~第七章 実 在~ 

インド人はこう言っております、『もし神が身を隠そうとお思いになるとすれば、きっと人間を撰んでその中に隠れておしまいになるだろう』。人間が探している神の在所(ありか)は、実は最後には人間自身なのです。今の人類は大部分がしきりに何か或るものに成ろうとしているが、実はそれが既に他ならぬ自分の中に在るのに気付かないのは残念です。

吾々は無数の講義や集会やグループに出席してみたり、沢山の先生や人物や指導者達に頼ってみたりして到る処で自分自身の外に神を探し求めているが、豈計(あにはか)らんや、神は常に吾が裡にこそましますのです。もし人類が『成ろう』とする試みを捨て、『既に成っている』ことを受け容れるならば遠からずして実在を完全に自覚する様になるでしょう。

他の者とは違った特別な人間というのは存在せず、一人一人が神なる実在であって、神のあらゆる属性と資格とが潜在していることをイエスは幾度となく吾々に言い聞かせて下さいました。ところがわれわれの方では、イエスをわれわれ自身とは別の範疇(はんちゅう)の方だと思って、長い間イエスを祭り上げてきたのです。しかしイエスは決して別種の方ではないのです。

又、御自身でもそう主張したことは決してありません。イエスは常に人類を援助して廻っておられます。イエスはわれわれ同様神秘的人物ではないし、又御自分でも奇蹟を演じ得るなどとはおくびにも主張してはおられないのです。イエスのみ業(わざ)は奇蹟ではなかったのです。それは自然法則の成就にすぎなかったのです。そのことは現在、証明もされています。

それは誰でも法則を満たせば現れてくる自然現象だったのです。われわれがその重圧を感じているいわゆる窮情は、誰でもこれを克服することができるのであって、われわれがその窮情を心で放下してしまえば、その瞬間にそれは存在しなくなるものです。このことは、多くの人々には信じ難いように思われるかも知れないが、絶対的事実であります。

大体が窮情というのは自分自身の逆念で自分自身に招き寄せているものです。仮にそういう消極的な想念や言葉が自分には全くなく、又聞いたこともなく、われわれの語彙や世界にも存在しないと想像してみましょう。事実、消極的な言葉など一語もなく、過去や未来を現す言葉も全くなく、全語彙が今、此処に於いて完成している事を現す言語が現在四種あります。

この事実を理解し且つ認容するならば、消極的状態よりわれわれは間もなく脱却する様になる筈です。われわれは物事に名称をつけます。ところがその場合、感情がくっついているものです。ところで感情には力がこもっています。従って、消極的な言葉・感情・状態には、われわれが与えない限り、それ自身としては如何なる力も絶対にないのであります。

われわれの方でそれにエネルギーを補給するのをやめてしまえば途端にそれは生命を失いやがて消滅してしまうのであります。聖書はその中に『神』という言葉があるために今日まで存続してきていることを、われわれは決定的に証明しました。聖書は現在、世界のあらゆる書籍のうち最大の売り上げを続けています。

それでは、神というこの言葉が無生物である書物でも存続させるのであれば、われわれがこの言葉を使用するならば、われわれの肉体全体は一体どういうことになるでしょうか。といっても、何も『神・神』と喋り散らす必要はありません。只この言葉を明確な、真摯なる意図をもって、且つその実現にふさわしい心境で一度出しさえすれば、後は繰り返す必要はないのです。

何故でしょうか。あなたはすでにその音域に入っているのであり、あなたの発した言葉はやがて一つ一つ反応を受けてゆくからです。これが聖書の存続している理由であり又われわれの肉体が存続している理由の一つであります。だからわれわれはこの一語のみを強調してやって行けばよいのであります。

次に重要なことは、そんなことがあるものかなどと否定しないで、自分の言った事が実現するまで積極的に頑張ることです。インドには、空中に両手を挙げて『オーム・マニ・ペーメ・オーム』(1)と言いながら歩く行者がいますが、そのうちに手が空中で伸びてしまっておろせなくなってしまいます。われわれの場合でも、やみくもに『神様神様』と言い乍ら走り廻ったのでは同じ事になってしまいます。

吾々は言葉を考えることもできるし、その言葉が借物ではなく自分から出た言葉であることもはっきりと知っているし、実相においては、自分が成りたいと望んでいるものに既に成っていることも知っている、してみれば、それを幾度も繰り返す必要はないのです。一旦言葉に出した以上、既に言葉通りのものになっているのです。

人間の最大の誤りは、どうもしなくても本来その儘(まま)で神であるのにこれから神になろうとすることであると教えられています。人間は自分の中に既に在るとは知らずに或るものを探し求めて来ました。しかし本当のところは、成ろうと「努力すべき」ではなく、「そのままで既にそうである」のです。われわれは「すでにそうである」のだから、それをはっきり「当然として、主張す」べきなのです。

皆さんがもしこのことが心からは信じられないというのであれば或る期間、左様、例えば二週間も試してごらんなさい。神という言葉を一度だけ言って、神の何たるかを知り、そのまま経過すればすでに本当は神に成っているのです。神はすでにあなたのものであり、思いのままに命令する力はすでにあなたのものなのであります。

