城めぐりん -3ページ目

特別展「江戸の街道をゆく ~将軍と姫君の旅路~」(2019年6月8日)

 6月8日(土)に江戸東京博物館へ行ってきました。

 

 6月16日(日)まで、特別展 『江戸の街道をゆく ~将軍と姫君の旅路~』 が開催中です。

 

 江戸時代、幕府によって街道が整備され、さまざまな人たちが往来し、活気にあふれていたが、なかでも将軍や姫君たちのそれは、長大な行列で沿道の人々を圧倒したということです。

 そうした将軍の上洛や日光社参、姫君たちの江戸下向に関わる資料を等して「江戸の街道」における旅路をたどる展覧会だということです。

 

 本展覧会の一番の見どころ資料は、『楽宮下向絵巻』 です。

 第12代将軍・徳川家慶に嫁いだ楽宮の下向を描いた絵巻ということで、上の画像はそのごく一部ですが、展覧会場では、全長約24mにわたる全てが展示されていて、圧巻でした。

 

 また、展覧会は写真撮影禁止ですが、ここだけは撮影OKでした。

 薩摩藩島津家の女乗物 『黒漆丸十紋散牡丹唐草蒔絵女乗物』 です。

 その他、様々な装飾の婚礼道具なども展示されていました。

 

 そして、入口のところで、「土日限定で配布しています」ということで、こんなものをいただきました。

 先ほどの黒漆丸十紋散牡丹唐草蒔絵女乗物のペーパークラフトですね。

 家へ帰って組み立ててみました。

 

 それから、5階では、企画展 『発掘された日本列島2019』 も開催中です。

 

 ちょうど行ったときに展示解説が行われていたので拝聴しました。

 

 企画展示室前では、地域展 『道灌がみた南武蔵』 の展示もされていました。

 

 江戸東京博物館の次回の特別展は、7月6日(土)からの 『江戸のスポーツと東京オリンピック』 だそうです。

 

早雲公五百年忌記念シンポジウム「小田原北条氏とその城郭」(2019年5月2日)

 GW10連休の折り返しの5月2日(木)に小田原へ行ってきました。

 

 2019年は、小田原北条氏の祖である北条早雲こと伊勢宗瑞の没後500年という節目の年にあたるということで、様々なイベントが予定されているということですが、そのひとつ、早雲公五百年忌シンポジウム『小田原北条氏とその城郭』が開催されると知り、行ってきたという次第です。

 

 シンポジウムは14時開始だったので、当然それまでは小田原城へ行きますよね。

 新幹線を降り、小田原駅から歩いてお城へ向かいます。さすがGW真っただ中、たくさんの人が同じ方向に歩いています。多くの皆さんが天守を目指して歩いていると思われる中、まずは、八幡山古郭東曲輪跡へ向かいます^^

 

 八幡山古郭は、いうまでもなく戦国期小田原城の主郭があったと推定される場所です。この東曲輪は、八幡山古郭の東寄りに位置し、発掘調査で半地下式の倉庫等と考えられる方形竪穴状遺構や掘立柱建物跡が発見されているそうです。

 ここから天守にはたくさんの人が登っているのが見えますが、それに比べてここはひっそりとしています。(それでも2人の方が見学していましたが・・・)

 

 それでは自分も天守の方へ向かいますかね。

 城址公園の北入口から御用米曲輪跡を見ながら進みます。

 御用米曲輪は、江戸幕府の米などを収める蔵があったところで、平成22年度(2010)からの発掘調査で、江戸期の蔵跡や戦国期の建物跡など、様々な遺構が発見されているとのことです。

 

 御用米曲輪跡の南西側からは、切石を敷き詰めて造られた戦国期の庭園の一部も発見されているそうですよ。(現地に設置の説明板より)

 

 「平成の大改修」を経て平成28年(2016)5月1日リニューアルオープンした天守に入るのは初めてです。

 入場待ちの行列を覚悟していましたが、拍子抜けするくらいすんなりと入ることができました。内部の展示も全面的に改定したということで、貴重な資料を見学することができます。

