講堂の配置に関する諸問題 | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

古代寺院において講堂はたいてい金堂や塔の背後に配置されていて、法隆寺や薬師寺などで金堂内陣を拝観し、ひとしきり感動に浸ったあとに「サブ金堂」的なイメージを抱いてわくわくしながら講堂に立ち寄ると、堂内は案外スッカスカで肩透かしを食らったような感じになりませんか?(私はなる。笑)

講堂は僧侶がお勉強をするための場であり、言うなれば現代の大学の講義室だと考えれば、金堂とは内部の様相が異なることは、自ずと理解されるところではあります。
その点、信仰の対象物として装飾的要素の強い金堂や塔とは違い、講堂はかなり実用的な機能に寄った建物であり、中心伽藍の中ではかなり性質が異なるものであると言うことができましょう。

そのような講堂について、様々な伽藍配置図を眺めていると、「んん―?」と思うことがいくつかあって、今回はそれらを「講堂の配置に関する諸問題」として書き記していきます。
問題といっても、すでに専門家によって答が出されているのかもしれませんが、まあそこはご容赦を。

 

古代の建築様式で再建された講堂(四天王寺)

 

 

【諸問題その1】無くてもいいんじゃないか問題


よく見かける古代寺院の様々な伽藍配置の図を見ると、主要な構成要素として、金堂や塔などと共に講堂も必ず登場していますが、地方寺院などでは見当たらない例も多くあります。
これは単に未発掘であったり、あるいは破壊されてしまったりで遺構が確認できないこともありますが、講堂がはじめから存在していない場合も割とあるようです。

 


【図1】講堂の有無(法隆寺式の場合)

 

存在しないのは、1)建造する意志はあったけれども資金難等により断念、2)端(ハナ)から造るつもりはなかった、の2パターンが考えられます。
後者の理由を考えるに、講堂は金堂や塔とは違って、それだけを造ってお仕舞いではないという点があるでしょう。

 

つまり、講堂を造った以上は僧坊や食堂といった関連施設の整備もしなければいけないし、それらの完成後も、招聘した僧侶や学生僧の食住の提供など、継続して多額の経費が必要となる、ゆえに講堂を持たない寺院もあったのではないか、ということです。

この結果、講堂無し寺院の造営が広まって信仰の対象物の形成や勢力の誇示はできても、仏法をきちんと修めた僧侶の育成がおざなり(なおざり?どっちだ?)となって、仏教が興隆したように見えて、その実アヤしい坊主がはびこる遠因になったかもしれません。


反対に講堂を備えた寺院は「マジメなお寺」なのでしょう。国分寺などの官営寺院は、まさに全国にマジメ仏法パワーを注入するために造営されたとすると合点がいきますな。

 

尼寺廃寺(奈良県香芝市)の伽藍配置。伽藍が東面する講堂無しパターン。後背は丘陵地

 

 

【諸問題その2】回廊の内外問題

 

次は、講堂と回廊の関係に注目してみたいと思います。

 

【図2】回廊と講堂の関係(四天王寺式または山田寺式)

 

例えば大阪の四天王寺は、その名を冠した「四天王寺式」による堂塔の配置ですが、【図2】の右側のように講堂の両脇に回廊が接続する形式となっています。

一方、奈良県桜井市にある山田寺は、一見、四天王寺と同じような伽藍配置ですが、こちらは左図のごとく回廊が講堂に接続せず、その手前で閉じる形になっています(この配置をあえて区別して「山田寺式」と呼ぶ提案もなされている)。

 


山田寺の伽藍復元図。講堂がボッチ状態

同様の事例は「薬師寺式」の伽藍にもみられ、本家の西ノ京の薬師寺の回廊は講堂に接続するのに対して、大阪府枚方市にある百済寺は講堂ではなく金堂に接続しており、講堂が外に追いやられた格好になっています。

 

回廊が両袖に取り付く薬師寺の講堂。白色彗星帝国も真っ青の超巨大建築物だ

 


百済寺の伽藍配置。こちらの講堂は回廊の外(2007年に訪れた際の写真。史跡の整備が進んでいると聞きますが、まだあるのかなあ?)

 

さらに興味深いことに、斑鳩の法隆寺は、初めは講堂を除いて閉じる形式だったものが、途中で講堂に接続するように改修されたことがわかっています。

これはどういうことでしょうか?

 

回廊で囲まれた部分の性質に注目するならば、ここはいわば「至聖所」であったらしいことを考慮しなければなりません。この閉鎖空間は、僧侶であってもみだりに立ち入ることができなかったとの見解があります。


対して、講堂は日常的に僧侶たちの出入りがあったであろう(半)俗的な性質を帯びているので、至聖所の外に追いやられるのも道理。つまり、閉じた形式は、回廊によって聖と俗とを明確に区分しなければならないという思想が徹底していたことの結果です。たぶん。

その考えに立つと、講堂に回廊が取り付く形式は、回廊内の聖なる空間としての性質が低下したのか、逆に講堂の地位が向上したのか、いずれにせよ旧来の聖俗の差が相対的に縮まったのではないかと推察されます。

