矢作川流域の古代寺院巡り(その4)~安城市後篇 | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

矢作川(やはぎがわ)は、愛知県西三河地方の中央部を貫いている一級河川。矢作川流域の古代寺院を巡るシリーズ(その4)は安城市後篇です。前篇でご紹介した「別郷廃寺」に続き、今回は「寺領廃寺」を取り上げます。この古代寺院も別郷廃寺に劣らず「物語」が豊富なのですよ。ではレッツラゴー!

 

 

  寺領廃寺(じりょうはいじ)

愛知県安城市寺領町

訪問オススメ度 ★★★

 

三河一向一揆の拠点であり城郭寺院としても知られる本證寺。その東方にある松韻寺(しょういんじ)と、隣接する素戔嗚神社(すさのおじんじゃ)一帯に展開していた古代寺院が寺領廃寺です。


寺領廃寺東塔跡。後ろの観音堂が講堂跡です

 

寺領廃寺へは、名鉄西尾線南桜井駅から安城市のコミュニティバス「あんくるバス」を利用して「寺領」で下車すると便利。本證寺などと組み合わせて訪れるのもよろしいかと思います。

 

南桜井駅前に設置された案内板から。寺領廃寺は右下にあります

 

「あんくるバス」は路線ごとにカラーリングが異なっていて、わかりやすいのがいいですね。私のようにクルマを持たない主義の人間にとっては、こうした地域交通の存在はとてもありがたいです。

 

南桜井駅前で出発を待つあんくるバス

 

今回は早朝から電車で南桜井駅にやってきました。朝日が薄雲にさえぎられて幻想的な雰囲気。

 

広大な碧海台地はほぼ平坦な地形です

 

あんくるバスの「寺領」で下車。寺領廃寺は北東(右奥)にあります

 

 

県内唯一の双塔式伽藍? さらには....

 

寺領廃寺は、発掘調査によりある程度伽藍配置が判明しています。伽藍配置がわかっている古代寺院跡は、矢作川流域ではほかに岡崎市の北野廃寺しかなく、その点で貴重な存在。しかも未確定要素は残るものの、愛知県内では唯一の双塔式伽藍であるかもしれず、さらにはその伽藍配置が独特で、極めて珍しいのものではないかとも思われるのです。

 

現地の案内板。この手の説明文は簡潔にして要を得ていて、いつも感心します。カラーの写真もあってわかりやすいのがグッド

 

では、寺領廃寺の堂塔の配置について見ていきましょう。

 

案内板の拡大。なぜか「中門」ではなく「中大門」と記載されていますが理由は不明

 

伽藍配置図を見てわかるとおり、南から南大門、中大門、金堂、講堂が一直線に配置され、中大門の両脇から回廊が金堂に取り付くように巡らされています。ここまでは国分寺などでよく見かける形式ですが、これに東西両塔が加わります。ポイントは両塔が金堂の両脇に少し距離を置いて配置されていること

 

この配置は私の知る限り類例はなく、「寺領廃寺式」とでも呼びたくなるような形式。以前はこの配置は「東大寺式」と称されてきましたが、両塔の位置が中(大)門の南側にあるわけではなく、また西塔跡が確認できていないこともあってか、近年はその形式名で呼称することは学術的には控えられてきているようです。

 

金堂の両脇に東西の塔が配置される伽藍ですが、似たものは実はあって、「新治廃寺式(にいはるはいじしき)」と呼ばれています。その配置形式は、金堂のすぐとなりに、本尊(金堂)の脇侍よろしく両塔が置かれているもので、全国で数例しかない極めて珍しいものなのです。しかし、寺領廃寺は金堂から両塔までの距離が少々あって、回廊(が存在していればの話ですが)の外側に配置されています。寺領廃寺はこの点が新治廃寺式伽藍とも異なっていて、ひとくくりにしてしまうのには抵抗感があるところ。

 

新治廃寺式の奥村廃寺(兵庫県たつの市)の伽藍。現地の案内板より

 

こちらはその名も三ツ塚廃寺(兵庫県丹波市)。史跡公園として整備されています

 

寺領廃寺の伽藍形式を断定できないのは、なんともモヤモヤしますが、これは西塔跡が未確定であることにほかなりません。西塔跡さえはっきりしさえすれば、「県内唯一の双塔式伽藍!」「全国にも類例のない独自の伽藍配置!」を堂々と標榜できるのですが、現状ではそれはできず、なんとも歯がゆいところです。