 

 天守最上階の廻縁から、先ほど訪れた八幡山古郭東曲輪を望みます。

 

 天守内部を見学した後、SAMURAI館となっている常盤木門の中も見学してから、シンポジウムの会場である小田原市民会館の方へ向かいます。ちょう正規の登城ルートを逆に下城する形になります。

 

 二の丸の表門である銅門です。発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年(1997)に復元されたということです。

 

 石垣による枡形、内仕切門、櫓門を組み合わせた形式の枡形門で、南側の馬屋曲輪やお茶壺曲輪とは住吉堀によって隔てられています。

 

 銅門を出て馬屋曲輪跡を進んだ先にある馬出門です。三の丸から二の丸に向かう大手筋に位置する門で、寛文12年(1672)に枡形形式に改修されたそうです。平成15~16年度(2003~04)に発掘調査を行い、平成17~20年度(2005~08)に復元整備されたということです。高麗門形式の馬出門と内冠木門の二つの門の周囲を土塀で囲った枡形門です。

 

 城主の居館があった二の丸の南東隅に建つ隅櫓。明治の破却後も唯一残っていたが、大正12年(1923)の関東大震災により、石垣ごと堀の中へ崩落してしまったそうです。この櫓は、昭和9年(1934)に復興されたもので、江戸期のものより一回り小さいということです。

 

 二の丸の北側の弁財天曲輪跡です。蓮池という天然の堀とともに小田原城の北側を守っていたそうです。

 なんか整備されていて、こんな矢穴が見られる石が並べられていますよ。

 

 シンポジウム会場の小田原市民会館に近づいてきました。

 市民会館の南側の道路沿いに鐘楼が建っています。

 この場所は、江戸期に小田原城大手門の櫓台北側石垣があった場所ということです。大手門には、三代将軍家光の上洛を控えた寛永10年(1632)の改修工事で石垣が造られ、その後、正保年間(1644~48)に渡櫓門、延宝年間(1673~81)に冠木門が普請されたということです。櫓台石垣上に鐘楼が設けられたのは大正時代とのこと。

 

 シンポジウム会場の小田原市民会館へやってきました。14時開演ですが、13時の開場とともに中へ入ってしまいました^^;

 

 有料のシンポジウムだけあって(?)、資料も立派なものです。

 

 シンポジウムのスケジュールはこんな感じです。

   14:00 趣旨説明

   14:10 記念講演①

   15:00 (休憩)

   15:10 記念講演②

   16:00 (休憩)

   16:10 お城トーク

 

 開演10分前に、「皆さん暇そうにしていたから・・・」と、突然昇太師匠が登場し、前説(?)を始めました。これで開演までに、いい具合に会場が温まりました^^

 

 14時になり、小田原城天守閣館長の諏訪間 順 氏による趣旨説明の後、最初の記念講演は、滋賀県立大学教授の中井 均 先生です。演題は 『秀吉が造った石垣山城と秀吉が見た北条の城』 です。(写真撮り忘れました・・・)

 

 石垣山城は陣城ではあるが、石垣、天守、瓦葺き建物という織豊系城郭の3要素をすべて備えており、軍事的にのみ機能する陣城ではなく、見せる城として築かれたということ。塁線上に配された天守台、一の門を構えない枡形などの構造はまさに秀吉の城郭そのものである。

 一方、秀吉は小田原攻め以後に、御土居や大坂城の総構を築いているが、そこには小田原城の総構が関与していた可能性が高いということでした。

 

 二つ目の記念講演は、駿河台大学教授の黒田 基樹 先生です。演題は 『小田原北条氏の城』 です。

 北条氏の研究者である黒田先生からは、関東の大部分に及ぶ北条家の「惣国」が、その内部に個々の領国が存在する重層的、複合的なものであったこと。領国の支配拠点としての城郭(支城)についてのお話を聴くことができました。

