羽曳野市内の古代寺院跡巡り。(後篇)は、野中寺と陵南の森総合センターを訪ねます。ではレッツラゴー!
野中寺跡(やちゅうじあと)
国指定史跡 大阪府羽曳野市野々上五丁目
訪問オススメ度 ★★★★
善正寺跡から藤井寺駅前行きのバスに乗車して「野々上」で下車。交差点の北西部に展開していたのが野中寺跡で、現在も野中寺の寺号で法灯を継いでおります。聖徳太子ゆかりの「中の太子」としても知られていますね。「野中寺旧伽藍跡」の名称で国の史跡に指定されています。
「野中寺」交差点のすぐそばにあります
朱塗りの鮮やかな山門が古代寺院の中門に相当する場所。案内板によると「桁行3間、梁行2間の八脚門が存在したと考えられます。現在はやや規模を縮小して復元しています」とのこと。
山門は仁王門とも呼ばれているようですよ
山門をくぐって正面に見える現在の本堂、これが古代寺院の講堂跡にあたります。その前面、向かって左に塔跡、右に金堂跡があり、「法隆寺式伽藍」であったことがよくわかります。厳密には法隆寺とは違って金堂は南面せず、正面が西側、つまり塔側を向いていたことから「野中寺式伽藍」と呼ぶこともあるようです。塔と金堂の位置が太宰府の観世音寺とは逆パターンですね。
山門からみた境内。正面の本堂が講堂跡。左右の案内板のあるところが塔跡と金堂跡
現地の案内板より
基壇が復元された塔跡に立つと、有名な亀が彫り込まれた塔心礎。なんで亀なんでしょうかね? 塔内に須弥山があって、それを支えているという発想かもしれませんが、その意図は不明。
亀というよりグラサンかけたお兄さん
顔の反対側には脚らしき模様も。塔心礎は添柱用の小円が3箇所ある飛鳥の橘寺タイプ
塔跡全景
改めて礎石群をよくよく見るとどこか違和感が....あれ? 通常見られる塔心礎周囲の四天柱を支える礎石がありませんね。四天柱がなくて塔としての構造が成り立つのでしょうか。あるいは三重塔とか五重塔のような形状ではなかったのかも。謎ですね。
金堂跡には石塔が建っていますが、礎石もよく残っており、塔に向かい合う配置が見て取れます。
金堂跡
金堂の礎石にはダボ穴が穿たれてました
同じ文様の瓦が名古屋に!?
野中寺の出土瓦では、「パルメット文様」のものと「庚戌年」(650年)の文字が刻まれたものが有名。パルメットとは忍冬紋(にんどうもん)や唐草紋とも言ったりしますが、軒丸瓦の文様として用いられるのは極めて珍しい例なのです。
現地の案内板より
この瓦がどこかで展示されているのか調べてみたのですが、よくわからず。しかし、なんと! 野中寺のものと同じ木型を使ったパルメット文様の軒丸瓦が、名古屋市の尾張元興寺跡から出土しています! これは面白い。野中寺と尾張元興寺との間にどんな関係があったのでしょうかね。
尾張元興寺跡のパルメット文様軒丸瓦。名古屋市博物館にて
ちなみに復元された野中寺山門の軒丸瓦にはパルメット文様が使われていたようです。しまった! アップでの写真撮り忘れた....
