~第六章 『汝既に知れりと知れ』~ 

わたしは病気治しについて何か話をしてくれと頼まれました。本当のところを申しますと、わたしたちは自分で自分を治しているだけです。それにはある非常に強力な要因があります。というのは、各自が銘々の裡に神性即神を認めるや否や、認めた本人と神とは結合されて、病気に対して絶対多数となるわけです。きまってその通りになります。

そもそも真理は不完全なるものを全然知りません。世界中の神癒の行われている神殿で起こるのも、全くこの道理によるものです。このような聖所に行くとき、人々はきっと奇蹟の成就と完全なる健康回復ばかり思い続け乍ら神殿の霊波を受けるので治癒が起こるのです。わたしたちはそれを写真でお目にかけることができます。

わが国(アメリカ)のある大都市の或るお医者がわたしたちと一緒に仕事をしたことがありますが、その方が実験の目的で、同僚に医者仲間で治せない病人をΧ線写真とカルテを添えてよこしてくれと、頼んだことがありました。わたしたちの使っているカメラは病気のある箇所を示す式のもので、寿命があって健全な場合には、肉体が燦(きらめ)き乍らフィルムに写ります(1)。

このカメラで写してみると、肉体から光が実に三十呎も出ている患者もおりましたが、わたしたちが扱った九八例の中、完全に治って帰るまでに、カメラの前に三分といた者は一人もいません。わたしたちは只こう言っただけです。

『いいですか、あなたはこれまでにエックス線フィルムに映った暗い所にばかり注意を集中してきたでしょう。光やこの明るい所など、光の源に注意を向けたことは全然ないでしょう。さあ、もうそんな暗い所などすっかり心から放してしまいなさい、そうして明るいところ、明るいことばかりを一心に考えるんです』とね。

すると、九八例とも皆んな銘々担架にのせられてやってきたんですが、全部が全部完全に治って帰りました。どうです、まさしく自分で自分を治している証拠じゃありませんか。そういう訳で実は皆んな自分で自分を治しているのです。これはもう絶対です。もしわれわれがこのように、どんなことがあっても積極的な考え方を続けて行くならば、遠からずして病気など無くなってしまうでしょう。

一旦、病気の名がついてしまうと、われわれは心の中でその病名を何度も何度も繰り返すものです。ところで想念と名前とは「物」なのです。従ってもしわれわれが、真理を知らぬ人々がやっているように、この想念と名前とを絶対視して、その想念を起こしたり名前を口にしたりしてそれぞれのもっている波動を起こすと、完全にその想念や名前の通りのものが実現してしまうのです。

今までに人間世界に現われてきたものすべてを調べてみると、これが真理であることがわかります。だからわたしたちは、自分の中(実相・神我)へ入り込み、掘って掘って掘り下げて行かなければならないと考えるのであります。このことは研究をすすめているうちに解ってきた事です。しかしそれまでは、道標(みちしるべ)になるものもなく、むしろ必要に応じてわたし自身でその道標を樹てて来たのでした。

研究がかなり進んでから、間違いを犯していたことに気付いては後戻りして、又仕事をやり直したりもしたものでした。ですから、まるでアンヨを覚えだした子供みたいなものでしたが、今では機械的な装置なども持っているのでチャンと歩くこともできるし、又一旦は諦めて仕事をほうり出した処から取り上げてくれる装置の数を増やしつつもあります。前置きはそれ位にして、わたしたちはこんな体験をしています。

或る特殊の仕事に要員が一人要ることになりました。それまでに或る与えられた問題について長い間研究をしていたのですが、そのうち見たところ、どっちの方向を取っていいのか分からない幾つかの問題にぶつかってしまいました。丁度その時、この青年がコロンビア大学からやってきたわけです。彼はその時までこの種の仕事をやった経験はありませんでした。ところが何と二十五分後には、この問題を解決してしまっているのです。

