矢作川流域の古代寺院巡り(その3)~安城市前篇 | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

矢作川(やはぎがわ)は、愛知県西三河地方の中央部を貫いている一級河川。矢作川流域の古代寺院を巡るシリーズ(その3)は安城市前篇です。安城市の古代寺院は「別郷廃寺」と「寺領廃寺」の2つだけですが、いずれも「物語」が豊富。このため、安城市は前篇と後篇に分けてご紹介。前篇は、歴史博物館と別郷廃寺です。ではレッツラゴー!

 

 

まずは「安城市歴史博物館」から

 

古代寺院跡に行く前に「安城市歴史博物館」に立ち寄っておきましょう。この歴史博物館は、安城市埋蔵文化センター・安城市民ギャラリーと併せて建設された施設で、公園として整備された安祥城跡の一角にあります。

 

中央が安城市歴史博物館。左手が埋蔵文化センター・市民ギャラリー

 

安城の歴史といえば、三河一向一揆の拠点で城郭寺院として知られる本證寺や、親鸞聖人を描いた「安城御影」などが主役級。古代史関連では、南北約4㎞にも及ぶ弥生期の「鹿乗川流域遺跡群」をはじめ、桜井古墳群など、市の東域に遺跡が集中しています。重文指定となったキカイダーのような顔が線刻された「人面文壺形土器」もよく知られていますね。

 

人面文壺形土器。平成28年に国の重要文化財に指定

 

これらに比べると肝心の古代寺院関係はいくぶん影が薄いのは否めず、展示も一区画だけですが、ハイジスト的にはかなり興味深い内容。特に子供の頃から安城の古代寺院跡ウォッチャー(?)であった私にしてみれば、地道な発掘作業の成果を見ることができて、感慨もひとしおなのです。

 

古代寺院関連の展示コーナー

 

別郷廃寺・寺領廃寺からの出土品

 

この歴史博物館の掲げる基本方針の一つに「矢作川流域(西三河)を対象に、原始古代より近現代にわたる歴史と文化について展示し、楽しく学べる博物館」というのがありました。これは本ブログで現在ご紹介している、矢作川流域の古代寺院についても当てはまりますね。それを受けてか、流域の古代遺跡をプロットしたパネルの展示がありました。下の図は今回の安城市内の2つの廃寺と、(その2)の岡崎市内の廃寺の位置関係です。

 

わかりにくいので古代寺院関係は水色枠で囲んでみました。二重枠は安城市内の古代寺院です

 

 

 

(その1)でご紹介した豊田市内の古代寺院はこんな感じ。

 

伊保廃寺は古代寺院跡昇格前の「伊保古瓦出土地」と記されていますね

 

 

 

古代寺院からの出土品はあとでご紹介するとして、隣接する安城市埋蔵文化財センターについて少しふれておきます。まずこのセンターが地味に偉い!と思うのが、基本的に土日もオープンしていることなのですね。全国に埋蔵文化財センターは多くありますが、平日しか開いていない印象があり、週末を利用して見学に行こうとしてもダメでがっかりすることがほとんど。

 

埋蔵文化財センターの入口。もろ逆光で分かりにくいですが、廊下の左側に展示コーナー、右側は土器の復元作業などがガラス越しに見学できます

 

訪れたときは展示コーナーで前年度に市内で行われた発掘調査での出土品が展示されていました

 

その点、安城市埋蔵文化財センターは、休日に歴史博物館の展示を楽しんだ後に、こちらでさらに最新の発掘成果などを見ることができるという、一粒で二度おいしい施設。同センターは、各種出版物のほか、ウェブサイトでも年度別の発掘調査結果を掲載するなど、情報発信にも力を入れています。矢作川流域の他市は古代遺跡の取り扱いに冷淡でイマイチな感じなので、ここは安城市にはぜひ頑張っていただきたいところです。

 

 

  別郷廃寺(べつごうはいじ)

愛知県安城市別郷町・西別所町

訪問オススメ度 


さて、まずは別郷廃寺に行ってみましょう。この古代寺院跡は安城市の東部、JR東海の安城駅前から名鉄東岡崎駅行きのバスに乗って10分ほどの「別郷」で下車、徒歩数分のところです。洪積台地の縁辺部に位置し、市杵嶋姫神社(いちきじまひめじんじゃ)の北側の集落一帯が寺院跡とされています。

 

