慶雲廃寺を探し求めて(その4)~妄想篇 | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

愛知県の豊田市もしくは知立市にあったとされる慶雲廃寺(けいうんはいじ)
これまで慶雲廃寺についていろいろと書いてきましたが、今回が最終回です。最後は慶雲廃寺の伽藍配置について妄想を楽しんでみたいと思います。

 

前回(その3)の「検討書」で書いたように、慶雲廃寺の候補地はいくつかありますが、いずれも決め手を欠き、現時点では特定できていません。今回はそれらの中で、もっとも可能性が高いと考えられる豊田市駒場町の「今上駐蹕之所(きんじょうちゅうひつのところ)」を立地場所と想定し、検討していきます。

 

今上駐蹕之所の碑

 

とはいえ手がかりは乏しく、伽藍配置を考えるのは砂上の楼閣もいいところだとは承知の上ですが、どこまで「復元」できるかトライしてみましょう。

 

 

基壇の可能性がある「島畑」の存在


『新修豊田市史』の「駒場瓦窯」の項では、今上駐蹕之所・駒場瓦窯付近の明治期の地籍図を分析し、今上駐蹕之所の西側に「水田中の畑で島畑のようでもあるが、付近に同類のものが存在しないことから、元からの高まりであったと考えられる。南北長が約24mの長さであるので堂の基壇などの可能性もある。」と、古代寺院の遺構ではないかとの示唆をしています。

 

なるほど専門家はそういうことも考えるのかと感心することしきりですが、今回はこれに乗っかって妄想をたくましくしていきます。まず、「基壇などの可能性もある」島畑(しまばた)。掲載されている地籍図を見ると、確かに南北方向に長い独立した方形の区画線がある。

 

島畑というのは、水田を開墾した際に発生した残土を積み上げて畑として利用したものとのこと。この場所の区画線も島畑だった可能性は十分ありますが、『新修豊田市史』では、ここにしか見当たらないから「元からの高まり」と推定しているわけです。なるほど。

 

ところで、南北方向に長い方形の区画線....ときたら、もうこれは当ブログでも度々言及している「南北方向の東面配置の講堂にぴったりではないですか!!

 

創建時の慶雲寺が講堂を擁していたかの傍証は後でするとして、ここを講堂と仮定すると、以降に述べるとおり妄想が展開できて好都合。とりあえずこの「島畑」を講堂(あるいは食堂的な性格の建物)としておくことにします。

 

残念ながら現在は圃場整備によって高まりらしきものは見当たりません

 

 

特徴的な地形から推測できること

 

次に、ここを通る東西方向の地盤面の断面を見てみよう。


地理院地図(電子国土Web)の写真に「ツール」の断面図(縦横比5:1)を貼り付け

 

このとおり、講堂の位置(画像の「始」のあたり)の東(右)側は舌状台地となっており、その頂部が今上駐蹕之所の場所、その西側の斜面地で古瓦が出土したとされている。講堂の位置と台地頂部の標高差は6mほどです。

 

平地に展開する一般的な古代寺院とは異なる様相ですが、逆にこの特徴的な地形から手がかりが得られないか。あらためて断面を見ると、「俗」的要素の強い講堂は一段低い位置にありますね。対して古瓦が出土したという斜面地は講堂よりも地盤面が高い....。

 

ということは、この位置に「聖」的要素の強い金堂や塔があったのではないか。ふっふっふ、これも思い当たる事例がありますね。当プログではおなじみの三重県名張市の「夏見廃寺」を街彿とさせる位置関係です。

 

奇しくも夏見廃寺も南北方向の東面配置の講堂を持つ古代寺院なので、慶雲廃寺も同様の伽藍だった可能性も出てきました!いい調子で妄想が膨らんできましたね。

 

講堂(手前)の向こう側の高い段に金堂、その右に塔(夏見廃寺)

 

 