 

 そして、シンポジウムのメインは。16時10分からのお城トークです。テーマは『北条氏の城のみどころ・城めぐり』 

 

 進行は、城郭ライターの 萩原 さちこ さん。パネラーは、城好き落語家の 春風亭 昇太 師匠、記念講演をしていただいた 中井 均 先生 と 黒田 基樹 先生、そして、諏訪間 順 館長 の4人です。

 

 

 内容は、小田原城総構がいかにすごいものかの熱いトークなど、非常に楽しいものでした。

 御自身たちも言っておられましたが、普通のお城に興味ない人からすれば、萩原さん、昇太師匠、中井先生は、明らかに “変な人” になるでしょうね^^

 萩原さんが、三島市にふるさと納税したら、山中城の障子堀の中へ入れてもらえたと言っていましたが、本当なのでしょうか?(普通の人には、そんなのは特典にはなりませんよね^^;)

 山城に登るのは嫌だとおっしゃっていた黒田先生は、小田原城の総構をずっと歩くのは?と訊かれ、「総構外側の豊臣方武将の陣跡のスタンプラリーで、全部集めたら豪華クリアファイルがもらえるとかだったら考えてもいい」とおっしゃっていました。景品がクリアファイルって…^^;

 

 あっ、それからシンポジウムの資料が立派だといいましたが、後ろに北条の城が10城、あの香川 元太郎 先生のイラスト付きで紹介されているんです。これだけでもとても嬉しいです。

 

【小田原城】

 

【石垣山城】

 

【滝山城】

 

【山中城】

 

春季特別展「安土 ―信長の城と城下町―」(2019年4月29日)

 GW中の4月29日、安土城考古博物館へ行ってきました。目的は、27日(土)から始まった春季特別展 『安土 ―信長の城と城下町―』 です。

 

 信長が築いた安土城とその城下町は、歴史の上では言うまでもなく、それまでの城や町のあり方を大きく転換させたものであるが、実際の姿を伝える確実な記録や古文書、絵画資料などがあまり残されていないため、安土城の万人が納得する姿は確立できていない。

 今回の展覧会は、これまでの発掘調査や文献調査で、城と城下町について、どれだけの信頼できる資料が残っているのか、そこからどこまでのことが言えるのか、様々な推測がどこから生まれてきたのかを紹介するものということです。

 

 今回も図録を購入しましたので、その中からいくつか展示を紹介します。

 

第一章 「信長の城」 の形成

【織田信長画像】

 安土山中に所在する信長の菩提寺・摠見寺に伝わる束帯姿の信長像です。江戸時代の摠見寺の供養や什物の記録には一切見えないため、いつどのような経緯で摠見寺に入ったのかは分からないそうです。

 

【春日井郡小牧村古城絵図】 

 永禄6年(1563)、信長は清須から移り、小牧山に新たに城と城下町を築いた。この絵図は、小牧村の古城跡を描いたもので、尾張藩が17世紀中頃に古城跡の実地検分をもとに作成したそうです。中央に直線の大手道を据えるところは安土城と共通するとのこと。

 

【織田信長制札】

 永禄10年(1567)に信長が稲葉山城に入城した際、城下の住人達は戦火を避けて離散したといい、信長はすぐさま住人達を呼び戻して町や村を再建する動きを見せたという。この制札は、城下総構南の上加納に対して、この地の治安回復を約し、戻ってきた住人には往還の自由や借金免除などを保証することを明示して立てられたものとのこと。

 

第二章 安土築城

【信長記】

 天正4年(1576)正月、近江国安土に築城を開始したことを記す。

 この「信長記」は、旧岡山藩主池田家に伝来したもので、太田牛一が信長・秀吉・

家康に仕えた池田輝政の求めに応じて自ら筆をとったものだそうです。

 

