日出ヅル處ノ廃寺 -2ページ目

日出ヅル處ノ廃寺

古代寺院跡を訪ねて

「大阪府内の古代寺院をたずねる」との副題のとおり、府内の古代寺院を河内(北・中・南)や和泉、大阪市内、豊能・三島の6地域に分けて紹介。各地域の廃寺をめぐる「見学コース」も設定され、ハイジストには必携の本。主要な廃寺は回ったつもりでしたが、半分以上は知らないものでした。案内の地図は道などをトレースしたもので、少々わかりにくいのが玉に瑕。奈良県は別格として、各県のこうした本があるといいのですが、ニッチ過ぎですかな。

 

 

※ 2024.9.1時点で品切れ中とのこと(私はネットで古本を購入)

 

わが国に仏教が伝来し、仏教を軸とした国家を形成していくことを決意した近畿天皇家にとって、シンボル的な大寺院を造営することはいわば必然の流れであった───その官製大寺院のさきがけとなったのが、日本書紀に記された「百済大寺(くだらのおおでら)」である。この百済大寺がどこにあったのかは諸説あったが、現在では桜井市の「吉備池廃寺」でほぼ確定している。

 

百済大寺とほぼ確定した吉備池廃寺

 

現在、この巨大寺院跡には塔と金堂の基壇が残るのみであるが、塔は平面が法隆寺五重塔の4倍にもなり、高さは100mに達しようかという巨大な九重塔だったようだ。金堂も破格の規模だった。この百済大寺こと吉備池廃寺の九重塔は、どうやら完成をみることなく、途中で造営が放棄されてしまった可能性があるらしい。基壇から推定される構造物の規模にくらべ、瓦の出土量が少ないからである。焼失痕も認められないことから、火災により焼失してしまったわけでもないようだ。


次に書紀に登場する官製大寺院は「高市大寺(たけちのおおでら)」である。この寺院の所在は、まだよくわかっていない。一説では木之本廃寺とも紀寺跡(小山廃寺)とも言われるが、これらの古代寺院跡が高市大寺であることを決定づける根拠は乏しいようだ。あるいは飛鳥・藤原京のどこかに今も埋もれてしまっているのかもしれないが、手がかりがほとんど無いのは、百済大寺と同様、途中で造営が放棄されてしまった可能性が残る。


高市大寺の候補地の一つ、木之本廃寺(畝尾都多本神社)

 

官製大寺院の三番目がよく知られた「大官大寺(だいかんだいじ)」である。大官大寺も今は田畑の広がる中に石標柱や解説版によりその存在を偲ぶのみだが、こちらは発掘調査により、諸堂の配置がほぼ解明されている。「大官大寺式」とも言われるその伽藍配置は「薬師寺式の西塔抜き」といったもので、東塔に相当する位置に一つだけ造営されたが、この塔もやはり巨大な九重塔だったようだ。大官大寺は平城遷都直後に藤原宮もろとも焼失したと記録(扶桑略記)に残る。発掘によって火災の痕跡が判明し、後世の補修用の瓦の出土がないことからも事実だったようだ。

 

大官大寺塔跡

 

とまあ、飛鳥・藤原期の官製大寺院の履歴を簡単に述べてみた。このことで、以前から不思議に思っていたことがある。これらの国家仏教の総本山が「なぜ場所を変えて造営を続けたのか」ということだ。大官大寺が平城遷都に合わせて移転して大安寺となったのはわかるとして、百済大寺や高市大寺が移転しなければならなかったのはなぜか。百済大寺は藤原京造営開始前に移転されたようであるが、古文献にはその移転理由は記されていないようだ。高市大寺も同様である。

 

藤原京の模型(橿原市藤原京資料室)

 

そこで、「なぜ場所を変えたのか」を考えるために、「場所を変えぎるを得なかった事情があった」というアプローチをしてみよう。結論は本記事のタイトルでネタバレしてしまっているが、「地盤ガチャに失敗」したためではないか、ということだ。堂塔の地上の部分は、当時の技術上の制約の範囲だが、ある程度思ったように建造できる。問題は地盤面下だ。

 

土の中はどうなっているのか。同じ場所でも深さによって堅い層もあれば軟弱な層もあって、その全容を知ることは難しい。しかし、地上に構造物を建造する上で、地盤は極めて重要である。古代の技術者は、「版築」によって堂塔の建造場所の地盤を突き固め、強国なものにしてから上部構造物の工事に着手した。現代でいえば、表層部分の地盤改良である。

 

しかし、この版築は、上部構造部が比較的軽量であればその役割を全うしたかもしれないが、官製大寺院のような巨大構造物だったらどうだろうか。上部構造部の重量が大きければ、仮に版築による地盤改良部分が持ちこたえたとしても、その下部に軟弱な地層があれば、その部分が圧縮され、版築ごと沈下してしまうこともあっただろう。

 

古代寺院の版築(大阪府泉南市の海会寺跡)

 

単純な計算をしてみよう。上部構造部が巨大化することで単位面積あたりの荷重、つまり地盤にかかる負荷がどの程度増加することになるのか。基準となる金堂なり塔なりの重量を1とする。これら堂塔が相似形のまま間口、奥行き、高さが2倍となった場合、全体の重量は8だ。その重量を受け止める底面積は4だから、単位面積あたりの荷重は2倍になる。

