北勢地区の廃寺を巡る(その2)~朝日町・東員町篇 | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

三重県の北勢地区の廃寺巡り(その2)は三重郡朝日町と員弁郡東員町(いなべぐんとういんちょう)です。ではレッツラゴー!

 

 

  縄生廃寺(なおはいじ) 

県指定史跡 三重県三重郡朝日町縄生

訪問オススメ度★★★


「なおはいじ」と読みます。「縄生」という難読地名から付けられた名称だが、江戸時代には「金光寺跡」と呼ばれていたとの伝承もあり、古瓦が出土する場所として知られていたようだ。古い朝日町の郷土史本でも「縄生廃寺」ではなく「金光寺跡」として記載されていたように記憶しています。

 

現在の金光寺。現地の解説板には特に縄生廃寺との関係は記されていませんでした

 

この古代寺院跡は員弁川(いなべがわ)が直角に流路を変える内側の丘陵地の尾根筋に立地し、現在は深い竹藪の中となっている。

 

手前が員弁川。林立する鉄塔の奥の丘陵地に縄生廃寺が立地

 

縄生廃寺へは、近鉄名古屋線の伊勢朝日駅から北に向かい、高台の住宅地を通り抜けて、耕作地の向こう側にある竹藪の中のけもの道のようなルートを登っていきます。

 

縄生廃寺入り口の住宅地に建つ道標

 

道中小さな案内板が各所に設けられて迷うことはないのですが...

 

竹藪の中を進む。ちょっとしたオリエンテーリング気分

 

本当にこんな所にあるのか?と、半信半疑になりながらたどっていくと、少し開けた所に金属製の立派な案内板が立っている。ここが縄生廃寺です。

 

縄生廃寺全景

 

道中迷わないように案内があちこちに出されているが、これが無ければたどり着くことはかなり困難。繰り返しになりますが、このような所に古代寺院があったなどとはあまり思えない雰囲気です。

 

 

発掘で明らかになった縄生廃寺の遺構

 


1986年に中部電力の鉄塔工事に先立って発掘調査を行ったところ、驚くべき遺構・遺物が判明しました。倒壊した塔の屋根瓦が一部葺かれていた状態を保ったまま見つかったことに加え、地表面から1.5mほど深い位置に据えられた地下式の塔心礎から、鉛ガラス製の小さな舎利容器を納めた珍しいろくろ引きの石製容器と、唐三彩の鮮やかな覆蓋が掘り出されたのです。

 

塔跡。中央のくぼみが塔心礎(現地の案内板より)

 

葺かれた状態のまま見つかった屋根瓦。こりゃスゴイ(現地の案内板より)

 

発掘された舎利容器一式(現地の案内板より)

 

意外な場所から第一級の遺物が発見されたので、地元が色めき立ったのは想像に難くありません。朝日町では歴史博物館の整備を行って(1997年開館)、後でご紹介するように縄生廃寺に関する立派な展示コーナーを設けています。縄生廃寺を訪れるなら朝日町歴史博物館とセットにするのがよいかと思いますよ。

 

 

竹林の中の塔跡


さて、現地の寺院跡ですが、案内板があるほかは、うっそうとした竹藪の中に多少の平場があるばかり。以前の写真を見ると塔基壇の縁に石を並べ、少し土盛りを行って、塔跡の位置がよくわかるようになっていたが、現在では土盛りや縁石とその周りの境界もあいまいになってしまっているのは少々残念。

 

まあ、ここはこのあたりに三重塔が建っていたと思いをはせるだけにしておこう。天候によっては、竹藪に囲まれた薄暗い中に上からほんのり光が差し込んで、神秘的な雰囲気になる。その中に色鮮やかな三重塔が静かにたたずんでいる姿をイメージできればあなたも立派なハイジストです。

 

見えるぞ! 私にも塔が見える!