 

それはそれとして、寺領廃寺の堂塔跡を見ていきましょう。まずは講堂跡。観音堂が建っているあたりです。周囲よりも多少地盤面が高く、基壇の名残かもしれません。付近には瓦片の散布もあって、寺領廃寺では古代寺院跡らしさが最も感じられる場所。案内板もここに設けられています。

 

講堂は東西約17m・南北約12mで、5間×4間と推定。正方形に近い平面形状で、横長のものが多い講堂としてはちょっと異質な感じ


講堂跡。かつての寺領廃寺を引き継ぐという観音堂が残るのみ

 

続いて金堂跡。素戔嗚神社の境内の南半分がその場所ですが、建物があったとわかるような痕跡は何もありません。推定される基壇の大きさは東西約30m・南北約19mとかなり大きなもの。唐招提寺の創建時の基壇(東西約36m・南北約23m)よりはやや小さいですが、堂々たる威容を誇っていた思われます。

 

金堂跡。写真の左半分がその位置になります

 

講堂跡と金堂跡の間には寺領町公民館が建っており、その東側妻面脇には寺領廃寺の礎石が集められています。同じ場所に「民俗資料 地突き石」と称するものもありますが、詳細は不明。建物を建てる際に地盤を付き固めるための道具として用いれらたもののようです。

 

「寺領廃寺礎石」と書かれた石柱があります

 

次に東塔跡。上述のとおり金堂からは少し離れていて、台地の縁辺部に位置しています。矢作川やその支流である鹿乗川(かのりがわ)からもよく見えたのではないでしょうか。柱の推定位置には境界標が埋め込まれ、初層の平面の大きさから三重塔だったと推定されています。

 

「東塔址」の小さな石柱が目印。奥のガードレールに沿って鹿乗川が流れています

 

そのほかの堂塔は、発掘調査でそれらしい痕跡は認められたものの、存在を確定するには至っていません。

 

中大門の推定位置から北側を望む


そして問題の西塔跡。繰り返しになりますが、西塔の存在が明らかにできれば寺領廃寺の史跡としての価値が急上昇するのですが、推定される場所は墓地と小道となっていて、遺構らしきものはありません。かつては「ショウニンヅカ(上人塚)」と呼ばれる土盛りがあったそうですが、現在は無くなってしまっています。

 

写真の左側、街灯付近が西塔跡とされています。右手は松韻寺です

 

 

寺領廃寺の石物語

 

寺領廃寺の中心伽藍の西側に松韻寺(しょういんじ)があります。このお寺は寺領廃寺とは密接な関係があり、寺伝によればかつて「長松寺(ちようしようじ)」と称した奈良期の古代寺院の一角に、塔頭寺院のような形で創建されたものだといいます。

 

松韻寺山門。右の寺標の基礎も礎石っぽいですがはたして....

 

山門脇にある由緒碑

 

この松韻寺境内の南側には、いわば「寺領廃寺コーナー」ともいうべき一角が二つあり、礎石が様々に展示されています。

まずはその1の西塔跡。墓地の南端にあります。

 

墓所区画の間にある「寺領廃寺西塔跡」

 

さきほど西塔の遺構らしきものは無いと書いたのですが、松韻寺では以前からここを西塔跡として寺宝にしています。ここには塔心礎と思われる石の破片がモルタルに埋め込まれ、併せて心礎上の円孔の全体形が復元されています。

 

わかりにくいですが、区画の奥に塔心礎片が埋め込まれています

 

ちなみに区画左下には出土した軒丸瓦片も埋め込まれています。泥や苔で文様がわからなかったので、墓地の箒を拝借して勝手に洗浄(怒られるかな?)

 

素弁八葉文軒丸瓦。寺領廃寺出土の瓦では最も多い文様なんだとか

 

この塔心礎片の残りの部分ですが、平成16年に松韻寺本堂を建替した際に、なんと本堂の土台の石の中から見つかりました! 発見されたのは2つに分割された円孔の残る塔心礎片で、元からあった一片とは同じ一つの心礎石だったと考えられています。新たに判明した2つの塔心礎片は、西塔跡の少し東側のもう一つの「寺領廃寺コーナー」に設置されています。

 

松韻寺の「寺領廃寺コーナー」その2


新たに発見された塔心礎片(右)と由緒碑

 

心礎片の拡大写真

 