無理やり拡大。ギリわかるかな~
謎多き白鳳仏
さて、野中寺を有名にしているのはこの寺に伝わる白鳳仏。重要文化財の金銅弥勒菩薩半跏像です。毎月18日が開帳日となっており、タイミングの良い日で訪れてみました。
この仏さまは本堂ではなく、その裏手の方丈で公開されていました。受付で拝観料を納め、小さな門から入っていくと、庭園を望む縁側付きの部屋に、まるでひなたばっこでもしているかのように安置されていました。
木で隠れていますが、方丈(写真の中央辺り)で拝観しました
この白鳳仏、高さは30センチ足らずの小柄なものですが、金箔の残る本体にはタガネによるという文様などが細かく彫り込まれていて精密な印象。この小仏像を有名にしているのは、像の最下部(枢)に彫り込まれた金石文。それによると、「栢寺」の信徒が「中宮天皇」の病気平癒を祈願して「丙寅年」(666年)に造立したといいます。
ここで問題になるのが「栢寺」(かやでら)と「中宮天皇」。野中寺が栢寺と呼ばれていたという記録は見当たらないことから、別のお寺からもたらされたとの説があります。
仏像の説明をしていただいた方からは、「栢寺を名乗る古代寺院は岡山県総社市にあるものの、仏像に施された彫金技術の高さから地方の寺院にあったものとは考えにくい」とのこと(栢寺廃寺には私も行きましたよ!)。出自がどこなのかは謎のままです。
栢寺廃寺塔跡
もう一つの謎は「中宮天皇」が誰かということ。日本書紀などに登場しないこの名前の天皇が誰であるのかは諸説紛々。現在では否定されていますが、かつては「彫り込まれた文字は後世に追加されたもの」「そもそも像自体が後世のもの」などと疑間が投げかけられたこともあったようです。
もし機会があれば、ぜひともこの謎多き白鳳仏をご自分の目でご覧になってください。野中寺ではこのほかに平安期のものとされる地蔵菩薩像(重要文化財)が知られており、白鳳仏と合わせて拝観できました。こちらは地蔵堂に祀られています。
地蔵堂。本堂の裏手にありますが拝観は中庭からです
おしゃべりできない修行僧
もうひとつ私が注目したのは方丈の近くにある僧坊。修行僧たちが暮らしていた「比丘寮」と「沙弥寮」です。積極的に公開している印象はありませんでしたが、江戸期の貴重な遺構。造りは違うのかもしれませんが、ハイジスト的には古代の僧坊とイメージが重なるのです。
お寺の方の話では「修行僧には押入付き6畳間があてがわれます。日に三度の礼拝を行い、食事中や入浴中も無駄話はできません。それ以外の時間はこの部屋でずっと勉強です」とのこと。礼拝と言っても一つひとつに結構長い時間をかけて行うのだとか。
奥が比丘寮。写っていませんが、左側に沙弥寮があります
いやあ、ちょっと聞いただけで厳しい修行の様子が思い浮かびます。私なら1日ももたないでしょうね。野中寺の見学が終わったら、バスで近鉄古市駅に戻るか、北の藤井寺駅に向かえばいいでしょう。
「陵南の森総合センター」で日本一の鴟尾にご対面
古代寺院跡のある場所からは少し距離がありますが、せっかくなので羽曳野市内の古代寺院関連の展示がある「陵南の森総合センター」も訪れてみることにしましょう。ここは雄略天皇陵のすぐ南に位置しており、近鉄高鷲駅から徒歩で15分ほどの距離です。
陵南の森総合センター。左が図書館、歴史資料室は奥の建物内にあります
市立図書館と社会福祉センターの複合施設ですが、1階の一角に「歴史資料室」が設けられ、縄文期から江戸期に至るまでの市内から出土した資料が展示されています。
歴史資料室の入り口
古墳関連の出土品を目当てに行くとすこし期待外れかもしれませんが、古代寺院関連でははじめにご紹介した西琳寺跡出土の鴎尾と瓦を数点見ることができます。
歴史資料室内部。それほど広くはありません
西琳寺の鴟尾と重要文化財の銅鐸のレプリカが二大スターの模様
鴎尾はガラスケースに収められていて、間近に眺められるのはスケール感も把握できて良いですね。照明の関係でガラス面に周囲のものが映り込んで少々見づらいのは玉に瑕。日本一の鴟尾ですから、なんとか工夫をして見やすくしていただきたいところ。
鴟尾の腹に描かれた火焔宝珠と蓮華文
「飛鳥・奈良時代」のコーナーで野中寺と西琳寺のパネル展示
西琳寺の出土瓦。右側が空きスペースになっていましたが、瓦をどこかに貸し出し中だったのかも?
古代寺院の展示については、欲を言えば野中寺や善正寺の出土品も欲しいところですが、スペースの問題もあるので、西琳寺の鴟尾を見ることができただけでも良しとしましょうか。
羽曳野市内の古代寺院のご紹介は以上です。西琳寺や野中寺は、古墳巡りや葛井寺参拝などと合わせて訪れてみるのも良いかもしれませんね。
[訪問日]2023.11.18