慶雲廃寺を探し求めて(補遺)~絵図に描かれた下馬観音ほか | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

愛知県の豊田市もしくは知立市にあったとされる慶雲廃寺(けいうんはいじ)

これまでにこの古代寺院について以下のとおり4回に渡って記事にしてきましたが、新たな情報が得られましたので補足しておきます。

慶雲廃寺の跡地と関係があるという下馬観音に関する文献や絵図、その他雑多な関連情報になります。

 

 

 

 

 

 

刈谷藩士の記した下馬観音

 

幕末の頃、刈谷藩士濱田與四郎雅昌が鎌倉街道を巡ってその様子を記述した『鎌倉街道之記』という記録があり、この中で八橋・下馬観音界隈に触れた箇所があります。

 

実はこの記録は『下馬観世音縁起』に一部が現代語に改められて引用されており、その存在は知ってはいたのですが、さすがに原文を探すことはできないだろうと端から諦めておりました。

 

現在の下馬観音の覆屋内に掲げられた『下馬観世音縁起』

 

しかし、つい最近になって、八橋古城跡の発掘調査報告書にこの一文が掲載されているのを見つけたのです。この記録を読んでみると、慶雲廃寺や下馬観音の場所を特定する上で興味深い記述がありましたので、以下に転載しておきます。

(前略)田畑を過松林を越て八橋村無量寿へ参り、本尊業平御作観世音并ニ(ならびに)古代の橋杭沢辺に四蜘手の燕子花当地のみなりとて里人申聞候、村を離れ暫く過て業平朝臣の印なりとて五輪あり、其辺古松所々生て数百年之俤(おもかげ)をのこし有之候、川を越へ田道のほとり三株の松あり、往古の並木の跡の由聞伝へ候、細道を過て坂を上り右の方小松山の中下馬観音小堂石仏にて立給ふ、古へは尭雲寺と申諸堂も数多ありしか衰微に至り、今古瓦等所々にのこり居候、畑道を過駒場村を通り愛妻川を越て是より(後略)

(『八橋古城跡』知立市教育委員会発行 1999)

この記録によると、濱田は無量寿寺から鎌倉街道を東から西に向かって歩いて行ったようです。今も残る「業平朝臣の印なりとて五輪」の近くにある「古松」というのは根上りの松のことでしょうか。渡った「川」は逢妻男川のことと思われ、「三株の松」はさすがに残っていないものの、これらの状況は現在と一致します。

 

 

下馬観音の位置確定か?

 

面白いのはここからです。記録によると「坂を上り右の方」に「小松山」があり、その中に下馬観音があったというのです。下馬観音の具体的な位置を記した記録ははじめて見るものです。

 

小松山というのは不明ですが、東側から坂を上って右手といえば今上駐蹕之所(きんじょうちゅうひつのところ)のある側になりますね。右手の「方」と書いているので、鎌倉街道からは少し離れた場所の表現のように感じられ、これは街道から今上駐蹕之所あたりへの距離感に合うように思われます。

 

ちなみに昭和57年に記された『下馬観世音縁起』では、下馬山を当時あった「秋田鉄工所のあたり」としており、この場所をピンポイント的に捉えれば鎌倉街道の左(南)なのですが、「あたり」という表現が街道の右(北)も含めているのかどうかまではわかりません。

 

いずれにしても、濱田の記録は幕末の頃に実際の下馬観音を見たという同時代の記録であり、信頼度は高いと言えます。

 

さらに、記録では古来ここに「尭雲寺」(「慶雲寺」「橋雲寺」が変化したものか)があったとし、古瓦が出てくるとの話も伝えていますが、この記述も今上駐蹕之所のあたりを指しているとして矛盾はありませんね。

 

(古瓦の出土の点では、今上駐蹕之所の南にある駒場瓦窯の可能性もありますが、ここは舌状台地の東側の斜面地にあったと考えられ、「坂を上り右の方」という記述にはややなじまないように思われます。)

 

厳密な場所までは絞り込めませんが、どうやら幕末期に存在していた下馬観音の位置は、少なくとも鎌倉街道の北側にあったということになりそうです。
 

 

なんと絵図もあった!

 

さらに調べていくと、この濱田の記録は、詞書のみの『鎌倉街道之記』だけではなく、詞書のついた絵図である『鎌倉街道之図』があったというのです。それを見られないものかとネットを探すと....ありました!

