京都市北部の古代寺院を巡るシリーズ、(前篇)の周山廃寺に続き、(中篇)の今回は平安京に戻って広隆寺から行ってみましょう。実際に私が回った順番どおりではありませんが、記事では時計回りにご紹介していきます。ではレッツラゴー!
広隆寺(こうりゅうじ)
京都府京都市右京区太秦蜂岡町
訪問オススメ度 ★★
広隆寺は今さらご紹介するまでもない超有名寺院。飛鳥時代の弥勒菩薩半跏像を伝え、聖徳太子にゆかりのある京都最古の寺と言われています。今の広隆寺は、別の場所にあった前身寺院が平安遷都時に移されたものとの説が有力とされているそうですが、詳しいことは不明。諸説あるらしい移転の経緯もややこしいので、ご興味のある方は『飛鳥白鳳の甍~京都市の古代寺院~』(京都市文化財保護課)をご覧ください(丸投げ)。
広隆寺の楼門と嵐電。「ザ・京都」の図ですね
移転と書きましたが、広隆寺の境内からはそれ以前の飛鳥時代の瓦が発掘されており、元から寺院が存在していたらしいとされています。発掘は何度か行われたようですが、今のところ明確な古代寺院の遺構は見つかっていません。唯一、山門前の石標柱の台座に用いられている塔心礎が、現地で見ることのできる遺物となっています。
台座にされた塔心礎。大正期にここから北西80mほどの所から掘り出されたそうです
北野廃寺(きたのはいじ)
京都府京都市北区北野上白梅町
訪問オススメ度 ★
北野廃寺は京福電鉄北野線の終着駅「北野白梅町[きたのはくばいちょう]」付近にあった古代寺院。北野廃寺はさきほどの広隆寺の前身寺院ではないかとする説もあり、文献等で比較的よく目にしますが、現地は北野白梅町交差点の脇に小さな石標柱が立っているのみです。
北野白梅町交差点北東部の京都信用金庫北野支店の脇にある石標柱
北野廃寺は、この交差点付近で建て替え工事などが行われた際にその都度発掘調査が実施され、交差点北西部に講堂に想定される建物の遺構が判明したほか、南西部には瓦などを供給した瓦窯の存在が明らかとなりました。仮に、北野廃寺が四天王寺式伽藍だったとすると、北野白梅駅から北側に塔、金堂、講堂が並んでいたことになりますね。
交差点東側から。中央やや左の黒い三角屋根が北野白梅駅。中心伽藍は石標柱とは反対側にあったようです
北野廃寺出土の軒丸瓦(京都市考古資料館)
出雲寺跡(いずもでらあと)
京都府京都市上京区上御霊竪町
訪問オススメ度 ★
出雲寺跡は、応仁の乱勃発の地としても知られる御霊神社一帯にあったとされています。古記録によると三重塔2基を擁する大伽藍だったそうですが、境内での発掘調査は未実施で、この地から出土したという瓦が同神社に伝えられているのみです。
御霊神社南門から
出雲寺は出雲氏の氏寺だったとのこと。「出雲氏」と聞いてもピンときませんが、遷都前から当地で勢いをふるっていた豪族だったらしく、壬申の乱の際に大海人皇子側についた「出雲狛」なる人物の活躍が日本書紀にみえます。
文字が小さいですが「はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があった」とあります
出雲寺跡から出土したと伝えられる軒丸瓦の文様は、飛鳥の元薬師寺と同様のものだったらしく、双塔式伽藍というのも(元)薬師寺を連想させますね。壬申の乱で功績をあげたので、大海人リスペクトの大寺院の造営を認められたのかもしれません。
双塔式伽藍の模型。毎度おなじみの広渡廃寺(兵庫県小野市)です
滅苦寺跡(めつくじあと)
京都府京都市左京区一乗寺樋ノ口町
訪問オススメ度 ★
滅苦寺跡は、京都芸術大学のすぐ隣にある寺院跡。次にご紹介する北白川廃寺とも、粟原氏の氏寺である粟原寺とも言われているようですが、その実態はよくわからず正体不明。ちなみに北白川廃寺からは北に400mほど離れており、同一寺院とするのは少々無理があるかも。
中央部が滅苦寺跡とされる場所
そもそもここに寺院があったのか少々アヤシイ気もしますが、現地には石標柱と、かつては朱色に塗られていた木柵の内側に礎石らしきものなどがあります。私が訪れたときは御覧のとおり笹や夏草が繁茂していて、柵内の様子がよくわかりませんでした。
