矢作川流域の古代寺院巡り(その2)~岡崎市篇 | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

矢作川(やはぎがわ)は、愛知県の西三河地方の中央部を貫いている一級河川。矢作川流域の古代寺院を巡るシリーズ(その2)は岡崎市篇です。今回は北野廃寺の記事がメインとなりますよ。ではレッツラゴー!

 

 

  北野廃寺(きたのはいじ)

国指定史跡 愛知県岡崎市北野町

訪問オススメ度 ★★★★


西三河地方を代表する古代寺院跡。愛知環状鉄道北野桝塚駅から南へ徒歩10分ほどの場所です。北野廃寺は矢作川流域ではもっとも古い寺院跡とされ、西三河地域での仏教文化の礎となったと考えられています。

 

南側から見た北野廃寺。奥に見える階段のある基壇が塔跡

 

現地の案内板

 

 

これぞ「ザ・四天王寺式伽藍」!

 

発掘により明らかとなった伽藍は史跡公園として整備されており、堂塔が南北方向に一直線に並ぶ四天王寺式の配置形態が現地でもよくわかります。明らかになっているのは、南大門、中門、回廊、塔、金堂、講堂、その背後の食堂など。伽藍の南東側の一部に寿松寺の建物が食い込んでいるのが惜しいところ。

 

南西側から見た伽藍。右側から、塔、金堂の基壇、その奥(左)に講堂跡。ワン公のいる手前の縁石は回廊跡です

 

全国に四天王寺式伽藍の古代寺院跡は結構ありますが、本家大阪四天王寺とほぼ同じ形態と判明しているものは意外に少ないのです。有名どころでは、奈良県桜井市の山田寺跡は、回廊が講堂に取り付かないですし、同じく奈良県斑鳩町の中宮寺跡は講堂や回廊跡が見つかっていません。

 

北野廃寺の伽藍配置。東屋の案内板より

 

改めて四天王寺と北野廃寺の伽藍を航空写真で比較してみましょう。

 

大阪四天王寺(左)と北野廃寺(右)の伽藍。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より

 

両者とも堂塔が一直線に並ぶのは一目瞭然ですが、細かく見ると、

  • 金堂が小ぶりで正方形に近い平面であるのに対して、講堂は横長の長方形で金堂よりも規模が大きいこと
  • 通常奇数となる柱間が講堂は両者とも8間であること
  • 塔と金堂が近接しているのに対して、金堂と講堂の間隔は大きいこと
  • 回廊が講堂の南寄りに取り付いていること

などが一致していることがわかりますね。まさに瓜二つ。北野廃寺の復元模型は見たことはありませんが、四天王寺とだいたい同じと思えば良い感じでしょうか。

 

四天王寺の復元模型(大阪府立近つ飛鳥博物館)。金堂の柱割や東西重門が無いこと、講堂などの屋根が錣葺き(しころぶき)でないことなど、細部は現状の四天王寺と異なっていますね

 

それでは、北野廃寺の伽藍を巡っていきましょう。まずは中門跡です。

 

大木の手前の縁石の区画が中門跡

 

その奥に塔跡。削平されていた基壇が復元されています。基壇上の礎石も失われてしまっていたようですが、半地下式の塔心礎は整備前から地表に現れていたとのこと。

 

塔跡。南東側から

 

残されていた心礎の四周は階段状に整備。塔は高さ30メートル程度だったと推定され、三重塔とも五重塔とも言われています。

 

北西側からみた塔心礎

 

次は金堂跡。金堂の基壇も塔跡と同じく削平されていていましたが、東西15.3メートル、南北13.2メートルと縦横比的には正方形に近いものです。

 

金堂跡。南正面から

 

その奥、講堂跡です。基壇は東西30.2メートルで横幅は金堂の倍。礎石が5つ、礎石の抜き取り穴が2つ残っていたとのことで、正面が8間、奥行きが4間に復元されています。通常正面は5間とか7間の奇数になるのに、北野廃寺は大阪四天王寺と同じく8間となっているのが特徴。しかも1間分は西に張り出しているような形態で、講堂のみ伽藍の中心軸から西側にずれてしまっているのですね。

 

南正面から見た講堂跡。ここだけ礎石の配置が復元されています。

 

なぜ講堂だけが中心線がずれるのか。こういうところが古代寺院の伽藍配置の考え方のよくわからない点の一つ。当初7間で造営を開始したものの、途中で8間にしなければならない理由が生じて、工事中に設計変更をしたのでしょうか? 四天王寺リスペクトで、講堂を「夏堂」「冬堂」の半々にしていたのかも??

 

北野廃寺ではありませんが、古代寺院の講堂の配置にはほかにも不思議な点が多数あります。以前の考察を貼りつけておきます。

 

 

講堂跡の北西側から。右に向かって金堂跡、塔跡

 

そのほか、伽藍としては僧房跡や伽藍の周囲をめぐっていたと考えられる土塁の跡が残っています。鐘楼や経蔵に相当する建物跡は見つかっていないようです。

 

講堂の背後の僧房跡

 

土塁跡

 

 

「北野廃寺式」の丸瓦文様

 

さて、北野廃寺で初期に用いられた軒先瓦の文様(素弁六弁蓮華文様)は「北野廃寺式」という名称が付けられた独特のもので、矢作川流域の古代寺院跡でよくみられることから、北野廃寺を造営した工人によって各寺院に伝播していったものと考えられています。

 

高句麗起源というこの文様、素朴といえば素朴ですが、肉厚の花弁が立体的で他の古代寺院では見られない独特のものです。

 