 

 

画像では少々読み取りにくいが、この絵図を見ると右上に池がある。これは安城市の「花の瀧」の近くにあった八幡池と思われます。ここから西(左)向きに続いていく道が鎌倉街道です。

 

少し先に行くと「八橋村」、街道の北側には木々に囲まれた「無量寺」(幕末期の無量寿寺の寺号)。さらに進んで「業平の五輪塔」。その手前(右側)にあるはずの在原寺は『鎌倉街道之記』と同様ガン無視されていますね。

 

川を渡って右側に一本だけ描かれた松は「落田中の一本松」だろうか。さらに西に行くと、ここで本命の下馬観音の登場。街道のすぐ北の林の中に、小堂の絵と共に「下馬観音」と書き込まれています

 

何も描かれていない在原寺に比べると、下馬観音は当時それなりの存在感があったことがうかがえます。この絵図によると、下馬観音の林は鎌倉街道の北側のすぐ脇にあったように描かれている

 

『鎌倉街道之記』の記述ぶりから前項で推測した「右の方」の距離感は、観音を祀る小堂がこの林の「奥の方」にあったというニュアンスになるだろうか。ということは、感覚的には今上駐蹕之所の石碑よりは南側のあたりだったのかもしれません。

 

ところで、この絵図で注目すべきは、街道を挟んで下馬観音の反対側(南側)に記されている池らしきもの。この名称を示す表記はありませんが、『高岡村沿革史』に登場するカキツバタがあったという池の跡でしょうか。以下は(その1)で取り上げた『高岡村沿革史』の「下馬山」の記事の続きになります。

 

一 下馬山

(前略)又名勝地誌に無量壽寺に距ること數町なる駒場の側に一堆の小丘あり 古松五六株散生し其側に凹なる池の形のごとき芝地あり是昔杜若のありし跡と云ふ 今は杜若をも見ず近傍は皆田園にして古への俤をも止めず 昔は澤の水を八方へ蛛の手のごとく溝を穿ちて流しそれに八橋を架したるなり、業平東下りの時(以下伊勢物語)其澤のほとりの木の蔭におり居てかれ飯くひけり 其澤に杜若いと面白く咲きたり(中略)

亦永禄十年※1里村紹巴(さとむら じょうは)※2富士道見記云 西は下馬堂と云ふ跡には松一株澤の半に時雨の松と云ひ一本あり餉飯しける木蔭なるべし 東に少しの岡あり此處に石塔のあるは業平の印と云へりと記す 然れば八橋古蹟も下馬山附近なる事を知るべし。

 

※1 1567年 ※2 1525~1602年。戦国時代の連歌師で信長や秀吉とも交流があったという。

 

『愛知県碧海郡高岡村沿革史』 石川源助著  石川喜代松出版  大正9年

 

『鎌倉街道之図』に描かれた池らしきものが、前段の「凹なる池の形のごとき芝地」かどうかは、これからは判断できませんね....。この芝地はもう跡形もなく消滅してしまっていますが、この場所が特定できれば、下馬観音(と慶雲寺の伝承地)の位置がよりはっきりするように思われます。

 

後段の記事はおまけです。戦国期の記録に「下馬堂」が登場していることがわかります。意味としては「下馬堂という(昔栄えた寺院の)跡には」ということでしょうか。(その1)で取り上げた部分では、慶雲寺は天文年間(1532~1555年)に八橋に移されたことになっているので、1567年に「跡地」になっていたというのは整合性がありますね。
 

 

『東海道分間延絵図』にも登場


下馬観音の位置に関しては、前項の『鎌倉街道之図』で終了かと思いきや、このブログのコメント欄で別の資料をご教示いただきました(ssさん、ありがとうございます)。その資料とは『東海道分間延絵図』というものです。

 

この絵図は1982年に東京美術から復刻刊行されたものがあり、蛇腹のように折りたたまれた絵図本体と、解説書からなった立派なものです。地元の方であれば図書館に置いてあるかも。

 

 

江戸幕府が東海道の状況把握のために作成したというこの絵図。主役は言うまでもなく東海道なのですが、第十四巻に収められた池鯉鮒宿近辺の図には、北側(上側)に併走する鎌倉街道の絵も描き込まれています。

 

この図では前述の『鎌倉街道之図』よりは詳しく地物が書き込まれており、無量寺から西に向かって常教寺(浄教寺)、在原堂・薬師堂、業平塚、逢妻川を越えて「此辺字落田一本松」などと続き、そして鎌倉街道のすぐ南側に「八ッ橋杜若之古跡」と書かれた池らしきものがあります。


この向かいに下馬観音があれば『鎌倉街道之図』と同じなのですが、さにあらず。向かいには特に何も描かれておりません。では肝心の下馬観音(並びで「慶雲廃寺」とも記されている)はというと、さらに西側で、まるで遠くの丘か山の中腹にあるかのように描かれているのです。

 

鎌倉街道も途切れてしまって、下馬観音が鎌倉街道沿いにあるようには全く見えません。これは明らかに『鎌倉街道之図』とは違った場所を示しています。

 

『東海道分間延絵図』は1806年に完成したといいますから、『鎌倉街道之図』とほぼ同時期の記録です。多寡はあるものの鎌倉街道沿いの同じような地物が描かれていますが、下馬観音と慶雲廃寺の位置の整合性はとれていないように思います。

 

ということで、「謎はますます深まった」....笑
 

 

そもそも鎌倉街道のルートはどうだったのか


さて、これまで何の疑いもなしに、知立市の無量寿寺の南から豊田市の駒場町にかけての鎌倉街道は、現在その名残とされる南東から北西方向にほぼ一直線で通っている道だと思い込んでいましたが、少なくとも幕末期に鎌倉街道とされていた道はこの道と同じなのでしょうか?

