~第五章 神の子の生き方~ 

人間が以上のような思想を持てばどんなことができるか、又現実にどんなことを成し遂げるか、という問題を取り上げてみましょう。わたしたちがチベット、インドや蒙古まで調査をしたとき、この問題に関連して体験したことは極めて顕著なもので、人間は自分自身だけでなく、人類全体をも守護する力のある事実をまざまざと見せつけられたのであります。

人類全体の守護というとトテツもないことのように思われますが、歴史をふり返ってイエスの生涯に思いを致し、イエスが嘗て人類のためにしたこと及び現に為しつつあることを理解すれば、納得もゆきやすく、それだけ又、受け容れることも比較的容易にできるわけです。イエスのみ教えは二千年だけで終ったのではなく、その後も綿々と続き、今猶、当時のように生々として脈を打ち続けているのであります。

わたしは前に河の水の上に立った大師方と、その方に向って水上を歩いて行った弟子達二人のことを話したことがありましたが(1)、この話には大きな教訓が含まれています。それはわれわれが自然力を信じて使用し、その便益を受け得る方法を示しているのであります。

と申しても、必ずしも水上を歩くというのではなく、客観的には水中に没しかけているように見えてもそのような客観状態より抜け出て主観的状態〔吾、神にして、一切は神の現れであり、吾、神なるが故に、万物万象を支配す――との自覚〕に入れば、その力を肉体支持に完全に利用し得るということです。このような状態にあるとき、われわれは実相力を発揮するのであります。

それではもはや有為転変(ういてんぺん)に支配されることはありません。有為転変とは客観のみの有為転変であって、主観は決して変化するものではないのです。純霊は如何なる方法によるとも変移するものではありません。基本原理は常にみずからを、貫き通すものです。さて、われわれがこの基本原理のみに注意していると、自分自身がその原理そのものになってしまうのであります。

尤もそんなことをしていると、寂滅沈滞の状態になりはしないかと思う人もいるかも知れませんが、そういうことはありえません。われわれが何かを為し遂げて、しかも有為転変にさらされることなく、或は只単に為し遂げるつもりだというだけではなく、現実に自分が為し遂げつつあることを自覚しつつ、更に或る明確な線に沿って前進し得るのは、まさにこのような態度に悟入したときであります。

われわれが常に自分の悟性に従い、一定の思想を持して生きて行くならば、有為転変はあり得ないのであります。それにしてもものごとは常に進行を伴います。この進行によってわれわれは別の表現、乃至状態に移って行くのです。老齢の如きその適例であります。老齢とは客観的なものです。われわれ自身もいずれはそうなることになっています。

しかし一体、老齢になる必要があるのでしょうか。否です。仮にわたしたちが空間遙か彼方に移動して、この地球より完全に離れ去ってしまったとしましょう。もはやそこには時間はありません。従って、そこに地上の計算で百年間とどまったとしても、年をとることはないでしょう。それと同じ状態を、直接この地上にもたらすことができるのです。

われわれがそうと腹をきめてかかれば、時間も空間もないそのような状態が現実にここに実現するのです。医学者は九ヶ月以上の肉体細胞は本来は存在しないと言っています(2)。九ヶ月より先の年齢は自分で勝手にわが身にもたらしてその支配に甘んじているのです。青春はわがものなのです。もしわれわれの中に本来青春という完全な状態がなければ、自分の人生の一時期に青春を現ずることはない筈です。

又もし青春が常に頭を出していなければ、「若々しい」こともない筈です。青春をわれわれの意志に従わさなければ、われわれはすべて老朽するほかはありません。しかし今ではわれわれは老齢をわれわれの意志に従わせています。さて、ここに子供が一人生まれたとします。すると大人たちは、もうこの子供の寿命を七十歳ときめてかかるものだから、子供は大人たちの想念の通りになってしまうのです。

結局、大人のわれわれは子供に自分で自分の将来を造る機会を与えることさえしないで、子供を死という考えに縛りつけているのです。ところがインド人たちは、七十歳という年齢はそろそろ神人として完成し始める成年期だと言っています。この年頃より彼は何らの制約も受けることなく、又、青春を完全にその意志に従わせて欲するがままにやってゆくことができるのであります。