 

実際には、堂塔を構成する柱や瓦のサイズがそのまま大きくなるわけではなく、木組みなどの架構方法も同一にはならないだろうから、単純にはいかないだろうが、単位面積あたりの荷重は数割程度の増加では収まらないかもしれない。そうすると、版築での地耐力の改善には限界があっただろうから、許容値を超える場合もあったに違いない。


また、沈下がまんべんなく生じればまだよいが、沈下の程度が部分によって異なれば(=不等沈下)、構造物が傾いてしまうことになる。有名なピサの斜塔もそうした事情によるものだ。不等沈下が生じた場合、特に塔のように細長く、安定性を欠くような構造物への影響は、地震や台風ばかりか自重そのものに対しても深刻なものになったであろう。


流行りのAIで巨大な塔をらしく生成。大したもんだ....ん? 八重塔だけどまあいいか

 

こうした状況を避けるためにはどうすればよいか。現代であれば、基礎の下に杭を打って、その先端を地中の支持地盤に到達させる。強固な地盤で杭を介して構造物が沈下しないようにするのだ(ほかの方法も種々あるが省略)。古代にはさすがにそうした技術はなかった。

 

古代の技術者たちには、地形や表面の土質などから、その場所が安定した地盤かどうか、ある程度は経験的に知っていたのであろう。井戸を掘ることができる深さまでならは、直接把握ができたはずだ。しかし、掘削困難なほどの硬い層の下部が強固だとは限らない。それ以前に湧水によって調査できなくなることだってあっただろう。


そうすると、「大丈夫だろう」と判断して寺院の造営に着手したものの、上部構造部ができあがって行くにつれ、不等沈下のような不具合に出くわすこともあったのではないか。重量のある巨大構造物であればなおさらである。完成後に傾き出すこともあっただろう。地盤に起因する不具合を発生させずにいられるかは、賭けでもあった。結果がどうなるのかは、造営をしてみなければわからない。自分たちの能力ではどうしようもない、まさに「地盤ガチャ」である。

 

吉備池廃寺出土の瓦(大阪歴史博物館特別展『大化改新の地、難波宮」』より)

 

火災で焼失した場合や、地震や台風による倒壊であれば、同じ場所での再建が可能であるが、地盤に原因がある場合はそうはいかない。地盤ガチャに失敗して、不具合がリカバーできない状況までに至った、または今後その可能性が極めて高くなった場合には、その場所での造営は諦めて、ほかの場所を探さざるを得なかったのではないか。こう考えると、百済大寺が短期間で移築されたらしいのは、当時の社会情勢によることもあっただろうが、地盤ガチャに失敗したことも原因の一つとはならないだろうか。

 

さて、こうして考えてみると、伽藍配置の変遷において「双塔式」が登場した理由も見えてくるようである。つまり百済大寺(や高市大寺)の造営者は、大陸や半島にあるような巨大な塔をわが国でも建造しようとしたが、うまくいかなかった。完成できてもその後放棄せざるを得なかった。場所を変えても成功するか失敗するかはわからない。大官大寺は完成できたが、焼失してしまった。では塔の造営はあきらめるか。しかし、塔の持つ偉容は、伽藍に欠かすことはできない。遠方からでも確認できる視覚的効果は捨てがたいものだ。

 

双頭式伽藍の嚆矢とされる藤原京元薬師寺跡

 

そこで、塔を二つにすることにした。そうすることで、地盤ガチャリスクをなくすことはかなわなくとも低減できると考えた。九重塔といった一点豪華主義で不等沈下の発生におびえるくらいなら、規模はやや小さくなろうとも、塔を二つ造営することにして、リスク低減をしつつ、見栄えの点でも見劣らないように意図したのではないか。二つあれば片方が滅失しても一つは残る。平城遷都後、特に国家や天皇家が関わるような寺院で双塔式伽藍がこぞって採用されたのは、こうした事情があったのではないと思う。


双塔式伽藍が復元整備された西ノ京薬師寺

 

飛鳥寺や四天王寺で伽藍の主役だった塔は、時代が下ると回廊内の中心伽藍にではなく、その外に置かれるようになった。これは寺院での存在意義が薄れ、装飾的な地位に後退したためだという。しかし、こうした見方も再考が必要だろう。確かに東大寺や大安寺のような大寺院では、塔が伽藍の中心部から外れた位置に造営されている。しかし、これを重要度が失われたためとするのは早計ではないか。

 

創建時の東大寺伽藍(奈良市役所の平城京模型)。地山が強固で大仏や七重塔造立がいけると踏んだか

 

九重塔ほどの高さではないにしても七重塔や五重塔である。高層になれば落雷で火災が生じる危険性は高い。ましてや双塔化である。塔の火災により他の堂への延焼を防ぐためには、隔離するのが合理的な判断だ。大規模寺院での双塔化と、その建立場所の隔離はセットで考えるべきだろう。

 

つまり、塔は、飛鳥寺以降も巨大化に伴う課題を試行錯誤しながら技術的な解決を図り、一貫して伽藍の主役であり続けたとは言えないだろうか。

東西両塔院を備えた大安寺伽藍の模型(大安寺宝物殿)

 

 

今回の記事は以上です。