【近江国蒲生郡安土古城図】

 安土城跡全体を真上から見た平面図。貞享4年(1687)の年紀を持ち、廃城後約100年を経た城跡の姿を描いているとのこと。安土城は、築城当時の図面や絵画作品が確認されていないことから、本図様の絵図が最古のものとなるとのこと。

 

【日本史 第二巻】

 フランス人宣教師で探検家としても有名なピエール・フランソワ・ザビエル・ド・シャルルヴォワが1736年にパリで刊行した『日本国の歴史と概況』の挿絵の一つで、安土城と城下町を描いた図だという。シャルルヴォワ自身は日本に来たことはないといい、安土の現地形にも合致しておらず、正確な情報ではないとのこと。

 

【羽柴秀吉自筆判物】

 秀吉が、「てんしゅ」手伝いの人夫を家臣たちに割り当てた自筆の命令書だといい、「てんしゅ」は安土城のことと考えられているとのことです。

 

【阿閉貞征・同貞大連署書状 ―菅浦文書―】

 阿閉貞征は、山本山城主で浅井の家臣であったが、天正元年(1573)8月に信長に降り、家臣となったといい、貞大はその子。秀吉の与力となったが、秀吉が播磨に出陣するようになると、近江に残留し、信長の旗本に組み入れられたと考えられているとのこと。

 この書状は、貞大と連名で、菅浦の地下人らに対して安土城の普請に人夫を出すよう命じたものとのこと。

 

【織田信長朱印状】

 多聞山城の高櫓を、領内の人夫を使って解体し、「此方」によこすよう、大和を支配する筒井順慶に信長が命じた朱印状とのこと。

 高櫓が運ばれた「此方」について、京都二条の信長新邸などに比定する見解もあるが、建設中の安土城とする方が適当であると考えられるとのことで、安土城建設が一部移築によって行われた証拠となるとのこと。

 

【安土城跡出土 鳥伏間瓦・まわり縁瓦】

 安土城跡の各所から多くの遺物が出土しているが、完形の部材のほとんどが豊臣秀次の八幡山城築城に再利用されたらしく、ほとんどが破片となっているという。

 

【摠見寺仏殿額】

 「遠景山下漫々摠見寺」の木製文字を貼り付けた扁額で、函表面には「仏殿額 安土山」の墨書、函裏に「天保二年辛卯春修補」の墨書が認められるという。

 当初から現存する二王門に掲げられていたのか、方丈のものであったが、嘉永7年(1854)の火災により、救出の後、二王門に掲げられたのかは不明であるとのこと。

 

第三章 安土城下町の建設

【天文三年十二月結解状 ―長命寺文書―】

 長命寺は琵琶湖の奥津島の長命寺山中腹に伽藍を構える天台宗寺院で、西国三三所巡礼の札所であるとともに、中世には湖上交通の拠点を押さえ船も所持する湖上勢力でもあったという。

 この文書は、長命寺が一定期間に、門前の浜に出入りする船に下行した飯米の決算報告書であるとのこと。

 

【織田信長朱印状】

 信長が、近江国金森に宛てて出した楽市楽座の掟書であるとのこと。

 

第四章 安土城のゆくえ

【織田信雄定】

 信雄の安土入城後すぐに発せられたものとのことであるが、内容としては、信長の掟書の内容を引き継ぐと宣言するのみで、本能寺の変以後の戦乱への対処を示すものの、家が残っている場合は奉行が処理するとする程度のものとのこと。

 

【江州蒲生郡八幡町惣絵図】

 信長の実質的後継者となった秀吉は、天正13年(1585)、甥の秀次に近江等43万石を与え、その居城となったのが安土の南に位置する八幡。

 秀次時代の絵図は残されていないが、延宝3年(1675)を最古とした複数の町絵図が伝わっているといい、町筋に記された町名には、安土城下町と同じものが複数見られ、町ごと移されたと考えられているとのこと。

 

【八幡山下町中掟書】

  八幡山に居城を築いた秀次は、安土城下町をそのまま移転させるとともに、信長と同じ方法で新設の城下町に住人を集め、繁栄させようとしたといい、そのために発布されたのがこの掟書であるとのこと。

