北勢地区の廃寺を巡る(その1)~四日市市篇 | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

紀伊半島の東側に位置し、山海豊かな自然と伊勢神宮で知られる三重県。南北に長い県域で、「北勢」「中勢」と呼ばれる地域には、距離的に畿内と近いこともあってか、中央政権との関係がうかがえる古代寺院跡が結構あったりします。


三重県の代表的な古代寺院跡と言えば、史跡公園として整備されている鈴鹿市の伊勢国分寺跡になるかと思いますが、今回は伊勢国分寺跡よりも北側にあたる北勢地域の廃寺探訪に出かけてみたいと思います。訪ねた日はバラバラですが、区域ごとにまとめて記事にします。

 

(その1)は四日市市を巡ります。それではレッツラゴー!
 

 

 

  智積廃寺(ちしゃくはいじ)

三重県四日市市智積町

訪問オススメ度
 

広大な市域を誇る四日市市にあって、今のところ唯一の古代寺院跡がここ智積廃寺。出土した瓦やから白鳳期から奈良時代初期にかけて創建されたとみられている。

 

近鉄湯の山線高角(たかつの)駅から、鈴鹿山脈を望みながら矢合川(やごうがわ)に沿うように西へ歩いて行く。東名阪自動車道の手前で橋を渡り、少し歩くと盛土高架の脇に碑と案内板がある。ここが智積廃寺です。

 

東名阪道自動車道の脇にある石碑と案内板

 

中心伽藍は案内板の東側にあったのだが、圃場整備が行われて今は一面の田んぼだ。かつてはここに「高松塚」という土盛りがあり、古代寺院の土壇跡だった可能性もあったようだが、それも消滅してしまっている。

 

写真中央辺りの田んぼの中にあった中心伽藍

 

智積廃寺は過去に数度発掘調査が行われ、一直線上に金堂、講堂、僧坊が並ぶ遺構が確認されている。その同一ライン上に塔跡は確認されなかったので、少なくとも四天王寺式伽藍配置ではなかったとされている。薬師寺のような双塔式だったのか、東側だけに塔がある大官大寺のような配置だったのか、それとも塔は無かったのか、そのあたりは不明である。

 

ここからは川原寺式と呼ばれる複弁蓮華文様の軒先瓦や博仏の断片などが出土しており、それらは後でご紹介する「くるべ古代歴史館」で見ることができます。

 

智積廃寺の出土品(くるべ古代歴史館)

 

 

 

  久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)

国指定史跡 三重県四日市市大矢知町


古代寺院跡ではありませんが、古代史に興味があればぜひとも訪れておきたいのがこちら。久留倍官衛遺跡は伊勢湾を望む見晴らしのよい丘陵地にある古代の役所跡で、周囲が「くるべ古代歴史公園」として整備されているほか、出土品の展示などを行う「くるべ古代歴史館」が併設されている。

 

正殿と同規模で建てられたあずまや(中央)と復元された八脚門(右)

 

公共交通機関を使うなら、近鉄名古屋線の近鉄富田駅で三岐鉄道三岐線に乗換え、一つ目の駅の大矢知駅で下車。そこから徒歩で15分ほどです。

 

現地の案内板

 

古代の役所も、寺院のように機能ごとに分化された整形な平面を持つ建物があって、それらを規則的に配置するという点では似通っており、寺院の伽藍配置を考える上で何らかの手がかりが得られるかもしれない(と思っています)。

 

久留倍官衛跡は発掘調査によって施設の変遷まで解明されている。当初は正殿や門があったのだが、次第に求められる機能が変化していき、それに伴い施設も変わっていったらしい。また、一般的には役所も古代寺院と同じく諸堂が南面に向く配置であるところ、久留倍官衛では東向きに配置されている点で珍しいのだそうだ。

 

右から順にⅠ期、Ⅱ期、Ⅲ期の模型


Ⅰ期の脇殿。正殿の両脇にあった建物跡

 

 

くるべ古代歴史館


併設の資料館です。規模は大きくはないが、久留倍官衛跡からの出土品や模型だけでなく、古代寺院関連の展示もあるので、ハイジスト的には見逃せない施設だ。市内の智積廃寺や平安期の大膳廃寺(だいぜんはいじ)だけでなく、お隣の朝日町の縄生廃寺(なおはいじ)の出土品の複製なども展示されている。

 

バイパスと国道をくぐった東側にあります

 