 

このルートによっては前述の下馬観音の位置がずれてくることになるので、今さらですが、その確認の重要性に気付きました。地理院地図で確認できる最も古い明治24年の地図には、現在の街道と同じ直線的な道が認められるので、少なくともこの時代には存在していたことは明らかです。

 

一方で、気になる記述があります。『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 知立』には、昭和35年に現在の小字下馬の森を写したと思われる写真の説明に「森の下の土堤(どて)が約一間(約二メートル)の道で、業平が東下りに使った旧東海道であると伝えられている」という記述があります。

 

下馬の森の裾を通る道。これが鎌倉街道だったのか?

 

かつては直線的な鎌倉街道ではなく、下馬の森の裾をまわりこむようにな別のルートが鎌倉街道とされていたということでしょうか? ふり返って『東海道名所図会』を見ても、道は直線的ではありませんでしたね(もっともこの絵は、絵師が伝聞情報をもとに「デザイン」して描いたものかもという気もしてきました)。

 

はじめはこの鎌倉街道の記述は「何か思い違いでもしていたのでは」と勝手に決めつけていたのですが、これはきちんと調べてみないといけない。今後の課題にしておきます。
 

 

改めて「慶雲寺」という寺号を考える


話変わって「慶雲寺」という寺号についてです。ネットで「慶雲寺」を検索すると、全国に同名の寺院があることがわかります。

 

このブログで取り上げている慶雲廃寺のように、慶雲年間に創建されたという由来のある寺院は探し出せていませんが、慶雲寺を名乗る寺院にはどうも「臨済宗」が多いようです。慶雲廃寺の後身寺院とされる無量寿寺も臨済宗です。この符合にはナニカあるのでしょうか?

 

『高岡村沿革史』によると、荒廃した慶雲寺を南溟和尚が現在の無量寿寺の場所に移転、禅宗に改宗させたとあります。もしかしたら「元は慶雲寺という寺号」というエピソードは、理由はよくわかりませんが「『慶雲寺』推し」の禅宗(臨済宗)の僧侶によって、そのときに後付けで加えられたのではないかという気もしてきました。

 

元号を寺号にした寺院がどれだけあるのか調べてはいませんが、畏れ多くも天皇が付けた(ことになる)元号を地方のごく小規模の寺院の寺号とするものかなと、以前から少々違和感を抱いていたところではあります。

 

慶雲廃寺出土の瓦の年代と慶雲年間創立という伝承との間に、時期的な不整合は生じていないようですが、慶雲年間創建との伝承もちょっと疑ってみる必要はありそうですね。
 

 

海龍王寺からうかがえる小寺院の様子


また別の話になります。寺域の狭い小寺院の諸堂の様子がわかるものがありました。1356年に描かれたという『南都海龍王寺寺中伽藍坊室之絵図』です。現在、海龍王寺の本堂内に掲げられております。

 

絵図が描かれたのは古代寺院としての活動時期よりはずっと時代が下るものですが、日常的な生活機能が庫裡などの建物に統合がされる前の諸堂がどのように配置されていたのかを知る上で興味深いものです。

 

 

昔の絵図のため、建物を見た方向がてんでばらばらで見づらいことこの上ないですが、中金堂や特徴的な東西金堂のほかに、講堂、食堂、僧坊などと書かれた小堂が配置され、これは古代寺院に見られる配置の形態をとどめているようです。創建時のものが残っていたのでしょうか。

 

それぞれの小堂は、絵で見る限りでは現在残る西金堂(間口3間・奥行き2間)と同程度のもので、かなりコンパクトな造りのようです。

 

小規模な堂をチマチマ造るよりは、機能を統合して大きな堂を造れば良さそうなものですが、これは現代人考える合理性で、当時の人からすれば、小規模であろうとも機能ごとに独立した建築物とすることが大事だったのでしょう。慶雲廃寺の伽藍配置を考える(妄想する)上で、参考となりそうな事例でした。

奈良市役所の平城京模型を北西側から見る。左側の小堂が密集している区域が海龍王寺。右の双塔式(さらにその南にも三重塔)の大伽藍が法華寺

 

だんだん沼にはまっていくようですが、慶雲廃寺に関する新たな情報が得られたらご紹介していきます。