 内容は、信長が記した安土の掟書をほぼ踏襲しているが、信長が陸路を行く商人を安土に強制宿泊させようとしたことに加え、琵琶湖を通航する商船までも八幡浦への入港を命じたり、近在で開かれる諸市までも、八幡に誘引する内容となっているとのこと。

 

 特別展は、6月9日(日)までです。

 

大坂城跡発掘調査現地説明会(2019年3月23日)

 

 3月23日(土)に開催された大坂城跡発掘調査現地説明会に行ってきました。

 国の大阪第6地方合同庁舎(仮称)整備等事業に伴い、公益財団法人大阪府文化財センターが、平成30年(2018)11月から実施している発掘調査で、場所は大阪府警察本部の西側、大坂城の三の丸跡にあたります。

                                                 (説明会資料より)

 

 ちなみに、平成14年度(2002)に行われた大阪府警察本部棟建替えに伴う発掘調査では、豊臣期大坂城二の丸大手口を逆コの字形に囲む堀の底に堀障子が確認され、大きな話題となりましたね。今回の場所は、その西隣の場所になります。

 

 地下鉄の谷町四丁目駅からすぐ場所。道路を挟んだ向かい側にはNHKや大阪歴史博物館があるところに、工事用の囲いで囲まれた一角が今回の現地説明会場です。

 

 受付は午前9時30分から。午前10時から説明を始めるということでした。

 

 

 受付で頂いた現地説明会の資料は、カラー刷りの立派なものでした。

 

 今回の調査は、徳川期(江戸時代)の盛土を除去し、豊臣期の地面まで掘り進めて行われたということです。  

 

 徳川期の盛土を除去した後に、大坂の陣頃の遺構面が検出されたということで、今回公開された遺構面は、大坂の陣直前、秀吉没後の三の丸完成時期のものにあたるそうです。(上の図と写真は説明会資料より)

 

 現場の様子はこんな感じです。(南東側から見たところ)

  (北西側から見たところ)

 

 今回の現地説明会対象の調査区はこんな感じです。(説明会資料より)

 今回の調査区内で、上段・中段・下段の三段構成を成すひな壇状の造成地が見つかったということです。 

 中段は標高18mほどで、上段と下段はそれぞれ1m前後の比高差だということです。

 

 中段は調査区中央にあり、南北約25m、東西約33mで、概ね平坦で、礎石立ち建物跡が見つかったということです。

 

 下段は調査区東端から南端にかけてL字形に見つかったそうです。

 

 上段は調査区の北端と南端で部分的に見つかったそうですが、調査できた部分が少なく、様相が明らかではないそうです。

 左側の高い部分が上段、右側が中段

 

 午前10時から担当者の方の説明が始まりました。

 

  中段では東西に並ぶように礎石立ち建物跡が2棟見つかったということですが、そのうち西側の大きな方の建物跡(建物1)は、東西10間(約20m)、南北7.5間(約15m)、推定100坪の大規模な建物であるとのことです。

 

 

  建物の柱を支えていた礎石です。

 

 石が抜き取られたところには、黒い土のうが石の代わりに置かれています。

 

  建物1の東辺の礎石の間隔を見てみると、2m間隔になっているとのことです。

 

 建物1の南辺には、幅1m間隔で礎石が2列に並んでいます。

 

 この部分は縁側のような施設であったのではないか、とのことです。

 

 建物1の北側には入口にあたると思われる場所が見つかっています。

 

 

 この入口部分には、3~5㎝程度の大きさの玉石が帯状に敷かれた箇所が見られるとのことです。

 

  南側の礎石が張り出している部分も出入り口に相当する可能性があるとのことです。

 

 集水桝跡

 

 建物1の北側の柵列跡

 

 建物1の東側の建物跡(建物2)

 東西約4m、南北約15m、推定20坪ほどの南北に長い建物と考えられるとのことです。

 