われわれ自身はこの問題全部について約四年間もの間研究してきたというのに。一体どうしてそんなことが起こったんでしょう。実は彼には常に『自分は既に知っているんだ』という悟りがあったのです。それで仕事室に入ると、『こういう事情ならよく知っている』と自分自身に言い聞かせ、この悟りによって解決を生み出したのです。又、これと同じことが起こったことがありますが、正真正銘の事実です。それはカルカッタ大学でわたし自身の上に起こったことです。

わたしが四歳のときにカルカッタ大学のいわゆる予備校に仲間入りしました。そもそもの出席第一日に、教師はわたしに言ったものです、「ここにアルファベットがある。それについてどう思うか」「わかりません」と、答えると、「そんな考え方ばかりしているといつまでたっても解りはしないよ。ここで考え方を廻れ右させて、その『解らない』という考え方を捨ててしまって、『チャンと解っている』という態度に切り換えることだ」と教えてくれたのでした。

実にこの事件のおかげでわたしはその学校を卒(お)えると、更にカルカッタ大学に進学し、十四歳で卒業したことでした。この方法はあんまり単純なために見過ごしてしまい勝ちなものです。われわれは、大学に入ったら本の中に入り、掘って掘って掘り下げるべきもの、本の中にあるのを全部掘り出すべきものと考えるものです。しかし本に書かれている程のものなら、本当は自分の実相に於いては既に解っていることなんです。

皆さんがこの行き方をすればチャンと解って来るのです。皆さんは、本にある事位は実は既に自分の中に在るという正しい受け取り方はしないで、本に頼ってそれを松葉杖代りにしてしまっているのです。本当は皆さんが主人(マスター)なんです。皆さんがそういう行き方を駆使(マスター)することです。しかもそれは人生のあらゆる職業で可能なのです。

人々は自分の消極的状態乃至意識より起き上がるにつれて、この真理を認識し始めています。消極的意識はわれわれにとって何の価値もなかったことを次第に学び取っています。では何故そんなものを温存するのですか。大事なのは『悟ること、そうして、自分は自分が口にするもの自体である』ことを知ることです。そこから始めて皆さんは前進が続けられるのです。

色々な計画をもって前進しつつある人々は、殆ど全部が、今ではこの態度を取っています。又現在次々と出てくるいろいろな発明の九〇パーセント以上がそうです。その結果はどうです――御覧の通りの素晴らしい成果を挙げているではありませんか。しかも尚、現在続々と成果を挙げつつあるし、且つ過去六年でそれ以前の八十年間でした以上のことを仕遂げているではありませんか。

わたし自身そのような体験を、しかも今申し上げた期間よりも、もう少し長い年月にわたってやってきています。ですからどうして長足の進歩をとげたか、わたしには正確に解ります。それはわれわれが毅然として自分自身の足で起ち上がり、「自分は本来既に知っているんだ、しかもそのことを自覚していた」からであります。発明・発見といっても、実は誰かが思いつく前、見つけ出す前に、既に実相の世界には存在していたのです。

もし何かの発明・発見が本来既に存在しているのでなければ、何人もその想念波動をキャッチし得ない筈です。もともとこの波動が起こって始めて誰かに認識される仕組みになっているのですから。この波動は実は既に此処にあるのであって、自分の心と想念とを訓練すれば、直ちに自分のかくありたい、かくなしたいと思うものを正確に知るようになります。われわれが今日著しい進歩を遂げたのは、実にこの理由によるのであります。

勿論、そこに行くには極めて多くの道があるわけで、それは今更言うまでもありません。又、その事を認識する人々も少なくはありません。しかし認識しない人々は特に努力をして『自分は本来は既に何でも知っている』ことを知り、そのことをキッパリと言い切って欲しいものです。人をして常に難業を貫徹させるのは、実にこの自己自身への明言によるのであります。

天(あま)が下に新しきものなし、とはよく言われることですが、その通りです。人が或る事物を思いつくのは実はすでに実相の世界において与えられているのであり、それは波動(ヴァイブレーション)として宇宙に満ちており、このヴァイブレーションのうち代表的なものを人はキャッチする寸法になっているのです。故に「天が下に新しきものなし」であります。