天国とは到る処に実在する調和のことであって、それは一人一人の中にあり、まさしく自分の今居る処が天国なのであります。人間には自由意志があって、自分の想念と感情とによって地獄を造ろうと思えば、何も苦心するまでもありません。併し地獄を造り出そうとして費やしている時間を今、此処、天国の現出に使用するならば、その通り天国は現前するでありましょう。

従って先ず第一に常に吾が内にまします神を知ることです。これこそが全人類への最大の福音なのであります。他の人を見ること己(おのれ)を見るが如くにするのです。即ち、あらゆる人々の姿にキリスト(実相・神人)を見ることです。このことは吾人の実に最大の特権であります。のみならず、われわれの会う人、知る人悉くキリスト(神人)と観ずることは、自分自身に対する最大の修練でもあるのです。

あなたが仲間の中でそれを実行するのに、ものの一瞬も掛かりません、しかしやってみた後それが実に驚嘆すべきものであることを知るでしょう。かくてあなたは間もなく、すべての人々の中に本当にキリスト(神我)が実在していることを体得し、認容するようになるでありましょう。われわれはすべて一様にキリストと同じなのであります、常に。

消極的な言葉や考え、感情のことにもう一度触れますが、仲間でクラブを造り、あらゆる種類の交通機関に乗って幾万哩も旅行をしておりながら一度も事故に会ったことのない人々を、わたしは二千五百人も知っています。その大部分がアメリカに住んでおり、そのクラブもアメリカで始まったのでした。それを創めたのは四人の人です。

さて、皆さんは本来、嵐を制御しているのです。空中状態をコントロールしているのです。皆さん一人一人が全部そうなのです。又種類の如何を問わずすべての自然力をコントロールしているのです。皆さんがその主であり、又その主となるのが、皆さんの運命(さだめ)なのです。であるにも拘わらず、われわれは、俗な言葉でいえば、自然に『ヤッツケられ』、さまざまの状態や環境に隷属してしまっています。

この部屋にいる皆さんにしても、翻然(ほんぜん)として自分こそが主であると悟ることによって、只それだけで、生起するあらゆる事態を克服出来るのであって、出来ないという人は本来一人もいないのであります。こういうことには、動物は非常に敏感なものです。動物は皆さんが親切な思いをかけてやると、それに応えるものです。他のものにかけてやる親切な想念も分かります。特に犬は感情に敏感なものです。

わたしたちはアラスカで郵便配達のコースに千百四以上の犬を配置し、しかも長い間このコースを維持した事があります。飛行機に取って代えられるまでは千百四以上の犬を飼っていましたが、皆んな鞭一つ使わずに済むところまでいったものです。人間の方から犬の気持ちをかき乱さないかぎりこれだけの数の犬がいつまでも従順でした。

このコースをわたしは、犬たちを使って四回半、距離にして千八百哩を往復しましたが、一度も犬を取り換えたことはなく、それでいて犬たちは素晴らしい調子でやり抜いてくれました。皆んなにその秘訣を聞かれるのですが、わたしは只、犬たちに任せて、たまにせかしたり、皆んな元気だなと言ってやったり、うまくいっているぞ、などと言うだけです。

この秘訣を聞いた他の人もその通りやってみたら、結果はそれ以前とは大違いでした。動物を恐れたり虐待したりしなければ、素晴らしい反応をするものです。われわれが一語でも消極的な言葉を使った瞬間に、われわれは肉体の営みを維持しているエネルギーを取り去ってしまいます。

そして自己催眠にかかってしまい、そのような消極的状態を厳然たる事実だと信じ込み、更にこの自己催眠の結果消極的な言葉を幾度となく繰り返す羽目になってしまいます。われわれが、もうこれ以上消極的な考え方によって催眠されるのをやめ、消極的考え方の繰り返しや、消極的考え方自体さえも拒否するならば、一切の消極的状態は完全にわれわれの世界から姿を消すのであります。

もしわたしたちが年をとったとか、視力が薄くなったとか、その他、身体が不完全だとかいった考えを捨て去るならば、そのような消極的状態はわたしたちの身体には現れてこないでありましょう。わたしたちの身体は四六時中更新しているのであって、それは本当に「生まれ変わり」なのです。

この生まれ変わりは全人類に九ヶ月毎に起こります。わたしたちはこの肉体細胞にわれわれ自身の想念、われわれ自身の感情、われわれ自身の言葉を刻印しているのです。われわれは全く自分で自分を裏切っているのです。言葉は簡単であるが「出来ない」と言う都度内在のキリスト(即神我)を裏切っているのです。

一語でも消極的な言葉を出せば、その度毎に内在のキリストを裏切っているのです。だからわれわれは各瞬間毎に「実相・神我(キリスト)」を崇め、讃美し、その働きの故にまた肉体を祝福し吾々の受けている無数の祝福を讃え感謝し、かくて法則の化身となろうではありませんか。