一方で、聖俗ではなく実用的な面、つまり当時の仏教儀式でどのように堂塔が使われていたのかという観点からの検証も必要になりそうです。すなわち、回廊が講堂に接続していないと実際にめんどくせー問題が発生したなど、接続しなければならなかった理由を明らかにしなければなりません。


金堂や塔で儀式をした後に、講堂で高僧の講義を聴くとか、一連の動線をスムーズに処理したいのなら、講堂も含めた空間構成にした方が良いに決まっています。


川原寺の復元模型。回廊は右の金堂に取り付くが、左の講堂と鐘楼、経蔵を僧房付のハイブリット回廊が三面を取り囲む

 

実際に当時の仏教儀式がどのようなものであったかは、ごく限られた文献にしか残されていないようなので、全貌を復元するのは困難なようですが、そうしたアプローチには、講堂というよりはむしろ回廊の機能にフォーカスを当てなければならないようです。


「回廊がどのような機能を持っていたのか問題」については、また別の機会に取り上げてみたいと思います。

 

 

【諸問題その3】西側に配置されてもいいんじゃないか問題

 

3点目は、講堂の特異な配置について。

 

【図3】講堂の配置位置(四天王寺式の場合)

 

講堂は一般的に【図3】の右側のように金堂(及び塔)の背後に配置されますが、中には左図のようになぜか西側に配置される例があります。
これも面白いことに、様々な伽藍配置形式で見られる現象です。


四天王寺式で講堂が左側に配置される例として、岡山市の幡多廃寺(はたはいじ)があります。また法起寺式では三重県名張市の夏見廃寺。そして薬師寺式でも事例があって、和歌山市の紀伊上野廃寺、さらには薬師寺式の変形バージョンで、金堂の両脇に塔が配置される形式(新治廃寺式)の松江市の来美廃寺(くるみはいじ)も東面講堂です。

 


夏見廃寺の復元模型。夏見廃寺展示館にて(2007年撮影。最近は館内撮影禁止...)

紀伊上野廃寺の伽藍配置。回廊も一部斜めにして「限られた土地で双塔式伽藍を有効に配置しました!」感がハンパない


これらの特異な配置は「地形的な制約のため」として理由づけられることが多いようです。

確かに、後背地が丘陵または谷になっていて、一般的な配置が困難であるため、「やむを得ず」西側に配置したということはあり得るでしょう。

 

しかし、例えば幡多廃寺では想定寺域一帯が広々とした平地になっており、地形的な制約との理由は当てはまりません。むしろ「西側に配置したい」という積極的な意図があったように思われるのです。


幡多廃寺の伽藍配置。講堂は金堂と塔の西に配置
 

それになぜ「西側」なのか
寡聞にして知らないのですが、講堂を東側に配置する例もあったりするのでしょうか。

(一方、塔の単独配置は東寄りが多いような感じ)

理由も含めて今後の研究課題ですね。

 

 

【諸問題その4】配置上の軸線が傾いているのはどうしてか問題


法隆寺の伽藍配置図(模式的なものではなく実測に基づくもの)をみると、講堂の配置が少し時計回りに傾いていることが見て取れます。
下の【図4】の左側のように法隆寺の中心伽藍のうち、「講堂だけ」配置上の軸線が異なるのです。


同様な事例として、右図のように反時計回りに傾いた大阪府泉南市の海会寺(かいえじ)が挙げられます。

 

【図4】中心伽藍での講堂の軸線の傾き(法隆寺式の場合)


優れた測量技術を有していた古代人が、ついうっかりしてずれているのに気付かなかった、そんなことがあるのでしょうか。
でなければ意図的に傾けたことになるがその理由がわからない。

 


海会寺の伽藍配置

これも「地形上の制約」との説明がされる場合があります。

海江寺跡の屋外展示模型を見ると、確かに講堂は背後の段差の形状に沿うような感じですね。

しかし、そうやってゆがんだ配置にするくらいなら、全体的に手前側へ堂塔の配置を引き寄せればよさそうなものです。

 

海会寺の立地場所を示す屋外模型

 

傾き配置の理由として、例えば、塔の存在による空間のバランスを保つために、一種の錯視効果を狙ったとは考えられないでしょうか。


塔は言うまでもなく伽藍の中で一番背の高い建造物で、それが存在することによって周囲にも「圧」を与えることになるので、講堂の配置軸をすこし傾けて圧迫感を和らげることにしたのではないか。


しかし、この説は、塔のある方向に空間を広げるように講堂を傾けて配置した法隆寺には当てはまっても、海会寺のように逆に塔のある方向が狭くなるように配置される例もあるから、成立しません。

まさか、アヴァンギャルド的な美意識で「ちょっと軸線ずらしてみよっと」と考えたからなのか?
あるいは地質的な問題があって、軟弱地盤の部分を避けたからなのか??
はたまた怨霊を鎮めるための「まじない」だからなのか???

これはほんと、設計者に理由を小一時間問い詰めたくなる問題ですね。

 

 

以上「講堂の配置に関する諸問題」として4点取り上げました。

これらの問題については今後も検討していきます。