矢作川流域の古代寺院巡り(その1)~豊田市篇 | 日出ヅル處ノ廃寺

日出ヅル處ノ廃寺

古代寺院跡を訪ねて

矢作川(やはぎがわ)は、愛知県西三河地方の中央部を貫いている一級河川。流域には、豊田市、岡崎市、安城市、西尾市といった同地方の主要都市が並び、トヨタをはじめとする自動車関連産業が栄えるとともに、かつて「日本のデンマーク」と呼ばれた安城市のように農業の盛んな地域ともなっています。

 

矢作川の流れ。遠景は岡崎の市街地

 

「矢作川」の名称は、古代において、文字どおり「矢」の軸を「作」る部民(べみん)が流域に住んでいたことから名付けられたといいます。かの戦艦大和と運命を共にした軽巡洋艦矢矧の命名の由来となった河川でもありますね。


岡崎市矢作町にある矢作神社内の「軍艦矢矧」の記念碑

 

矢作川は流れがゆるやかであることから川船での運搬に適しており、古代から流域の交通路の役割を担ってきました。それゆえ古代から栄えた地域であり、古代寺院も数多く存在それらに用いられた瓦には共通する文様がみられ、この流域において仏教文化の交流や、中心寺院の遷移があったのではないかと考えられています。


流域寺院によくみられる「北野廃寺系」の軒丸瓦の文様(安城市歴史博物館)

 

今回は、この矢作川流域の古代寺院跡を上流から訪ねてまいります。まずは豊田市からレッツラゴー!

 

 

  舞木廃寺塔跡(まいきはいじとうあと)

国指定史跡 愛知県豊田市舞木町

訪問オススメ度 ★★


矢作川の上流側の豊田市内においてもっとも知名度が高いのがマイキーこと舞木廃寺塔跡。北方の猿投山から伸びる丘陵状の尾根筋の端部に位置しています。昭和4年には国の史跡として指定されて、以降古代寺院の塔跡として広く知られてきました。その割にはこれまで発掘調査は行われておらず、今のところ塔跡以外の遺構は確認されていないため、「塔だけ廃寺」の可能性もあります。

 

舞木廃寺塔跡遠景。周辺一帯は果樹園

 

現地に設置された案内板

 

塔跡には有名な「舞木廃寺式塔心礎」をはじめとする礎石が残っています。この心礎は柱座の周囲にリング状の溝が彫られている少々変わったもので、全国でも10例に満たない珍しいものだとか。同じ矢作川流域では、安城市の寺領廃寺の東塔心礎と伝えられるものがこの形式です。

 

塔跡と石碑

 

塔心礎。リング状の溝が舞木廃寺式の特徴

 

舞木廃寺塔跡へは西側の県道349号からアプローチすることになりますが、道路脇に小さな案内板があるだけで少々わかりにくく、また付近には駐車場もないため、訪問するのは少々やっかいです。公共交通機関の場合でも、最寄りの愛知環状鉄道線貝津駅からは少々遠いため、豊田市のコミュニティバスを利用することになりますが、本数が少ないので注意。

 

舞木廃寺塔跡の入口。南へ徒歩5分ほどの所に「とよたおいでんバス」の舞木バス停があります

 

発掘調査は行われていないものの、採集された出土品として、「北野廃寺系」の瓦のほか、塔の存在を裏付ける水煙や請花の破片、瓦塔片などがあるようです。なかなか興味深いものですが、これらを見ることができる展示施設が無いのはちょっと残念。

 

[訪問日]2023.3.11 

 

  勧学院文護寺跡(かんがくいんぶんごじあと)

愛知県豊田市寺部町

訪問オススメ度 

 

豊田市の中心地の東、寺部城址の関連遺構が残る一帯にある随應院(ずいおういん)の境内地が古代寺院跡と考えられています。随應院はその由来を記した古文書に「勧学院文護寺」の跡に建立されたとあることから、それがこの古代寺院跡の名称として用いられているようです。京都にあるお寺のようなカッケー名称ですね!