これらの「場」はすべて或る波動の影響下にあります。われわれの人生全体が波動でもあります。勿論われわれはこれらの波動を或る程度まで自分から引き離したりもしますが、逆にそれを自分の中に取り入れ、自分のものにすることもできることが解り出すと、そうすることが全く自然の行為となってくるでしょう。

今では殆どすべての発明家が、実は曾て既に何らかの周波数の波動で記録されたものを自分が改めて再記録、又は引き出しているにすぎないことを理解しています。これまでにものにされた書物にしても、すべて曾て波動として記録されたことがあるものです。又、およそ口より出た言葉で消滅するものはありません。一切はエネルギーの場、或は周波数と名づけられる場の中にあるのです。

「愛」はその周波数では非常に「神」に近い言葉です。われわれはそれを利用して病気を癒した例を幾つも知っています。今までに知られている病気は、すべてこの愛を出せば、その力に負けてしまうものです。愛は又、その人の周囲に極めて顕著な形のオーラを築くので、愛を出している場合は殆どそれとわかる程です。それは丁度、防護服のようなものです。

医者をしているわたしの一友人が、ずっと前にスー族インディアン保護地区の戸籍官に任ぜられたことがありますが、そこへわたしが訪問したときのこと、彼がその部族のいわゆる蕃医(メディシン・マン)のやるテストを見るようにすすめてくれたことがあります。その蕃医に会ってみると普通の蕃医とは違うところがありました。

というのは、彼は前に家を出て五年間も瞑想にふけったことがあり、瞑想から出たときにはもう病を癒せるばかりになっていたのです。さて、彼は先ずゆっくりと第一のテストを始めました。鍋の中の煮えたぎっている湯に片手を入れて、その中からひときれの肉を取り出しました。ところが手は全然どうもないのです。そのあと、わたしはこの男と二ヶ月以上もつき合っていますが、その間全然何処もどうもありませんでした。

二番目のテストでは、彼の種族の中で一番優秀な狙撃手三人に銃をわたし、三人の前に或る距離をおいて静かに立ちます。N博士と私とが弾倉から前の弾丸(たま、複数)を抜き取り、弾丸の中の火薬も抜き出し、新しい火薬と詰め替えてイカサマができないようにしました。ところが、狙いうちに発射されたこの新しい弾丸が、この男の胸の上でペシャンコになってしまいました。

わたしは、このつぶれて平たくなった弾丸のうち、二発を今でもずっと持っています。この男が自分の小さな三角テント小屋の中に座を占めると、色々の不具者や病人が彼のもとにやってきては完全に癒されて帰るのでした。わたしたちはそれを度々目撃しています。わたしは彼と親しくなり彼のやり方を訊ねたところが、われわれ西欧人が神の愛を表現する場合の行き方と同じであると答えてくれました、彼はまだ生きており、その偉大な病気治しの業(わざ)を続けています。

しかし新聞雑誌に彼のことが出ることは決してありません。その生活は全くの隠遁生活で決して自分を語ることはありません。『能うかぎりの愛を人々に与えるのが、人生におけるわたしの役割です』と、この人は語っています。皆さん、黙々と無我の心で神の愛による本当の奉任をし、しかも人に滅多に知られずにいるスー族インディアンが一人いるのです。

又、数年前テキサスで、年は僅か五歳にすぎないが、生まれながらの愛による神癒家(ヒーラー)の少女の噂を聞いたので、彼女に会いに行ったことがあります。

母堂の話では、この少女は誰に対しても、いつも「わたし、あなたを愛していてよ」と言うし、「みんなの周りにもわたしの周りにも愛が見えるわ」とよく言うそうで、病人がいると聞くと、その人のところへ連れていってくれと母親に頼み、病人の部屋に連れられて入ると、殆どその瞬間に病人がベッドから起き上がり、完全に治ってしまうのでした。この娘はどんどん成長して、今では偉大なる業を為しつつあります。こういう例は他にも沢山あります。