塔はあったのか


古代寺院というと、堂塔が規則性を持って配置・構成される一団の建物群(伽藍)という印象が強いですが、その一方で塔を持たず、堂が単独で存在していたに過ぎない「一堂形式の仏堂」という寺院も多く存在していたようです。

 

慶雲廃寺が夏見廃寺のような伽藍だったとして、金堂や塔の存在がなにかしら見つかればその可能性が一気に高まりそうですが、残念ながら瓦の出土以外にその存在を確認できるものは今のところありません。後で触れる密円上人の時代までは、一堂形式の仏堂のみだった可能性もありますね。

 

特に塔については、もし存在していれば「塔心礎」というわかりやすい凹みの付いた礎石があったはずで、他の廃寺の例を見ても、塔心礎は原位置になくても近くの寺院に持ち込まれて据えられているとか、好事家によって庭石に転用されていたりとか、現在も残っていたりするものですが、慶雲廃寺に関してはそうした手がかりはありません(もちろん発掘によって塔の存在が明らかとなる可能性もある)。

 

同じ豊田市内の「勧学院文護寺跡」(これもカッケー名称だ)の塔心礎と考えられる台座石

 

今回の妄想では慶雲廃寺には「塔はなかった」との結論になりますが、それでは少々寂しいので、瓦塔などのミニチュアの塔を収める小堂があったとしておきます。イメージ的には奈良市の海龍王寺西金堂ですね。(話はそれますが、「西金堂」といっても実質的には小塔の覆い屋であって、今はありませんが、東金堂にも塔が納められていたといいますから、海龍王寺はいわば「双塔形式」の薬師寺式伽藍だったのですね。)

 

塩尻市立平出博物館の菖蒲沢瓦塔。日本最大の瓦塔で高さ2.3m

 

慶雲廃寺に瓦塔があったかどうかは全く不明ですが、愛知県内では尾張地方を中心に瓦塔片の出土例が結構あり、豊田市内でも舞木廃寺塔跡や伊保廃寺から出土しております。ということは慶雲廃寺に瓦塔があったとしてもおかしくはないと言えるでしょう。

 

愛知県江南市の音楽寺出土の瓦塔片

 

慶雲廃寺の金堂については、具体の位置や規模はまったくわかりませんが、塔は無かったとしても金堂が無ければ寺院として成立しないので、古瓦の出土したという斜面地(かその上の平坦部)に小規模なものがあったと想定しましょう。

 

 

伝承からうかがえる慶雲寺の状況


『無量寿寺由来』『高岡村沿革史』には、慶雲寺の住僧として、密円上人なる人物が登場し、彼の徳の高さが時の天皇の知るところとなり、勅命により伽藍の整備(や移転)が行われたとされています。

 

このエピソードから考えるに、その当時慶雲寺には密円はじめ僧が在住していたこと勅命を受ける前の寺院の規模はそれほど大きくはなかったことがうかがえます。これらのことは、今までの妄想とは特段矛盾しません。

 

密円上人についてはネットで探しても情報が得られませんでしたが、天皇の耳に入るくらいの人物であれば、彼に教えを請うために近隣から慶雲寺にやってきた学僧もいたのではないかと思います。

 

そうなると慶雲寺自体は小規模な寺院だったとしても、金堂(仏堂)だけでなく、密円上人の時代以降は僧が仏法を学ぶための施設として講堂があり、また僧が居住し、生活をするための食堂、僧坊などが存在していたこともありえたでしょう。

 

 

伽藍配置について


これまで述べたとおり、創建時の慶雲寺には、金堂講堂があり、(根拠はありませんが)小塔を納める小堂などがあったと推測しました。これらの伽藍の構成要素の他に、『新修豊田市史』に駒場瓦窯の発掘時の地元の聞き取り調査結果として「入り口の標柱(注:「御乗換之所」の碑と思われる)付近が小高くなって礎石らしき自然石があった」とのことで、これを門跡であったとしましょう。


さて、この区域内に伽藍の主要要素がどう配置されていたのか。まず、講堂の位置は「島畑」のあった位置に設定しますが、問題は金堂、小堂(塔)の配置。ここで悩ましいのは、これらが立地していたと想定する舌状台地の形状です。