わたしたちは自分の計画していることは何でも実現成就するものだと教わっています。わたしたちのしたいことが失敗であればその通りになるし、完全であれば又その通りになる。それなら、不完全よりは完全を成就した方がどれだけよいか分かりません。わたしたちがせいぜい隣人の手伝い位しかしなかったとしても、彼に不完全さを現す、即ち彼のマイナスになるようなことをするよりは遙かによいでしょう。

そうすることによって人生からより多くを得るし、又それには何も一銭の金だってかからない筈です。隣人にニコニコするのに金はかかりません。先ず隣人に愛を示すことです、まさにそこから完全なるものが出てくるのです。若さ・美・清純・完全が一緒になった状態と、ひたすらにその実現を目指す場合の事を想像してご覧なさい。これらを理念として生きることに元手がかかるとでもいうのでしょうか。

こういう理念を常に念頭において生活するならば、わたしたちのいろいろな状態は一週間以内では変ってしまう筈です。一週間どころか、一分間以内で変ってしまったのを現にわれわれは目撃しています。『あなたの目がひとつになれば、あなたの全身が光で満たされるでしょう』と、イエスは言われたではありませんか。

イエスのこのみ教えの原語を取り出してイエスが未来の事をどうのこうのと論(あげつら)っている箇所をみつけることは不可能です。ともかくもイエスは人間に、自分の想念を或る明確なる目的〔の達成〕に使用すべきことを教えられたのであります。そうしてその目的とは人間の実相たる神性開顕を成就することであります。わたしたちは独力で何物も侵すことのできない境地に達することのできた人を見たことがあります。

その人は別にいわゆる大師ではなく、実はスー族のインディアンなのです。それは他でもない、我が国で起こった事です。今のインディアンたちは場合によっては自分たちの部落の周囲に線を引き、心に憎悪を抱いている者にその線が超えられないようにすることがあります。これまでにこの種の越境が二回企てられ、二回とも悲惨な結果に終っています。

『お互いに愛し合うとき、始めて愛にひたされるのである』とイエスは言われて、愛を最大の力のうちの一つに教えられました。しかるに、もしわれわれが自分の力を愛以外の別の方向に向けるならば、われわれは一種の混乱状態に陥ってしまいます。人間は天と地とその中にあるすべての支配者であるとイエスは言われたが、そのお訓(さと)しには限度があると思いますか。

イエスは、人間が本来数々の可能性をもっていながらこれまでそれに触れていなかったのをご覧になって、人間の本来の無限の力を人類に示したのであります。肉体の中の原子一個でも配置を誤れば、もはやその肉体は生存を保つことはできないのです。全宇宙はその中より一個の原子を取り出すだけで爆発してしまうでしょう。このような状態をイエスは直截簡単な方法で示されたのでした。

イエスが言われたままのお言葉は全く解り易いもの、われわれが忘れようとしても忘れ得ない程に理念を明確にされたのでありますが、それが『神』なのであります。『神』というこの言葉の波動だけでもわれわれが体内に造り上げてしまっている催眠状態〔老・病・死・苦等〕からわれわれを脱け出させてくれることが今では解っています。

この催眠状態に力を貸していたエネルギーを神の方へ向けるならば、われわれはかの神我一体の状態をしっかと築き上げ、もはやそれより背離することはないでしょう。にも拘わらず、われわれは大抵現象ばかりを見て想念を外に散らしているものです。しかしイエスの視野は唯一点、すなわち常在の主観状態〔実相の完全なる状態〕に向けられていました。客観たる対象は変化します。

しかし真理そのものは絶対に転変しません。従ってわれわれ自身の態度の方を変えて、すべてのエネルギーを一点に集中するようにすれば、われわれの肉体からは光が放射されるようになりましょう。現にわたしたちが部屋に入ると、その部屋は明るくなったものです。そういう場合をたびたびわれわれは見ています。これは心霊現象ではなく、写真にも写せるものです。

心霊現象なら写真には写らぬものです。われわれは自分から撰んで暮らしてきた不安定の状態から安定した状態に転ずることができるのです。そのためには只そのような想念を起こすだけの時間しかないのです。われわれの想念をこの真理即神に変えたその瞬間に、その状態はわが裡にあり、われわれはその状態そのものになっているのです。われわれは何も教訓なんか受ける必要はありません。