オランダに或る一人の少女がいます。オランダには赤いクローヴァーが生えていて、地面から十五吋から一六吋の高さに伸びて美しい花を咲かせますが、それが丁度農家の玄関の高さ(ママ)位なんです。或る日曜日の午後、その少女を訪ねて行って、少女と二人で正面玄関に坐っていましたが、そのうちこの少女はクローヴァーの生えている野原に出て行ったのですが、何とクローヴァーのまさしく頭の上を渡って行くではありませんか。

足なんか全然地面につかないのです。それでいて当たり前に歩みを運んでおり、今度は向きを変えて戻り、又玄関に下りてきたのです。どうしてそんなことが出来るようになったのかと聞くと、「わかりません、わたしはただ皆んなに愛を与えているだけですの。わたしあのクローヴァーを愛していますの。すると、クローヴァーがわたしを上に挙げてくれるのですわ」と、答えるのでした。

調べてみると、事実その通りでした。彼女は自分の遊び友達のこともいろいろと話してくれましたが、彼らにも愛していると言うし、又彼らも彼女を愛していたので、彼女の遊び友達には、病気とかその他の変事等起こり様がありませんでした。わたしはこの娘が二十一歳になるまでつきあって知っていましたが、二十一歳頃にベルギーに移り、それから消息が絶えてしまいました。

彼女の父がわたしに語ったところでは、彼女の使う言葉は誰に対しても只愛するということだけだったそうです。わたしがスペインにいる時、世界でも一番大きな銅山の一つとして教えられている鉱山に、或るロシア人の家族が移ってきましたが、その中に十一歳になる少女がおり、父親はその鉱山で働いていました。その子供はいわゆる『触(さわ)って治す力』があるという評判でした。

彼女は病人に手を按(お)いて、『わたしはあなたを愛しています。わたしはあなたを大変愛しています、ですから、あなたの病気はもうなくなりました、消えましたよ。消えたあとを、わたしが愛で一杯にしておきました』というのです。その噂は事実でした。或る不具者の例のごとき、患者の少年は完全に癒されたのでした。

てんかんの殆ど末期にある人を見たことがありますが、彼女がこの人に片手を按いて、『あなたの身体は愛で満たされています。そうしてただ光だけです』と言うと、三分もたたぬうちにその悪疾が完全に無くなりました。彼女の全存在から発する光と愛とは、われわれが実際にそれを見、それに触れることができたほど極めて強烈なものでした。

わたしがまだ子供の頃、インドのコカナダにある自宅のすぐ外で、何名かの子供たちと遊んでいたことがあります。そのうち日が暮れたかと思うと、夜の闇がつるべ落しに近づいてきました。あそこでは黄昏時(たそがれどき)というのがないのです。ところが遊び仲間のうちの一人の少年が、一本の棒切れを拾い上げると矢庭にわたしの腕を横に払ったものだから、骨が二本とも折れて手が後ろに行ってしまいました。

勿論、始めはおそろしく痛いでした。しかし、やがてわたしは先生から前に教えられていた或る言葉を思い出しました。それは『暗き処に行き、汝の手を神の手に委ねよ、そは一筋(ひとすじ)の光よりは良く、既知の手段(てだて)よりは完全なるが故なり』ということです。すると光がわたしを取り巻いたかと思うと、殆どその瞬間に痛みが完全に消えてしまったことでした。

わたしは一人になろうと思って大きな菩提樹に登ったが、それでもその光はわたしを取り巻き続けていました。わたしはそれを神の臨在と思って見つめていました。そういう風にして樹の中に一人で坐っていると、何と手がひとりでに治ってしまったのです。わたしにとって忘れられない憶い出です。わたしは一晩中、樹の中にいました。

翌朝になると、折れた二本の骨の周りが一ところ少し盛り上がっただけで、あとはもう何ら骨折のあとかたもありませんでした。一方わたしの両親は、わたしが何時もの通り召使達に世話されながら寝ていたものと思ったらしく、わたしがいきさつを話して聞かしても本当にせずすぐ医者のところにわたしを引っ張って行きました。