 現地に掲示されていた写真で見ると、建物1と建物2の位置関係はこんな感じです。

 

 建物2の礎石の間隔は、建物1の礎石の間隔の半分の1mとのこと。

 

 建物2の構造の詳細はまだ判然とはしないが、竈が1基見つかっており、箸や漆器椀、蓋、折敷他の木製品が多量に出土したそうです。

 

 また、瓦を使用した集水用の桝と思われる施設も見つかったとのことです。

 この中から「扇に月丸紋」の家紋を持つ瓦が見つかったそうです。

 このような状況から、建物2は、台所のような機能を持つ施設であったと想定されるとのことです。

 

 下段は段落ち際に、細い溝によって区画された6つの区画が見つかったということです。

 

 

 掲示されていた写真で見るとこんな感じ。

 下段の区画からは、火縄銃の玉がまとまって出土し、その玉の中には、鋳バリが付いたままの玉があり、この場所で製造した可能性や工房等があったことも想定されるということです。

 

 また、下段から瓦を構築材に使用した三つの連なったカマドも見つかっているそうです。

 

 見学コースの最後には、出土した遺物の展示も行われていました。

 

 中段と下段の遺構面及び包含層から、唐津焼、志野焼、備前焼等の国産陶器や中国製青花白磁等の輸入磁器をはじめとする桃山陶磁器、漆器椀、下駄、箸など多岐にわたる木製品、装剣金具の目貫といった多種多様な遺物が出土しているそうです。

 

 上から、塩焼壺、備前焼、輸入陶磁器

 

 唐津焼

 

 上は志野焼、下は瀬戸美濃焼

 

 「扇に月丸紋」の家紋瓦

 

 

 

 

 軒丸瓦

 

 軒平瓦

 

 下段で見つかった鉄砲玉

 

 貨幣

 

 建物2の部分の炭灰層の中から見つかった箸

 

 同じく炭灰層の中から出土した赤漆塗りの椀

 

 石臼

 

 今回の調査では、大規模な礎石立ち建物があったことがわかり、この場所が大名屋敷の一部であったことが推定されるということです。秀吉は、秀頼のために大坂城の守りを強固にするため、様々な改造を加えていくが、その最後となるのが、慶長3年(1598)の武家地の整備と考えられており、この時には、主に東国に拠点を持つ大名たちが伏見城から大坂城の武家地へ移住を命じられているとのことで、今回見つかった造成地や屋敷も、この時に造られた可能性があるとのことです。

 出土した「扇に月丸紋」の家紋を持つ瓦や、周辺のこれまでの発掘調査で「さ竹内」と墨書された荷札木簡が出土していることから、今回見つかった屋敷地も佐竹義宣の屋敷に関連する可能性があるということです。

 なお、建物1の場所には、大坂の陣に伴うと考えられる炭がほとんど見られないことから、大坂の陣の頃には、建物自体は撤去されていた可能性があるということです。

 

 また、下段は、屋敷の建物が撤去された後、大坂の陣の際の豊臣方の陣小屋のような施設があったのではないかということです。

 

 またまた貴重な現場を見学できたという思いですが、仕方がないというものの、いずれは建物が建設されるため、この素晴らしい遺構が埋もれてしまうんだと思うとちょっと悲しくなりますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歴史講座「発掘された西三河の城」(2019年2月23日)

 実は先週の土曜日、駿府城での現場見学会からの帰り道、ちょっと寄り道して歴史講座 『発掘された西三河の城』 も受講してきました。

 

 主催は、愛知県埋蔵文化財センターと岡崎市教育委員会の共催で、場所は岡崎市見合町にある愛知県青年の家でした。多くの受講者が予想されたためか、会場が、事前の案内にある第1研修室から、190名以上入る多目的ホールに変更になっていました。毎回言っていますが、最近ますますこういった講座への参加者が増えてきた気がします。

 