(その1)でも掲載した「北野廃寺系」の軒丸瓦の文様

 

北野廃寺の東側の県道のポケットパークには、この北野廃寺式の軒丸瓦をモチーフにしたモニュメントが設置されています。

 

名鉄バス「北野」停留所の北にあります

 

このモニュメントの存在を知った時、「ああ地元愛にあふれて...ていうか、こんなマニアックな文様をモニュメントにしようなんて、よく思いついたよなあ」と、ちょっとびっくり。考案された方は古代史ファンだったのでしょうか? いや、それにしても、こうして郷土の誇る歴史を形にして残しているのは素晴らしいことだと思います。

 

「北野廃寺系」の瓦などの出土品については岡崎市が所蔵しているようですが、残念ながら同市では常設展示されている施設がありません。私の知る限り、北野廃寺出土の瓦が展示されているのは高浜市やきものの里 かわら美術館・図書館が唯一のものですが、御覧のとおり風化のためか特徴的な文様がよくわかりません。

 

北野廃寺出土の瓦。かなり傷んでいるようですが、風化なのか劣化コピーゆえなのかはわかりません....

 

北野廃寺からは塼仏や磬形垂飾(けいがたすいしょく)といったものも出土しているのですが、西三河地方の仏教文化のルーツとなった北野廃寺の関連遺物などをまとめて見ることができないのは少々寂しいところ。本家本元の「北野廃寺系」瓦と共に常設で観覧できることを期待したいものです。

 

安城市歴史博物館・愛知県埋蔵文化財センター共同企画展『畏きものたち─東海地方のまじないと文化─』解説図録より

 

 

真福寺に伝わる仏頭

 

北野廃寺の記事の最後は、白鳳時代のものとされる仏頭についてです。北野廃寺の東方、平野部から少しばかり山間部に入つたところに真福寺(しんぷくじ)という寺院があります。竹膳料理で知られており、観光バスでお客さんもやってくる岡崎市の名所の一つ。

 

真福寺本堂

 

現在の真福寺は、古代寺院とは無関係のように見えますが、このお寺には古代寺院に安置されていたと思われる仏頭が伝えられているのです。時代が下るとされる他の仏頭と合わせ、3体が菩提樹館で展示されてます。

 

真福寺菩提樹館。宝物館のような施設です

 

真福寺の仏頭(右)。奈良国立博物館『白鳳─花開く仏教美術─』解説図録より

 

この仏頭、写真のように正面から見ると両目の間が広く、少々間延びしたような印象を受けますが、現物を斜め下方から眺めると、目鼻立ちが整った、優雅で上品なお顔立ちで、第一級の仏師による造形であることが見て取れます。

 

この白鳳期の特徴を有する塑像の仏頭は、北野廃寺の遺品である可能性もあるのですが、話はそう単純ではないもよう。というのは、現在の真福寺のすぐ近くに「真福寺東谷遺跡」があって、ここからも奈良期の古瓦が出土しているというのです。

 

つまり、伝えられている仏頭は北野廃寺とは関係なく、元からこの地にあった古代寺院のものだった可能性もあるのです。どこからもたらされた仏頭なのか決め手に欠きますが、土の中に埋もれることなく、こうして大切に守られてきたのは感慨深いものがありますね。

 

真福寺には仏頭のほかに創建時のいきさつを記した縁起が伝えられていて、それによると、真福寺は、排仏派の首領だったとされる物部守屋の子である物部真福(もののべのまさち)が、聖徳太子の許可を得て造営したのが起源だというのです。記紀には伝えられていない話で、信憑性がどの程度あるのかわかりませんが、守屋亡き後の家督を保全するための策として、敵対していた崇仏派の中でも理解を示してくれそうな太子に迎合して、真福寺を建立したということなのかもしれませんね。なかなか興味深いエピソードではあります。

 

[訪問日]2023.3.11

 

  丸山廃寺(まるやまはいじ)

愛知県岡崎市丸山町

訪問オススメ度 

 

矢作川の支流の乙川の流域、現在の岡崎市立美川中学校付近に寺域があったと想定されています。同中学校の建設時に布目瓦が大量に出土したといいますが、現在は同校の南に隣接する加良須神社(からすじんじゃ)塔心礎とされる礎石が祀られているのみ。現地に案内板はなく、伽藍配置なども不明の寺院です。

 

加良須神社の参道。右は美川中学校

 

同神社境内の祠の前に置かれた心礎とされる石

 

心礎のアップ。中央の円孔周囲に盃状穴らしきものがいくつか確認できますね

[訪問日]2023.5.8

 

  能光廃寺(のうこうはいじ)

愛知県岡崎市渡町

訪問オススメ度 一

 

矢作川の右岸、名鉄名古屋本線とJR東海道本線の中間あたりにあったとされています。古瓦が出土し、一応「廃寺」としての呼称もありますが、「能光遺跡」と表記されることも多く、古代寺院跡と確定されるには至っていません。矢作川の徒渉地点にあった小堂だった可能性も指摘されていますが詳細は不明。


能光廃寺(能光遺跡)付近の様子

 

北東の少し離れたところに能光寺薬師堂という小堂がありますが、古代寺院との関係は無さそうな感じ。

 

「能光社」という神社との表記もされますが、現地には「薬師堂 能光寺」と彫り込まれた石碑があります

 

[訪問日]2023.4.8

 

岡崎市内にはこれらのほかに高隆寺跡という市指定史跡の寺院跡もありますが、平安後期の創建ということでパス。岡崎市篇は以上となります。次回は安城市を訪ねます。