医者は、一応骨が折れはしたが、今では完全につながっていると言ってくれました。その日以来今日に至るまで、わたしは手のことで困ったことはいっぺんもありません。この様な実例のうち以上の数件だけをわたしは引用しましたが、いずれもその行き方は極めて単純であり自然であります。従って、誰にでもできることです。わたしは建物自体までが会衆の注ぐ愛に反応するのを見たこともあります。

不滅の釈迦が言われたように、「真実の神の愛の実現に五分間を割(さ)くことは、貧しい人々に千碗の食糧を施すよりも偉大である。何故ならば愛を与えることによって、宇宙のあらゆる魂を援(たす)けることになるからである」。結局、帰着するところはわれわれの語るコトバであり、おこす想念であり、感情であります。言葉は物です。想念も物です。想念のあるところに、すなわちあなたがあるのであります。

わたしたちが自分の想念や感情を訓練し統御して、積極的・建設的言葉のみを用いることにし神の愛を出すならば、わたしたちの肉体と心とはかの正義(即ち心や言葉などの「正しい用い方」)に応じ、正しい動き方をするようになるのであります。言葉の正しい撰択と使用は極めて重大ですが、同様に重大なのがその言葉の背後にある感情です。何故なら、感情は言葉を生かす原動力だからです。

これこそが神の愛の入る場所なのです。と申しても、無暗矢鱈(やたら)と「愛、愛、愛と言いながら歩き廻れ」というのではありません。言葉をひとたび感情やヴィジョンや確信を籠め、寛容を以て話すならば、直ちに法則が発動してそれを実現せしめるのであります。『あなた方が話す前にわたしは答えている』と聖書にあるように、結果はすでに実相界に実存しているのであります。

仏陀の言葉を借りて言えば、『愛を用いよ、愛に一心を集中し、朝も昼も夜も愛を以て自らを持せよ。坐して食事を摂るにも、愛を用い、愛を思い、愛を感じよ、そうすれば汝の食物の滋味は一層深きものとなるであろう』。仏陀がお説き下さった珠玉のようなみ教えには、これまで印刷に付されていないものが数多くあります。

詩人タゴールはそれを沢山、彼の著作の中で活用しました。タゴールは愛を用い、愛を表現する方法を教わっている人でした。彼は愛を知っていました。彼は愛そのものでした。彼は現に愛そのものであります。『愛はありとしあらゆるもののうち、このうえなく大切なものである。それは天国の黄金(こがね)の門である。愛についての理解が深まるように祈るがよい。

毎日愛についての瞑想を為せ。愛は恐怖(おそれ)を追い出す。愛は律法の完成である。愛は無数の罪を征服する。愛は不屈である。愛はすべてに勝利する。豊かなる愛によって癒えざる病はなく、豊かなる愛によって開かれざる扉はなく、豊かなる愛によって超え得ざる水峡(みなかい)はなく、豊かなる愛によって倒れざる壁はなく、豊かなる愛によって贖(あがな)い得ざる罪はない』(『未知の雲』(2)より)

         質 疑 応 答 
問 僕はインドで七、八年間暮らしたことのある医者を知っているんですが、彼はアメリカに帰国すると県医師会に挑戦しましてねぇ。毒性の最も強いチフス菌やその他の菌の入った試験管を持って来させて、一群の若者たちを殺せるだけの量を飲んでしまったのに、どうもなかったんですよ。後でわかったことですが、甲状腺の意識的なコントロールだったんですね。明らかに免疫機構をコントロールしたわけです。
答 そうです。どんな病気にでも免疫になれるものです。

問 甲状腺を意識的にコントロールすればどういうカラクリによって、細菌の災害防禦に極めて重要な酸に、影響を与えるのですか。
答 甲状腺を意識的にコントロールすると、酸(の分泌や濃度)が大幅にコントロールされます。この甲状腺は殆ど無制限に酸を制御したり刺戟したりできます。自分達にバクテリアのコントロールができるのは、やはりこの理由によるのだと、或る数名のインド人達の話すのを聞いたことがあります。酸はバクテリアを簡単に殺してしまいます。甲状腺は或る種の訓練で刺戟されますが、その方法はそれに精通している人から授からなければいけないが、結局は甲状腺を刺戟して適量の液を出すことに帰着します。

