこれから原作で起きるどんでん返しと比べると大したものではありません。

 

 

ということで以下ネタバレに行きます。

 

 

ここで警告を重ねます。今回のアニメを見て「若宮×雪哉てぇてぇ」とか言ってるお姉さま方、二人の信頼関係や雪哉の中心に心打たれている方々、、、、、、、、、見ないことをお勧めします。

 

 

なんというか、「烏は主を選ばない」という言葉の意味は、「望月の烏」の段階では全く違った意味になります。

 

 

八咫烏シリーズをネタに銀英伝みたいな話をしたい方は「望月の烏」の読了後増えたのではないでしょうか。

 

 

しかし、博陸候登場の衝撃を奪うことを考えると、おいそれとはできない。

 

 

そしてその衝撃を受けて改めて一部を見直すと、実は一番最初からこの話がオーベルシュタイン誕生の物語だと気が付くのです。改めてみればしっかりそのことは仄めかされていました。

 

 

ここまで離せば大丈夫かな。

 

 

というわけで現時点で推定される雪哉の心持を話します。あくまで現時点なので阿部先生のことですからあとでひっくり返される可能性は十分あります。

 

はっきり言うと、雪哉はほぼ終始一貫して若宮=奈月彦に信頼も忠誠も抱いちゃいません。雪哉にとって「主」は大切な山内を守るためのツールなのです。ツールですからあるものを使うだけです。「選び」ません。いろいろ思うところがあるはずの捺美彦とあせびの子でも金烏として使えるなら別に問題ありません。

 

というわけで銀英伝みたいな話に入りましょう。

 

そんなリアリストの雪哉ですから、紫苑の君との銀英伝張りの「民主主義か専制政治か」問答も圧倒的に優位に立ちます。まあ、後のない山内の現状という後ろ盾はあるんですが。「後がない」以上専制政治批判の定番である「賢帝の子が賢帝とは限らない」という理屈は「そんな先のことを気にしている場合じゃない」で一掃されます。そして民主主義の弱点である合意に時間がとられることを「国民全員が賢帝になる必要がある」という一言でそうできるための教育制度を整備することも含めてそんな時間はないと否定してしまうのです。

 

でもこの雪哉の意見も欠点があります。それは「専制政治」などは存在しないということです。端的に言えば、一人ですべてを管理することができない以上政治には協力者が不可欠です。そして協力者がいる以上派閥はできます。派閥ができた以上利害対立でもめます。もめた以上賢帝は誰かの恨みを買います。賢帝を恨む人間ができた以上その人間が賢帝を暗殺する可能性をゼロにはできません。と、ここまで書けば雪哉がこのことを百も承知なのはわかるでしょう。

 

そんなわけで賢帝は自分が暗殺されないように妥協をしなければならなくなります。他者と妥協する政治を「専制政治」と呼べるのか? 妥協せず専制を行うためには協力者が末端まで賢帝と同じように賢明で自分の不利益を甘んじて受ける人間である必要があるでしょう。それって、賢者しかいない国の民主主義と大して変わりませんよね。

 

結局どちらの政治体制も現実には存在しないものなのです。しかし、理想的な政治体制が存在しないからと言って政治をしないわけにはいきません。ですから現実はなんかいい塩梅のところでみんながぶつくさ文句を言いながら進むのです。極論どんな政治体制を採ろうと誰もが少しずつ不幸になります。自分の理想が現実できる人間なんてこの世界に存在しません。

 

まあ、理想を追い求める姿は尊いですが、無理やりそれを押し通そうとすると肝心の社会が壊れます。個々人のある程度のあきらめが社会を維持する肝です。

 

そんなわけで雪哉は山内を守るためにあきらめて貴族と妥協しました。あきらめることを知らない若い紫苑の君には許しがたいことでしょう。で、結局若い阿部先生はその結末をどう描くのか?全く想像できません。「若い」と書いたけど、この作者老獪すぎるように見えるんですよ。全く人生何周目だこの人。