この西塔のものとされる心礎が復元できたことで、素人的には西塔が存在していた蓋然性は高くなったと思うのですが、土壇の跡とか、礎石の抜き取り穴といつた、まだ直接存在を立証できるものが見つかっていない以上、断定はできないということなのでしょうね。

 

ところで、文献によっては、この心礎片は西塔のものではなく、存在が明らかな「東塔跡」のものとしています。まあ、逆に東塔跡のものだとする根拠もありませんから、これにはちょっと苦笑い。それにしても、最近は西塔の存在を否定しようとする傾向が界隈では強い気がしますが、きっと気のせいでしょう(笑)

 

2片の心礎片の置かれたお隣には「聖徳太子むちうけの石」。この石は寺領廃寺に伝わる言い伝えではもっとも知られたもので、山中で賊が太子を亡き者にしようと岩を落として襲撃したところ、太子はその岩を鞭で打ち払い、3つに割れた岩の一つがこの付近まで転がってきたというお話。

 

この石も寺領廃寺の礎石だろうと言われています。太子の話が史実ではないことは明白ですが、太子信仰と付近の残存する礎石とが結合して生み出された伝説とすると興味深いですね。

 

むちうけの石(右)と由緒碑

 

このむちうけの石に関連する伝承地が近くにあります。寺領廃寺の北、歩いて10分ほどのところにある「ぐたらの池」です。池はすでになく立派な由緒碑が残るのみ。太子のむちによって割れた岩は「地中深く喰いこみじいじいと鳴きてやまず」、「村の総力をあげて村外に曳き運びたるや村端れにてぴたり鳴きやみたり岩は其のまゝ置けりと岩根山松韻寺の岩即ち是なり」と伝えています。「地中深く喰いこみじいじいと鳴きてやまず」の一節から、転がってきた岩というよりは、燃え尽きなかった小隕石が地表に衝突した跡ではないかとの話もあって面白い。

 

「ぐたらの池」伝承地(2023.11.13)

 

また、「ぐたら」とは「百済」がなまったものとの説もあります。寺領廃寺からは百済系の軒丸瓦が出土していることから、何らかのつながりがあるのかもしれませんね。百済の工人が寺院造営のために池を掘っていたのでしょうか。謎は尽きることがありません。

 

 

安城市歴史博物館展示の出土瓦

 

寺領廃寺からの出土品の大部分は瓦類が占めています。出土品の中には鴟尾の破片などもあるようですが、カケラのようなもので全体像を復原できるものではないようです。では、前回ご紹介した安城市歴史博物館の展示を見てみましょう。

 

まず創建時に用いられたと考えられる「北野廃寺系」。ほぼ完全な六弁の北野廃寺系軒丸瓦を見ることができるのはおそらくここだけです。このほか、時代が下る百済系とされる八弁の軒丸瓦もありますが、平板で立体感に乏しく、文様も稚拙な感じで、北野廃寺系とは明らかに別系統といった感じです。補修用や増築用に地元の工人が頑張って制作したのでしょうかね。

 

寺領廃寺出土の瓦。右が「北野廃寺系」の軒丸瓦

 

奈良時代に追加発注されたと考えられる瓦

 

 

この百済系の文様で軒丸瓦、軒平瓦を復元したものが、なぜかお隣の知立市歴史民俗資料館で展示されています。

 

寺領廃寺の復元瓦(知立市歴史民俗資料館)

 

さて、寺領廃寺については、この歴史博物館に以前は伽藍復元図のパネルが展示がされていました。金堂の両脇に東西の塔が配され、僧坊や倉なども描き加えられたものだったと記憶していますが、その展示はなくなり、出版物等に掲載されることもなくなってしまったようです。今回、ネットで調べてみたのですが見当たりませんでした。これも西塔未確認問題のためなのでしょうか。

 

今では「幻の伽藍復元図」になってしまったのですが、復元図は視覚的に古代寺院の様子を把握するにはうってつけのものです。堂塔の一部は未確認との注釈付きでよいので、再展示してくれないかなあとひそかに思う次第です。

 

安城市後篇、寺領廃寺の記事は以上です。別郷廃寺と同じく子供の頃から知っていた古代寺院跡ということもあって、今回も長文になってしまいました。お付き合いありがとうございました。次回は「矢作川流域の古代寺院巡り」の最終回、西尾市篇です。

 

 

[訪問日]2023.3.12・9.13(安城市歴史博物館)