教訓はただ気付かせるだけのものです。成る程、教訓もひとつの力ではありますが、とかくその内容よりは形にエネルギーがさかれがちです。例の河の上を歩いて渡った実例にしても、あの二人の弟子にとっては、他の人々が岸に立ちどまっている間に、サッサと歩き出て大師方と一緒に河の水の上に立つという只一つの実演をすればよかったのです。

岸の上には沢山の人が突っ立ったままでいたが、それは彼らが安心立命の世界に移入しなかったからです。やろうと意志すれば、自分の不安定の世界に投じているエネルギーの量をそっくりそのまま活用して、水の上に乗り出せたのです。ところで水上歩行を学び取るために、自分のいる現在の場所から離れて誰か師匠につく必要はないし、又教訓の一つでも受けるために出て行く必要もありません。

教訓はただ一つのみ、それは此処すなわちわが裡にあるのです。この事実を変えることはできないのです。この真理から自分がどれだけの期間遊離していたかは問う処ではありません。光に向けば自分が光になるのです。イエスは光に向かって歩くことを必要としましたか。そんなことはない、それは彼が光そのものだったからです。その光とはイエスが説明されたように真理の光、愛の光、神の光であります。

イエスの想念は常に原理に向けられているのであって、そうでない想念など決して起したことはありませんでした。イエスのこのような態度で、しかも極めて簡単な方法でイエスに倣(なら)うことができるのです。こんな簡単な行き方をしている人々は、外部から何かを取り出すのではなくて、内部から抽き出すのです。食料や必要品などすべての供給にしてもその式で行っています。

このような人々と外の人達との違いは、前者が視野を遙かに拡げてより広範囲のものを取り入れていることです。しかもこの行き方は誰にでもやれるものです。一旦やりおおせるとコツが解り、後はスムーズに進んで、遂には本当に自分のものになってしまいます。(進化や成功への)道がいろいろと示されはしても、自分独自の方法によらない限り目的は達成されるものではありません。

又、他人に頼るとその人のやっていることにエネルギーや力を加えてやることになって、その分のエネルギーがわれわれの身体から出ていきます。自分なりの道を見つけて挙示(こじ)した時、始めて、われわれは自分の肉体にエネルギーを加え、他にも分けてあげるだけの余裕が十分に出るのです。そうすることによって自分に或る状態ができあがり、それがすべての人々にとっての救いの一助となるものです。

われわれは何も他人の思想の上に何かを築き上げるのではなく、われわれ自身の思想を普遍化することです。それによって全人類が裨益されるのであります。人は如何なる道を歩もうとも、人類のためになることをしなければ、決して目的を達成し得るものではないといわれております。人類を前進させるのは、何か或る大いなる思想を把持し、それにエネルギーが加わった場合です。

といっても、他人の思想の上に何かを築くことによってエネルギーを得るのではなく、自分自身の思想を基盤としてその上に築くことによってエネルギーが生ずるのです。その時始めてわれわれは宇宙に存するエネルギー一切を活用するようになるのであります。わたしたちが神の波動を背後に神の名において考えることは、すべてわたしたちのものとなります。

それはすべての物質、一切の智識、およそ純粋なるもの、およそ完全なるもの、およそ美なるものすべてに当てはまります。神性はすでに確乎としてわが裡に実在する――この事実に全思念を向けるや否や、直ちにあなた方は支配力を獲得することができます。神性はまさにわが内以外のどこにも存在しないこと、常にわが内に確乎として実在すること、これまでは逆念でこの事実をくらまし、自分の意識より追い出していたことを、四六時中自分に言い聞かせることです。

この内在の神に語りかけることです。神が内在することをすでに知り、その臨在を完全に意識するようになったことをこの神に告げ、更に又、出御ましましてわが人生における支配力となるように頼むことです。では、次のように宣言なさい、『われは今、一切の逆念をわが生活より放下し、追放したのである。わが全存在にわたって、神が完全に確乎として実在ましますことを感謝する』。

もはや自分は一個半個の単なる動物ではなく、今や全身これ清純にして、この肉の宮に生ける神が臨在ましまして完全に神のものとなし給い、今や完全にこれを支配し給うのである、と心を定め、且つこの考えを常住心の中に把持しつづけることです。