         質 疑 応 答 
問 インド人はイエスを仏陀と比べてどう見ていますか。
答 仏陀は悟りへの道で、イエスは悟りそのものであると言っています(2)。

問 心をいつも理想に向け通すのはなかなか難しいのですが、どうしてでしょうか。
答 それは、われわれが東洋の人のようにはっきりした訓練を受けていないからです。東洋では子供でさえそういう訓練を受けています。一旦、或る理想をかかげたら、それが完全に実現するまで貫き通せと教えられています。ところが、西洋での行き方は幾らか違っています。どんな想念も出しっ放しにして、自分の力を散らしてしまっています。

もし何かの理想を持ち、本当にその理想を信じているのであれば、それは自分だけで持ち続けて、完全に具体化するまでは他人にその話をしてはいけないのです。常に雑念を払い、自分が成就したいと思うことに対してではなく、成就しなければならない一事をのみ堅持するのです。

そうして始めて雑念はなくなるものです。それ以外の想念を入り込ませると、いわゆる『二心(ふたごころ)』になってしまいます。このただ一つの理想にエネルギーを出すことによって『一心(いっしん)』になるのであります。しかし、そのために型にはまったり、『単線』(=偏執狭)になったりすることはない筈です。

というのは、この一つの理想に全力を向け、力を他に散らさないようにすれば、自分の理想について一瞬間以上の長きにわたって喋々する必要はないからです。それから先は只すでに実相において、それが今、此処に実現していることを感謝しておればよいのです。

問 あなたは直接イエスを拝し、握手さえ交わしたと解してもよろしいですか。
答 その通り。その上、多くのいわゆる大師がたともね。こういう方々は御自分が一般人と違っているなどとはおっしゃいません。インドでは苦力(クーリー)でさえも、ナザレのイエスを見分け得るのです。それには何の不思議もないわけで、イエスは、全身から大きな後光が指してはいるが、普通の人間の姿に描かれているからです。この人達には何一つとして曖昧な考え方はなく、すべて非常にはっきりしていて、生き生きとした人達です。

問 インドのあたり前の苦力までがイエスを拝するなんて、どうしてそうなんですか。
答 イエスが今猶生きてましますことを苦力たちは受け容れ、その信念を以て生活しているのに、吾々西洋人はそれを信じもしなければ受け容れもしない状態で暮らしているからです。わたし自身にしても何も霊視力はありません。

しかし、われわれが完全に原理に立脚して物事を取り扱うならば、別に霊能はなくても誤ることは決してないのです。〔現在意識による思考や推理を超えた〕直観は、〔誤ることなく事に当る上での〕一つの要素ではあるが、われわれはそれを〔現在意識でも『原理がこうこうだから、それはこうこうになるのだ』と〕「解る」ようにしなければなりません。

問 イエスはたまにはアメリカに現れてもよさそうなのに、何故そうなさらないのですか。
答 イエスは御自分を一地方に限定なさいません、しかし、インドでしていらっしゃるように、アメリカでもお働きになっておられることは疑いを容れません。

問 イエスは十字架上で肉体的に苦しまれたのでしょうか。
答 いいえ。あのような高度の悟りを開かれた方が肉体的に苦しむことはあり得ません。イエスがもしあんな経験をしたくなければ、〔自分に向けられた磔刑(はりつけ)の陰謀・憎悪等の〕エネルギーを〔磔刑を企(たくら)んだ連中に〕返すこともできた筈です(3)。〔しかし〕イエスは〔そうはなさらずに、神の子達の歩むべき〕道を示されたのです。

問 イエスは磔刑(はりつけ)の後でこの地上に数年はおられたのでしょうか。
答 イエスは御自分の肉体から出て行かれたのではありません。イエスは今猶、その時の肉体のままで生きておられます。誰でもイエスに接する人にはイエスの肉の身を見ることができます。

問 すると、ナザレのイエスといわれる特定の個人がこのアメリカに現れたことがあるというわけですか。
答 その通りです。尤も当然のことだが、ナザレのイエスとお名前をお呼びしなければ現れてはいらっしゃらないでしょう。

問 あなたが大師がたのみ教えを伝えることができるのは、何か或る特別な配慮のおかげなのですか。
答 わたしがあなた方自身以上に、何らかの特権を与えられることは決してありません。アメリカにも大師がたが居られますかと尋ねたところ、アメリカには一億五千万人(4)の大師が居るとのお答えでした。

問 われわれがイエスのお助けを必要とする時は、ここにでも現れて下さるでしょうか。
答 イエスのお助けが必要なところには、いつでも現れておられます。イエスが、『見よ、わたしは何時でもあなたたちと共にいる』と言われたのは、まさしくその事だったのです。

問 キリストとは生命の原理という意味ですか。
答 銘々の中を流れる神なる原理のことです。

訳者註
(1) 正式には「オーム・マニ・ペーメ・フム・オーム」(蓮の球に祝福あれ)。
(2) 勿論、これはクリスチャンたる著者の主観であろう。
(3) 本叢書第三巻第三章四十八頁以下参照。
(4) 当時のアメリカの総人口。