問 副甲状腺も何か役に立ちますか。
答 役に立ちます。副甲状腺は非常に素晴らしい附属器官で、カルシュウムや石灰の同化作用を統御するものです。これを刺戟することによって、カルシュウムを組織の中に摂り入れて、例えば何時でも新しい歯並みにしてしまうことができます。

問 どんなにして刺戟するんですか。
答 その刺戟方法の中での重要な要素は或る霊的力によって甲状腺に一心集中することで、結局はそれがポイントです。

問 それは呼吸の統御と酸化作用の分野に入るのですか。
答 呼吸法には霊的な面も伴わなければなりません。つまり霊的なものを適用して想念の訓練をすることです(3)。

問 一心集中というと、甲状腺が完全に働いていると心の中で描くことですか。
答 そうです、完全な秩序と完全な調和のうちにね。

問 姿勢と呼吸との訓練をすることによって、呼吸と甲状腺とそれから酸化作用との間に、何かはっきりした繋がりが出て来るのではありませんか。
答 出て来ます。姿勢や呼吸法の訓練をさせるのもその為であって、つまりは肉体のあらゆる営みを全て霊の影響下におくためです。しかしながら、その面の教師で、弟子たちに霊的な活動、つまり霊的考えを実地に行動に移させる教育をしないで、こういう姿勢や呼吸法の訓練を授ける者はいません。こういう訓練によって漸く或る種の霊的影響を受けるようになり、それによって殆ど瞬間的に霊的機能を盛んに働かせることのできる人も沢山います(4)。

問 副腎の方はどうですか。
答 副腎は血圧と関係があります、甲状腺はその他全部をコントロールするわけです。甲状腺は脳下垂体によって、脳下垂体は松果腺によってコントロールされます。キリストが言われたように幼な子のように松果腺が目覚めていなければならないのもそのためです。〔大人を〕検屍してみるとあたら松果腺が広範囲にわたって麻痺しているのがわかります(5)。そうなると、わたしたちは天国からは締め出しを喰うのであります。松果腺は内分泌全体を司る最も重要な中枢であって、肉体の主、I AM(神我)の座であります。

問 そういう風な内分泌腺の働きの促進について、プラナと呼吸法の観点から論じられる大師方はおられませんか。
答 プラナを受けている時は即ち霊的働きを受けているのであるというのが大師方の態度です。大師方のお話はやはりすぐ霊的働きの事に戻ってきます。この霊的働きはそれ自体が最大の活動であると同時に又、活動させるものです。それは若いという思いを起こさせるものだと強調しておられます。若いという自覚があると、脳下垂体と松果腺とがすぐに活動しだすものです。

問 そういったことを考えると、イエスは弟子達に、内分泌を働かせるこの方法をハッキリと教えられた筈だとは思いませんか。
答 思いますね。キリスト的方法、即ち、愛の実践を通じてね。イエスは、もし人が幼な児のようになるならば天国に入るであろうと、打てば響くが如くにも言われたことでした。

問 現代の生化学の奇蹟的現象を発見しつつある物質科学者は、大師方よりインスピレーションを受けているのでしょうか。
答 その通りです。これらの科学者を通じて人類の利益のために、人類に対して、み業が為されつつあるのです。

訳者註
(1) 特殊の薬品を塗ったスクリーンを透して人体より発する霊光(オーラ)〔但し肉体より発するのではなく、幽体・感情体・精神体などより発する〕を肉眼でも見ることができるが、病患部は光が薄いか、光を全く欠くかして暗い。健康度が衰えるに従って、光の長さが短くなり、薄く暗くなって行く。
(2) 「道」を志す者に取っての古典的文献であるが、著者不明のまま伝承されている。
(3) この項原文も正確な意味は不明。
(4) この項原文も正確な意味は不明。
(5) 現代医学では松果腺の機能は今猶、未知の領域にある。松果腺は直観、テレパシーを司り、自然の神秘的力を支配する座でもあり、精神の浄化と一心集中によって目覚める。従って幼時はよく働くが、成人するにつれて一般的には麻痺して行く。