 

 

縄生廃寺の伽藍配置


結論を先に書くと、縄生廃寺では、塔跡のほかは、その北東側に小堂の基壇跡が確認されただけで伽藍配置はよくわかっていません。

 

複雑な地形の中にいくつかアヤシイ人工的な平場がありますね(現地の案内板から)

 

塔を中心に付属的な施設が多少あっただけの構成だった可能性もある。愛知県豊田市の舞木廃寺塔跡や、奈良県の加守廃寺の塔院のように、金堂とペアにならずに単独で塔だけが存在したらしい古代寺院の例もある。

 

小堂跡については、文献によって「小金堂」だったり「僧坊」だったりして、その施設の性格はよくわかっていない。夏見廃寺などに見られるように古代寺院の堂塔の位置に関しては「聖は上、俗は下の原則」(平地の伽藍では塔や金堂はわざわざ二重基壇にして、講堂などと上下関係の区別化をしているようだ)があるようなので、私は丘陵裾からのアクセス性から考えても僧坊ではないと思うのだがいかがだろうか。

 

夏見廃寺の伽藍配置。この図ではわかりにくいが、講堂(右上)は塔や講堂よりも一段低い場所にある(現地の解説板より)

 

夏見廃寺的な伽藍を念頭に妄想をたくましくすると、縄生廃寺にも塔跡の南西側の一段低い場所に狭い平場が2カ所ほど認められる。どちらかに東面向きの講堂跡が見つかれば同系列の伽藍寺院と比定できるのだが発掘調査では確認できなかったらしい。残念ながら私の妄想は成就していません。笑

 

 

朝日町歴史博物館に足を延ばす


朝日町歴史博物館はJR関西本線朝日駅から行くと徒歩5分ほど、縄生廃寺からは少しかかって徒歩で20分ほどの伊勢平野を見下ろす丘陵地上にあります。朝日町の図書館や屋外広場などの複合施設の一画に設けられたもので、歴史博物館は施設の正面玄関から入って右手の一室になります。

 

歴史博物館は右手の建物の1階です

 

歴史博物館のエントランス

 

博物館には江戸時代の国学者橘守部などの郷土の偉人や萬古焼に関する資料展示もありますが、メインはやはり縄生廃寺になるでしょう。

 

縄生廃寺に関する展示は、心礎から発見された重文指定の舎利容器一式、塔の十分の一の模型、ガラスの床越しに見る葺かれた状態で発見された瓦のレプリカ再現、それに軒先瓦など。古代史に関心があれば一見の価値はあります。

 

舎利容器は海外貸出中に損傷(欠けたとかいうレベルではなく、木っ端みじんになったらしい....)したものを文化庁が修理を行い、めでたく修理の完了後に「里帰り」して、現在はこの資料館で展示されている。

 

残念なことに、以前は禁止されていなかった(と思う)写真撮影がダメになってしまっていた。ということで、ここで展示物の写真はご紹介はできないので、歴史博物館のリンクを張っておくことにします。

 

 

この博物館では特に案内などをしてもらえるわけではないが、その分ゆっくりと見学ができる。図書館も併設されているので、発掘資料や郷土資料などを調べるのにも好都合です。

 

 

  員弁廃寺(いなべはいじ)

三重県員弁郡東員町山田

訪問オススメ度

 

ところ変わって、三岐鉄道北勢線のターミナルである西桑名駅から車体幅の狭いナローゲージ車両に揺られること30分。東員駅で下車し、南に向かって10分ちょっと歩いて圓光寺にやってきました。

 

圓光寺。鳥取山田神社や山田毘沙門堂に隣接

 

このお寺の本堂の向かって右側に据えられているのが、員弁廃寺のものと伝わる塔心礎だ。特に案内板などはないが、東員町の作成した文化財マップには「古代猪名部氏の氏寺である員弁寺が東員町内に存在したという有力な根拠の一つ」と記載されている。

 

左手前のそろばんの玉のような石が塔心礎と伝わるもの

 

塔心礎の舎利孔

 

付近は員弁川の北側の台地の縁辺部にあたり、典型的な古代寺院の立地場所だが、残念ながらこのお寺に持ち込まれた塔心礎らしい石を除けば、特に遺構等は見つかっておらず、伽藍配置どころかどこにあったのか場所も不明。員弁廃寺だけを目当てにせず、近くにある由緒ありげな鳥取山田神社や山田毘沙門堂などを組み合わせて訪れてみるのもよいかと思います。

 

東員駅停泊中の「VEERTIEN TRAIN」。地元のサッカークラブ「ヴィアティン三重」の応援ラッピングです。かっけー!


(その3)に続きます。