海龍王寺───国宝の五重小塔で知られる寺院です。
今回はこの海龍王寺を訪問して、平城京の双塔式伽藍の古代寺院を考えてみます。では、レッツラゴー!
海龍王寺(かいりゅうおうじ)
奈良県奈良市法華寺北町
訪問オススメ度 ★★★★
海龍王寺は平城京の北端部、法華寺に隣接するこぢんまりとした寺院。JR奈良駅・近鉄奈良駅からバスを利用するか、近鉄大宮駅から北西に少々歩いてのアクセスとなります。有名寺院がひしめき合う奈良の都にあっては、海龍王寺の知名度はいくぶん劣るかもしれませんが、古代寺院の伽藍のありようを考える上では極めて面白い存在だと思います。
海龍王寺表門。奈良交通バス「法華寺」からすぐ
海龍王寺の基本情報は巷にあふれかえっているので、ここでは伽藍配置について考えてみましよう。
現在の境内は、東側の門から少々長い参道を通った先にあり、江戸期に再建された本堂を中心に諸堂がいくつか建ち並んでいます。
本尊十一面観音像を安置する本堂(右)と西金堂
注目すべきはなんと言っても国宝の五重小塔を納めた西金堂。建物自体は鎌倉期にほぼ全般にわたって建て替えられてしまったようですが、正面3間、側面2間のコンパクトな平面に切妻屋根をいただくという、いたってシンプルな形態は創建時のものを引き継いでいると言います。もし法隆寺のような大寺院にあったら見向きもされないような小堂ですが、それでも「金堂」を名乗っているギャップ感がなんとも妙。
海龍王寺西金堂(重要文化財)。小規模ながら端正なたたずまい
国宝の五重小塔。高さは約4m
そして、驚くべきは、かつてこの西金堂に正対する位置に同じ形態の東金堂があり、しかも明治期に焼失するまでは東西両金堂が存在していたというのです! しかも東金堂にも五重小塔があったのだとか‼ 現在、東金堂は草木に覆われた基壇の名残があるだけで、もう一つの五重小塔もうかがい知ることはできません。
東金堂跡。立札によって存在を知るのみです
実は薬師寺式? 海龍王寺の伽藍
海龍王寺の伽藍ですが、現在の本堂の位置にメインの中金堂があり、その両脇から中門に接続する横長の回廊の内部に東西金堂が配置されるという独自の形態だったようです。奈良市役所1階ロビーにある平城京の模型での海龍王寺を見てみましょう。北側からの遠望になって、少々わかりづらいですがご容赦を。
コンパクトな海龍王寺の伽藍(奈良市役所平城京模型)
いろいろな建物が密集していますが、写真中央の寄棟づくりが中金堂。そこから奥(南方向)の中門に向かって回廊がめぐらされ、手前の背の高い経蔵と鐘楼らしき構造物にさえぎられてしまっていますが、回廊内部に切妻屋根の東西金堂が配置されているのが見て取れます。
しかし、回廊内の東西金堂に五重小塔がおさめられ、それら「金堂」は「塔」を保護するための覆屋にすぎなかったとすれば....これが「薬師寺式伽藍」そのものですね(正確には薬師寺の回廊は金堂ではなく講堂に取り付いているので、百済寺跡(大阪府枚方市)に近い)。
双塔式伽藍の嚆矢、薬師寺の伽藍(同)
ここで考えたいのが二つの小塔があったこと。一つなら「まあ、通常サイズの塔を造る場所もないし、瓦塔ではちょっとショボいから、とりあえず精巧な小塔でもひとつ造っておくか」的な、まあ、なんとなく妥協の産物のような感じもありますが、二つあったということは、「塔は二つなければならない!」という明確な意志が感じられます。
敷地が狭くて、通常サイズの塔は一つだけならかろうじて建てられたとしても、小塔になってもいいから、とにかく二つ! 塔は二つあってこそ存在意義あり!! という考えがあったのではないでしょうか。
現地の案内板。「『東西両塔』を備えた伽藍形式を持ち込むべく五重小塔を造立」とありますね
平城京を彩る双塔式伽藍
ここで、平城京の双塔式伽藍についてみていきましょう。平城京には双塔式の伽藍が多数存在します。遷都前の藤原京には双塔式の伽藍は元薬師寺しかありませんが、平城京には東大寺をはじめ、西大寺、大安寺、薬師寺、新薬師寺、法華寺、さらには秋篠寺と数多くの双塔式伽藍があります。
創建時の東大寺の大伽藍(奈良市役所平城京模型。以下同)
大安寺。両塔は南大門の南にそれぞれ独立した塔院を形成
十二神将像で知られる新薬師寺も双塔式の大伽藍。現在の本堂は写真右上あたり
伎芸天のおわす秋篠寺も双塔式
一方、これらに比肩する規模を誇つていた興福寺、元興寺の伽藍は双塔式ではありません。双塔式は天皇家が関与した寺院あるいは国家事業として造営された寺院に限られていたようにも見受けられます。逆に、いかに絶大な権力を誇った藤原氏といえども、氏寺である興福寺を双塔式にするのは、はばかられたということでしようか。元興寺はどうなんでしょうね。
奈良市役所の平城京模型でみると、興福寺も元興寺も、塔は回廊で囲まれた中心区域の南東に一つだけ造営されていますね。二つ造るつもりだったけど、一つだけ完成させて二つ目は取りやめた、というような感じはなさそうです。
元興寺(手前)と興福寺(奥)。両寺の境にあるのは猿沢の池
こうしてみると、双塔式=国家権力という見方もできるわけで、皇族が深く関与している寺院は、海龍王寺のような小規模寺院であっても塔を設ける以上は何が何でも双塔式としなければならない、というような概念があったように思われます。
一方で、地方寺院の双塔式伽藍はどうなのでしょうか。天皇家の何らかの関与はあったのかもしれませんが、そのあたりはよくわからず。双塔式が許されるのは皇族が関わっている寺院のみ、というのは平城京だけのルールだったかもしれませんね。
[訪問日]2023.6.9