市杵嶋姫神社境内に設置された案内板。寺院跡はここではなく、奥の台地上の既存集落内にあったと考えられています

 

案内板の解説文


別郷廃寺の伽藍配置などは不明で、かつては古代寺院の存在をうかがわせるものは、古瓦のほかは、市杵嶋姫神社の社殿内に礎石とおぼしき石がひとつあるばかりでした。

 

社殿を隙見ング。礎石とされるこの石は台地上の畑から見つかったもので、ここに持ち込まれたものだとか

 

別郷廃寺出土の「北野廃寺系」の軒丸瓦。これは六弁ではなく八弁ですね

 

 

巨大な鴟尾片が見つかった!

 

別郷廃寺は、昭和28年に当時高校生だった天野暢保(あまの・のぶやす)氏(元安城市文化財保護委員長)によって、古瓦が採取されて以降、北野廃寺とそれほど変わらない白鳳期に創建された古代寺院として認知されてきました。しかし、中心伽藍のあると思しき一帯は既存集落となっていて、発掘調査もできず、年月の経るままになっていたのです。

 

中心伽藍があると思われる一帯

 

そんな状況に風穴を開けたのが、平成25年に行われた発掘調査。個人住宅の建て替えに伴い実施された限定的な発掘だったのですが、ここで大発見。大量の瓦などと共に、鴟尾の破片が出土したのです。

 

正式な発掘調査報告書は刊行されておらず詳細は不明ですが、鴟尾片が見つかったのはおそらく画面中央奥のあたり

 

で、これがその鴟尾片。元の大きさは高さ120センチほどと推定。愛知県内でこれまでに出土した鴟尾片では最大のもので、全体が復原できるのは初めてなんだそうですよ。発表された当時は、地元では結構な話題になりました。

 

別郷廃寺の鴟尾片(安城市歴史博物館)

 

鴟尾片の他にも、瓦や須恵器の破片が1,000点以上も出土。仏教儀式に用いられる香炉や多口瓶(たこうへい)の一部とみられる破片もあったことから、ここに寺院が存在していた可能性が極めて高くなりました。それまでは実体の伴わない「幻の寺院」だった別郷廃寺の一端が、ようやく垣間見えるようになったという感じです。

 

別郷廃寺の出土品(同)

 

別郷廃寺の発掘は限定的ながらその後も行われ、かつて寺域を区画する土塁の遺構とも考えられていた東西方向の土盛りは戦国期に築造されたものであったこと、その下部からは別郷廃寺と関連があると思われる掘立て柱の跡が発見されたことなど、地道ながら少しずつこの謎の寺院の姿が明らかにされつつあります。

 

別郷廃寺付近の遺跡から出土した「寺」と墨書された陶器(同)

 

 

平安期の漢詩集に登場する「薬王寺」だったかも?

 

別郷廃寺にまつわる話としてよく言及されるのが、この古代寺院が平安時代後期に編纂された漢詩集『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』に登場する「薬王寺」ではないか、とされることです。その内容がどのようなものか、さっそくみてみましょう。原文はもちろん漢文ですので、私のアバウト現代語訳です。

 

晩秋参州薬王寺を過ぎるに感ずるところ有り
三河国の碧海郡にとある寺がある。薬王寺という。その昔、行基菩薩が建立したという。寺はすっかり古びてしまっているとはいえ、目にするものは何もかもが新鮮だ。前には青々と澄みとおった水をたたえ、後ろには黄色に色づいた林。草堂、茅屋、経蔵、鐘楼、茶園、薬園がある。僧侶が居て寺に住んでいるが、とても優れた人物で颯爽としている。私はといえばただの旅の者にすぎず、移動するにも牛馬のいいなりだ。この寺を訪ねるのは初めてだが、かの僧に逢うのは二度目となる。庭先をそぞろ歩きして、夜は歓談にふけった。見聞きして感じる所があったので、少しばかりこの文を記しておく。

『本朝文粋』巻十

この文を書いたのは慶滋保胤(よししげの やすたね)という平安中期の文人貴族(?~1002年)。仏教を篤く信じ、諸国を遍歴した人物のようですが、彼には深入りせずにここでは「薬王寺」の様子について考察します。

 