本来は「苦滅寺」で、「苦集滅道」という仏教用語からきているとの話もあるようです
北白川廃寺(きたしらかわはいじ)
京都府京都市左京区北白川大堂町・北白川東瀬ノ内町
訪問オススメ度 ★★
今回ラストは目玉の北白川廃寺です。北白川廃寺は現地での遺構は確認できないものの、伽藍がある程度判明している市内では貴重な古代寺院跡。寺院跡は北白川大堂町に金堂跡(学術的には「東方基壇跡」と呼ぶらしい)を中心とする回廊付き伽藍があり、少し西に離れた場所に塔があったことが明らかとなっています。
第347回京都市考古資料館文化財講座 現地講座「北白川・吉田の遺跡をめぐる」 2024年10月26日
https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza347.pdf
※本資料に「北白川廃寺復元図」(図4)が掲載されています
北白川廃寺の特徴は、まず金堂が巨大なものであったこと。基壇は幅36.1m×奥行き22.8mで古代寺院の平均的なサイズを遥かに凌駕し、かの百済大寺こと吉備池廃寺金堂(幅37m×奥行き約28m)に迫ろうかというものなのです。横幅30m超えはそうそうなくて、飛鳥寺や法隆寺など、だいたいは20mクラスなんですよね。薬師寺でギリ29m。北白川廃寺金堂跡は現在は住宅地になっていてその痕跡はありませんが、地名の「大堂」は、この巨大な金堂からきていることがうかがい知れます。
「止まれ」の交差点あたりが金堂の北西端。写真右手からは回廊跡が見つかっています
金堂跡は昭和9年の区画整理事業中に発見されたそうで、当時明らかにされた立派な瓦積みの基壇は、その一部が京都大学キャンパス内(文学部陳列館南西角の南)に移転保存されています。北白川廃寺からは南西方向へ徒歩30分ほどです。
京大キャンパス内に移転された北白川廃寺金堂基壇
設置された案内板
京都市考古資料館には古代寺院関連の展示もあるぞ
北白川廃寺関連の遺構・遺物はあちこちに分散しているのですが、出土瓦などは上京区元伊佐町の京都市考古資料館で展示されています。同資料館の展示は何といっても平安京関連のものが多いのですが、古代寺院関連の展示コーナーもありました。ちなみに『飛鳥白鳳の甍~京都市の古代寺院~』もここで購入。
クラシックな京都市考古資料館のエントランス
その展示コーナーは以下の写真のとおり。2段目の左二つの瓦が北白川廃寺のもの。中央右上の写真パネルは北白川廃寺の塔跡です。北白川廃寺の塔は永らく見つからず、巨大な金堂の存在は明らかになっているのに塔跡が見つからなかったのは、界隈では謎となっていたそう。
京都市考古資料館の古代寺院コーナー
塔跡が見つかったのは昭和50年。金堂発見から実に41年後に、想定外の場所から発見されたのです。その場所とは中心伽藍から白川通を挟んだ西側へ少し下ったところ。距離にして100m近く離れていたので、関係者からしたら思いもよらないことだったでしょう。こうした事例は井堤寺跡(京都府綴喜郡井手町)でもあるので、奈良期伽藍の特徴になるかもしれません。
北白川廃寺塔跡には「ハイジ北白川」が⁉
その塔跡に行ってみました。現地は Google マップで見ると共同住宅の駐車場になっているらしく、無断立入ははばかられたので道路から眺めただけ。
塔跡はこの建物の裏手にあるもよう
が! ここで面白いものを発見。この共同住宅の名称、なんと「ハイジ北白川」なんですね‼
ヨーロピアンテイストの「ハイジ北白川」
はじめは「ハイツ」かと思ったのですが、よく見たら「ハイジ」。命名者の意図は確認できませんが、これは古代寺院跡であることを狙ったものでしょうか。それともアルプスの少女なのでしょうか。前者としたらどちらかというと大阪的なノリを感じるのですが、ハイジストとしてはこの洒脱なネーミングに敬意を表したいと思います。
[訪問日]2023.9.9·10
(後篇)に続きます。