それからこう宣言するがよい、『わが魂と生けるキリストとは一体となり、一体より湧き出づる祝福と満足とをわれは今味わう。この祝福と満足とは久遠を通じてわが裡に変ることなく続く。生けるキリストがわが内に完全に確乎として臨在ましますことをわれは知る、われは純乎として純なるキリストである』と。潜在心の中でそう言い続けることです。

すると間もなく、生けるキリストの臨在によって本来常に自分のものであった喜悦と満足とを経験するでしょう。そのうち間もなくあなた方は逆の想念・感情・行為をすべて押しのけてしまう精神力が自分から出ているのに気づくでしょう。その時、あなた方はもう抵抗することのできない、且つ自分の世界全部を支配している、純粋なる想念の勢力を造り上げてしまっているのです。

自分自身の魂に波長を合わして心の平和なるときが、この霊的なる聖(きよ)き宮居の強化される時です。このようにしてわれわれは主観心がただ神より出づる印象のみを放射するように躾(しつけ)るならば、やがてそれはわれわれの意識の中に浸透して、睡眠時間中もずっと働くようになります。万一われわれの想念や言葉や行動の中に一つでも弱い点を見つけたら、意志を全面的に働かしてこのほころびを強化する必要があります。

そのうち自動的に逆念はすべて征服され、神の想念、神の感情のみが自分の世界に住むようになってゆきます。その時、始めてわれわれは神以外には何ものも侵入させぬように訓練された想念と感情の軍隊ともいうべきものを持ったことになるのであります。これが「絶対的支配の位階」(3)で、ここまで来たとき神理を顕現する能力を達成したことになります。

かくのごとくしてわれわれは神霊のすべての力の基盤なのであります。ここまで到達することを生涯の事業とすれば、必ずや大いなる配当が生み出されるものです。皆さんは今や新しき日の夜明けを目の前にしているのです。そうして大いなる法則をより大きく把握しようとしているのであります。自分の心と世界を不調和より解放するには、自分の全心身が生ける神の宮であると積極的に知ることほど効果的な方法はありません。

神聖なる想念の持つ遙かなる広範囲に及ぶ音も無き力を以て、あなたの発する建設的な想念・感情・言葉ひとつひとつによって全人類が、否、全宇宙が益を受けるのであります。この事実を知り、この事実を活用して欲しいものです。神の不滅の愛について考えれば考える程、人類を光明化することの重大さが分かってきます。

従って人類の向上と啓発に協力する機会がどこにあるか、そしてそれがいかに大きな特権であるかが、或る程度お解りになれるでしょう。更に一層重大なことは、人間世界にあるすべての消極的なものを消し去るように力を貸すことが人生に対するわれわれの責任であり、義務でもあることです。そのための最も強力な方法の一つが、およそ消極的なものを見たり聞いたり受け容れたりすることを一切拒絶して、すべての人と物とに意識的に神の愛を注ぐことです。

『征服者キリストの聖霊(神我の実相)は一切の不調和を超越する』ことを、はっきりと知ることです。あなた方の意志は神聖なる意志、すなわち神の意志であって、神はあらゆる瞬間にあなた方を通じて働き給うことを常に知って頂きたい。この考え方を中心として考えてゆけば、その都度あなた方の意志力は強くなり、ついにはあなた方の考えには誰も抵抗のできない程に強くなるのであります。これを実行することです。

その上で終始誠実に結果を待つことです。そうすれば何物もあなた方を妨げることはできません。このような強力な積極的言葉と思想を毎日根気よく強烈に繰り返しておれば、今まで睡っていた頭脳細胞を発達させ、遠からずして自分が完全な支配力を持つ主となっていることが自分でも分かるようになります。あらゆる目的に対して自分の意志と言葉とを訓練すれば自分自身の心の主となり、周囲の世界の消極的なものはもはや受け付けないようになります。

一寸したことにもこの真理に忠実になれば一切を支配するようになります。本来自分のものであるべきあらゆる完全なる状態を言葉によって創り出すのです。そうすればあなた方はあらゆる状態の主となるのであります。現在生理学者は、われわれの人体組織を構成する細胞たちには印象を受ける力があり、しかもその印象を全細胞に伝えるものであると言っています。