ここは入場無料で、写真撮影もOKなのがグッド。特に縄生廃寺の出土品は、地元の朝日町歴史博物館では撮影禁止になっているので、複製品とはいえここで写真が撮れるのはうれしい。学芸員の方だろうか、いろいろと丁寧に説明してくださるのもありがたい。

 

くるべ古代歴史館の内部の様子

 

施設の方と話をしているうちに、その縄生廃寺の遺物の話になった。この地方ではよく知られた唐三彩の覆い蓋のついた舎利容器についてである。コンパクトながら美しいもので、本物は重要文化財指定だ。

 

「私はね、この容器は讃良さん(持統天皇)のものだったんじゃないかと思っているんです」

 

え? いやいやいや、そんなことあるわけ....う―ん。考えてみれば、彼女は壬申の乱の折、夫の大海人皇子について吉野を脱出し、苦労の上桑名まで一緒に来たという。大海人は桑名に讃良を残して、軍勢を整えて決戦のために北上していった。

 

縄生廃寺出土の舎利容器の複製品

 

残された讃良がどんな気持ちで過ごしただろうか。そう考えていくと、彼女がこの地に特別な思い入れがあったとしても不思議ではない。そうすると、この容器は持統天皇の持ち物だったか、そうでなくても彼女の意向により製作されたか、取り寄せられた物だったかもしれない。

 

別に根拠があるわけでもなく、はじめは突拍子もないことだと思ったが、だんだん自分でもそう思えるようになってしまいましたよ

 

 

『天上の虹』で盛り上がってしまう


これをきっかけに、持統天皇の生涯を描いた里中満智子先生のライフワーク『天上の虹』の話になりました。

 

「あの作品は日本の古代史を知る上でもとても勉強になりました」

「私も全巻持っていますよ」

「最後の方で、持統天皇が晩年の三河行幸の際に行宮を地元人に襲撃されて、そのときの怪我が元で亡くなったと」

「ええ、確かそんなことになっていましたね」

「三河出身の人は、ご先祖さま、最後の最後に何てことをしてくれたんだ!って。笑」

「あはは、本当かどうかはもちろんわかりませんけどね」

 

こんな風に話が盛り上がる。最後に気になっていたことを聞いてみた。

 

「四日市は官衛跡もあるし、もっと古代寺院跡があってもよさそうなものですが」

「そうですね。市内は智積廃寺と大膳廃寺だけですものね。ただ私は少し期待していて....」「何をです?」
「最近、このあたりでも道路の工事や計画があるのですが、実は古代の主要道に近いルートだったりするんですよ。ということは、工事中に何か見つかるんじゃないかって」

 

久留倍官衛跡を跨ぐバイパス

 

なるほど、そう言われればこの官衛跡もバイパス道路が横断しており、一部の遺構は高架下に整備されている。智積廃寺も東名阪自動車道建設に伴って発掘がされたと言うし、以前訪れた岡山県津山市の久米廃寺も高速道路の高架下にあったな。開発によって明らかになった遺跡も数多くあることは心に留め置いてもよいでしょうね。

 

 

 

四日市にある「いかるがの里」


「くるべ古代歴史館」を後にして、「大膳廃寺」を見に行く。私は平安京遷都までの古代寺院に関心があって、自分の線引きの中では、平安期の創建だったらしい大膳廃寺は興味の対象外なのだが、せっかくなので寄ってみた。来てみると、周囲はすっかり宅地化され、個人宅の庭先にかろうじて遺構を示す石碑が残っているだけである。

 

言われなければ気付かない大膳寺跡の石碑

 

近鉄の霞ヶ浦駅まで歩いて行く途中、何気なく路傍の石碑に目をやると「伊賀留我神社」とある。ん? いかるが? 

 

延喜式にも掲載されているこの地域で最も古い神社なんだとか

 

「いかるが」の地名は、本家法隆寺のある一帯のほか、兵庫県太子町にもあることは知っていたが、ここにもあるとは知りませんでした。伊賀留我神社の説明板によると、「聖徳太子の御料地であったとの言い伝え」もあるそうだ。

 

斑鳩山浄恩寺の聖徳太子堂。基壇付きの立派なお堂だ

 

近くにあった浄土真宗のお寺の本堂脇のお堂も、夢殿よろしく八角円堂だったりする。廃寺巡りはいきおい知らない町をほっつき歩くことになるので、今回のように意図せず面白い場所に出くわすことがある。こんなことも廃寺巡りの楽しさの一つです。

 

 

(その2)に続きます。