 

明治期の開墾で舌状台地の形状が変わってしまっている可能性もありますが、ここは幅のせまい高まりが北東から南西方向に存在しているのですね。金堂、小堂(塔)を同じ地盤高さで並べようとすると、縦(南北)配置の四天王寺式も、横(東西)配置の法隆寺又は法起寺式も少々具合が悪い

 

ここは両堂を舌状台地の縁に沿って北東側に金堂、南西側に小堂があったとしておくことにしましょう。伽藍配置を考える上で、このような変則的な配置に対しては「地形の制約上」という魔法の言葉がありまして、この配置はまさにこれ。妄想している本人がそう言っているのだから間違いありません(笑)。

 

 

昔の航空写真に痕跡はないか


明治期の地籍図にある「島畑」や、堂塔の存在がうかがえるような痕跡が残っていないか、国土地理院の航空写真で調べてみました。が、結論から先に書くと、残念ながらそうしたものは見つけられませんでした。

 

この近辺の航空写真では、昭和20年に撮影されたものが最も古いものですが、昭和23年に撮影された国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」の「整理番号USA コース番号R1078 写真番号116」という写真がかなり鮮明に写っていたので、これに『新修豊田市史』(資料編 考古Ⅲ 古代から近世 P712)に掲載の「図3 遺跡周辺の明治時代の地籍図(明治17年頃の地籍図より作成)」を重ね合わせてみました。

 

左側の鎌倉街道から東に向かう道の分岐点と今上駐躁之所の碑の位置を合わせて合成

 

当時はこの一帯は宅地化もされておらず、ほとんど全てが田畑という状況だったようです。今上駐躁之所は林となっていて、これは現在もほぼ同じ状態で残っているものです。

 

明治期の地籍図と比較してみると、鎌倉街道や東方向に分岐する道はそのままですが、すでに舌状台地の西側斜面部分は開墾が進んでいて、その畦は地籍図にある区画線とは一致せず、また街道とは方向の異なる南北方向の区画線(Aの部分)の名残も写真からは認められません

 

また「島畑」のあったらしい場所も水田化されて消滅してしまったようです。つまり、この写真を見る限りでは、戦後間もない時期において慶雲廃寺の存在をうかがわせるような痕跡は、すでに無くなっていたようです。なにがしら手がかりが写っているかと期待しましたが、残念な結果に終わりました。

 

ちなみにですが、昭和60年頃には存在していた「アキタ鉄工所」あたりが「下馬山」と呼ばれていて、昔ここに「下馬観音」があったとされていましたが、下馬観音は大正14年に2回目の移転がされていたとのことなので、当然のことながらこの写真でもその存在は確認できませんでした。

 

 

まとめ


はじめ慶雲廃寺については1回だけの単発記事のつもりだったのですが、調べ出すと伝承の類いが豊富で、それが面白くなって結局4回に分けて取り上げることになりました。

 

慶雲廃寺の関連場所が知立市と豊田市にまたがっていることや、忘れ形見の「下馬観音」の情報がやや錯綜していることなどにより、私も最初は混乱したのですが、記事を通じて一応の整理はできたのではないかと思います。

 

また、私の関心事である伽藍配置については、根拠薄弱ながら夏見廃寺のようなものだった可能性を楽しめたことが成果となりましょうか(あくまで妄想としてです)。

 

古代寺院研究では欠かすことのできない瓦の分析については、私自身カワラー(古瓦の研究家・愛好家)ではなく、あまり関心もないのでガン無視しましたが、真面目に検討すれば新たな見解なども得られるかもしれませんね。

 

「北野廃寺系」と呼ばれる矢作川流域の古代寺院に共通するやや特殊な瓦の様式が、流域の異なる慶雲廃寺で用いられている点などを掘り下げてみると面白いかも。

 

慶雲廃寺に関する記事は以上です
長々とお付き合いくださりありがとうございました。