更に又、印象を思い出す力即ち記憶・印象を比較する力即ち判断、善き印象と不完全な印象とを選り分ける力等も具有しています。主観心即ち潜在心は、肉体細胞全体のエネルギーと智慧との集合であることもかなり定説になっています。神性の印象のみを出すことによって細胞全部が銘々の神性を再認識し、この神性を更に又改めて各細胞に伝えるのであります。

そうでなければ、人体としてまとまった形の写真など撮ることはできない筈です。このことが各人に解るようになると、個々の細胞の意志力が一致し、所属の器官乃至中枢或は今後附属する事になる器官乃至中枢の意志に調和して働くようになり、それは同器官又は同中枢を構成している意志細胞(will cells)全体の力となり、ついに肉体の全組織の中心意志と意識的に調和するようになるのであります。

その時、かの『吾、神なり』(God I am.)が全肉体を通じて完全に顕現し、次の如き言明、即ち、『吾は神の力なるが故に、一切において豊なり』、更に又、『この力の言葉により吾は一切の制約より放たれて自由なり』が、いよいよ大いなる力を得るのであります。

         質 疑 応 答 
問 あなたの言われる神とは何か、ひとつそれについて説明して下さいませんか。
答 神とはわたし達が従わなければならない原理です。しかし、神について何か定義をくっつけることはできるものではありません。神の定義を始めた瞬間には、もう神はその定義を超えてしまっているのです。大体が定義なるものは、人間智という一升桝の中に神を詰め込んでしまおうとするようなものにすぎません。

問 人によって神という言葉を使う者、霊という言葉を使う者、原理という言葉を使う者とさまざまですが、どの言葉が一番良いのですか。
答 最大の言葉は神です。神なる言葉では人は催眠状態にはされませんが、その他の言葉ではされてしまいます。この神なる一点に直接向き直るなら、最大のことを成就するようになります。神という言葉はいくら頻繁に口に出しても、出しすぎることはありません。

問 あなたはイエスが金白の光を放つのを見たと言っておられますが、そうなるのが一番良いのですか。
答 解りません。それは客観的な性質のものを遙かに超えたものでしたから、まだ低い力のままに止まっているものではよくは知り得ないのです。

問 神の力に接するにはどのような方法を用いたらよいでしょうか。
答 きまった方式というのはありません。よく調べてみると、法則は自分のいる処にあるものです、何時でもね。われわれが思いきって法則に全面的に同調するならば、全宇宙がわれわれに開けます。全宇宙が開けて宇宙のあらゆる状態がわかるようになれば、われわれはこの法則の下に無限なる実相を顕現して法則と一つになってしまいます。それはただ自分が法則と既に一体であると知り、疑いや恐れを決して寄せつけないだけで成就します。

問 そういうことを受け容れる態勢が西洋ではできていますか。
答 西洋は今受け容れ態勢を調えつつあり、しかもそれが速やかに進行中で、一人の例外もないほどです。あるとすれば、自分で勝手に自分を疎外しているだけです。われわれが悟性の門を開くと、そこに一種の磁場ができる。この磁場はそれを拡大して全宇宙を包含することができます。われわれの肉体宇宙は本来常に全自然宇宙と一体なのであって、そのためにはわれわれの方で悟性を拡大しさえすればよいのです。
問 どういう場合に、どういう想念を起こせばよいかの分別はどうすればつくでしょうか。
答 分別がつかない場合は、出来る限り愛をそそぐことです。それ以外の想念を出すことは一切拒絶することです。そうすれば結局は調和に導かれるものです。イエスは愛をあらゆるものの第一位に置かれました。

問 どうして神の化身が幾度となく地上に送られてくるのですか。
答 原理を身を以て示すことが、いわゆる神の化身が自ら選んだ使命です。従ってこの方々は、原理に近い生き方をしておられます。この方々の示される道、或はその送られる生き方が人類にとっての道になるのであります。

問 神の化身が地上に繰り返して現れたりするのは、何か地上での霊的発達状態によってきまるのですか。
答 そんなことはありません。この方々は地上のどんな発達状態の中でも、神霊と一体の生涯を送られるものです。

訳者註
(1)本叢書第一巻第八章「水上歩行」参照。
(2)細胞は刻々新陳代謝するからである。
(3)大抵の宗教では指導者の霊性の発達段階に応じて、それぞれの位階が授けられる。