 

随應院。徳川家康(松平元康)初陣の地なんだそうですよ

 

現在残っている遺物としては、随應院境内の一角に塔心礎を流用したと考えられている石碑の台座があるのみです。他に境内には礎石らしきものも見受けられますが、伽藍配置などは不明。案内板なども設置されていません。

 

塔心礎と考えられる石碑の台座

 

塔心礎の上面。小さな円孔は後世に彫られた可能性ありとのこと

 

境内にみられる礎石サイズの石(礎石かどうかは不明)

 

[訪問日]2023.3.11

 

  牛寺廃寺(ごでらはいじ)

愛知県豊田市野見町

訪問オススメ度 一


勧学院文護寺跡からさらに矢作川を南下し、県立豊田東高校の南方、500mほどの河岸段丘にあります。ここは遺跡名称こそ「廃寺」となっていますが、瓦等が数点出土しただけで、寺院としての遺構は不明。礎石らしきものも見当たらず、寺院跡だったとしても掘立柱の一堂形式のものだったかもしれませんね。

 

牛寺廃寺全景。古代寺院跡感は皆無

 

現地は耕作地となっており、案内板もないため、訪問してもどこが寺院跡だったのかはわかりません(廃寺あるある)。付近は縄文期や中世の館跡と考えられる遺跡(牛寺遺跡)がありますが、古代寺院の存在が確認できる以降は今のところ見つかっていないようです。

 

左の小道の先は矢作川の堤防

 

[訪問日]2023.3.11

 

  伊保廃寺(いぼはいじ)

愛知県豊田市保見町

訪問オススメ度 

 

矢作川の支流、揖保川(いぼがわ)の南、豊田大谷高校の北側にあります。以前から古瓦が出土することで知られており、地元の伝承から「白鳳寺院跡」の石碑も現地に建っていますが、長らく寺院としての遺構・遺物が確認されなかったため、学術的には「伊保古瓦出土地」との名称が用いられてきました。


わかりにくいですが写真中央の白っぽいのが寺院跡を示す石碑です

 

近年になって行われた発掘調査の結果、瓦積みの基壇の遺構が確認されたほか、瓦塔片などが出土したことから古代寺院跡であることが確定し、めでたく「伊保廃寺」に昇格。遺構は埋め戻されているため、目印になるのは元からある石碑のみです。この伊保廃寺の石碑は当ブログの「天空の城イボハイジ」のネタに使わせていただきました。

 

なお、伊保廃寺から北東に6 kmあまりの猿投神社には、当地から持ち出されたという礎石のほか、数種類の礎石が保管されている一角があります。案内板はなく、どれがどうなのかはわかりませんが、当時を偲ぶよすがにはなるでしょう。

 

猿投神社境内

 

明らかに近世のものもありますが、中央奥のものは古代寺院の塔心礎っぽさがありますね

 

[訪問日]2023.3.11・3.17

 

  慶雲廃寺(けいうんはいじ)

愛知県豊田市駒場町(候補地の一つである「今上駐蹕之所」)

訪問オススメ度 


慶雲廃寺は厳密には矢作川流域ではなく別の境川水系にあり、所在地も現時点では未確定なのですが、(おそらく)豊田市内にあっただろうということで、ここでご紹介。この古文献に登場する古代寺院については、以前かなりしつこく記事を書いきましたので、以下をご参照ください。

 

 

なお、慶雲廃寺出土と伝えられる瓦が知立市歴史民俗資料館で展示されています。

 

右側の3点が慶雲廃寺出土とされる瓦

 

ここで展示されてはいませんが、慶雲廃寺とつながりのあると考えられている駒場瓦窯(豊田市駒場町)からは「北野廃寺系」の文様の軒丸瓦が出土しているようです。

 

 

豊田市博物館

 

2024年4月26日に開館した豊田の歴史や文化、自然、産業などを紹介する総合博物館です。古代寺院関連の展示もあるだろうと期待してさっそく行ってみたのですが、残念ながら舞木廃寺塔跡のパネル展示があったのみで、出土品などを見ることはできませんでした。今回ご紹介した豊田市内の古代寺院は、出土品をまとめて見ることができる施設がないので、豊田市博物館の企画展や常設展の展示替えなど、今後に期待です。

 

 

内部の展示はユニーク

 

豊田市篇は以上です。次回は岡崎市内の古代寺院を訪ねます。