まず、立地状況ですが、薬王寺の前面に川または池があり、後背には林があると記されています。これは古代寺院によくある、沖積台地の縁辺部での造営を彷彿とさせます。別郷廃寺もしかり。しかも興味深いことに、別郷廃寺の南側の市杵嶋姫神社の社殿脇には「神池」があり、かつては清水が湧き出していたというのです! これが『本朝文粋』に記された「碧瑠璃之水」だった可能性もありますね。

 

かつての神池は湧水が枯渇してしまっていましたが近くの用水を導入して復旧させたとのことです

 

続く文には、薬王寺の建物として草堂、茅屋(ぼうおく)、経蔵、鐘楼があったと書かれています。草堂も茅屋も草やカヤで屋根を葺いた粗末な建物という印象で、かつての甍をいただいていた堂宇はすでに朽ち果てたか、焼失していたということなのでしょう。瓦葺きの堂の再建はかなわないから、いかにも間に合わせ的に造られたような感じです。「草」「茅」という表現や記述の順番からすると、前者が本堂で、後者は庫裏だったようにも思えます。

 

注目すべきは、経蔵と鐘楼があったということで、これは創建時のものが残っていたということなのでしょうか。慶滋保胤が薬王寺を訪れたのは創建後300年後くらいと思われ、建物規模の小さい経蔵や鐘楼は手入れもしやすいでしょうから、当初のものだったとしても不思議はありません。むろん再建された可能性もありますが、いずれにしても、経蔵と鐘楼を備えていたことは、かつては伽藍を擁した寺院だった痕跡かもしれませんね。

 

さらに薬王寺には茶園と薬園がありました。お茶に関しては、現代の安城市でも栽培がされていますが、地域的には西尾市に近い南部になりますので、むしろ寺領廃寺や西尾市の志貴野廃寺ならぴったり重なります。別郷廃寺近辺でお茶の栽培ができるのか私にはわかりませんので、茶園の話はここで切り上げておきましょう。

 

別郷廃寺が薬王寺だったとして、どのような伽藍だったのでしょうか。中心伽藍は依然謎となっていて手掛かりはないのですが、「水」「林」「経蔵と鐘楼」「薬園」のある寺院として、藤原京の石川廃寺の模型がイメージ的に近かったので掲載しておきます。

 

石川廃寺の伽藍。橿原市藤原京資料室の藤原京の1,000分の1模型から

 

ちなみにですが、「更級日記紀行」という平安時代中期の『更級日記』を題材に取った「日記風旅物語」をネットで公開されている方がいらっしゃいます。薬王寺を訪問した際の僧とのやり取りも記されているのですが、リアリティがありすぎて、まるでタイムリープしてきたかのよう。私自身、大変感銘を受けたので、ここでご紹介しておきます。

 

 

 

後身寺院の「薬王寺」?

 

別郷廃寺の北、2㎞ほどのところに「薬王寺」を寺号とする寺院があります。場所や寺号からすると、このお寺は『本朝文粋』の「薬王寺」の後身寺院のように思えるのですが....

 

和志王山薬王寺(岡崎市宇頭北町)

 

寺伝によると、奈良時代に行基によって創建されたとのこと。これは『本朝文粋』の「薬王寺」と同じですね。しかしこの寺を平安期にあった薬王寺に結び付けて論じたものはなぜか見たことがありません。現薬王寺に設置されている案内板にも、豊阿弥長者などの別の言い伝えが記されていますが、『本朝文粋』への言及はありません。

 

現地の案内板

 

このお寺とは別に、『本朝文粋』の「薬王寺」の後身寺院は、別郷廃寺の北東1㎞ほどの蓮華寺だとする話があります。同寺の言い伝えによると、この寺も神亀5年(728年)に行基が建立したとのことですが、詳しいことはよくわからず。結局、これらの寺院と別郷廃寺との関係を確かめるには至りませんでした。ちなみに蓮華寺のすぐ南には和志山古墳があり、宮内庁により景行天皇皇子の五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)の墓に治定されています。

 

和志山古墳。墳丘長約58mの前方後円墳です

 

 

別郷廃寺の記事は以上です。いつになく長いものとなってしまいましたね。お付き合いありがとうございました。

今回ご紹介した旧跡のほかにも、付近には古墳などもあって、名鉄宇頭駅を起点にして巡ってみるのもちょっとしたウォーキングに良いかもしれません。

次回は安城市後篇で「寺領廃寺」を取り上げます。

 

 

[訪問日]2023.9.2・9.13(安城市歴史博物館)