 内容は、西三河に所在する城のうち、発掘調査が実施された岡崎市と豊田市の4遺跡について、愛知県埋蔵文化財センターと岡崎市教育委員会の担当者の方が報告するというもので、併せて、出土した内耳鍋についての報告もありました。

 

 最初は、愛知県埋蔵文化センターの 永井 邦仁 氏から、豊田市足助町にある 『城山城跡』 に関する報告です。

 

 調査自体は、平成12年(2000)から平成14年(2002)にかけて実施されたそうで、もう随分前の調査になりますね。

 主郭から南と南西方向に伸びる4つの尾根筋で発掘調査が行われたということで、横堀や堀切、掘立柱建物跡などの遺構が検出されたそうです。

(当日頂いた資料です。以下同じです。) 

 

 2番目は、同じく愛知県埋蔵文化センターの 池本 正明 氏から、豊田市矢並町に所在する 『矢並下本城跡』 に関する報告です。

  

 こちらも、東海環状自動車道建設に伴って平成13年(2001)と、かなり前に調査された事例です。現在は、東海環状自動車道の鞍ヶ池パーキングとなっている場所だということです。

 検出された遺構は、丘陵頂部の平坦部分に柵列をめぐらしたⅠ期と、平坦部分を整地して南北に堀切と土塁を設け、平坦部に建物が設置されたⅡ期に区分できるということです。

 

 

 3番目は、ちょっと城から離れて、発掘調査で出土した 『西三河の内耳鍋』 について報告がありました。報告者は、愛知県埋蔵文化財センターの 鈴木 正貴 氏です。

 

 東海地方の土器鍋類は、縄文時代以降ほぼ丸底の土師器で作られていたが、戦国時代になると、湯沸かし専用の釜が登場し、大型の羽付鍋、小型の内耳鍋、釜の3器種に機能分化したそうです。この中で特に、内耳鍋は上半部の形状から、

  ① くの字形内耳鍋

  ② 半球形内耳鍋

  ③ 内彎形内耳鍋

に分けられるそうです。

 

 西三河では、当初は東三河・遠江の「くの字形内耳鍋」が使われたが、すぐに尾張の「半球形内耳鍋」と、くの字形と半球形を折衷した「内彎形内耳鍋」に変わったということです。

 このことから、「おぉっ!?」っと、

  半球形 = 織田

  くの字形 = 今川

  内彎形 = 松平

だと考え、ニヤニヤ(?)してしまいそうですが、実際にはそう単純に変化したわけではないということでした。

 城郭そのものの話ではなかったのですが、この報告が結構興味深かったです。

 

 休憩をはさんで、4番目の報告は、岡崎市教育委員会の 中根 綾香 氏による、岡崎市岩津町に所在する 『岩津新城跡』 に関する報告です。

 

 岩津新城は、矢作川東岸の台地縁辺に位置する中世城館で、平成19年度(2007)と平成30年度(2018)に発掘調査が実施され、大規模な堀と土塁が確認されているそうです。お若い担当者の方ですので、中根氏が携わったのは平成30年度(2018)の調査だということです。

 岩津は岡崎城の北方の守りとしての役割を果たしたといい、本城である岩津城は縄張りから戦国末期の改修と考えていて、岩津新城も同時期に改修を受けているとみられるとのこと。

 平成30年度(2018)の調査は、主郭北半分を調査範囲としていて、主郭北側の堀の南肩と土橋を確認したとのことです。

 

 最後の報告は、岡崎市教育委員会の 山口 遥介 氏による 『岡崎城跡(天守台石垣)』 に関する報告です。

 

 岡崎城跡では、平成29年(2017)年3月に出された「岡崎城跡整備基本計画 平成28年度改訂版」に基づき、積極的に調査研究が進められていますが、今回は、平成30年(2018)8月~9月に実施された天守台石垣の基礎構造の解明を目的とした調査についての報告でした。

 

 天守台南側のトレンチ1の調査区では、地表面から約1.0m下層で根石の下端部が確認されたといい、最も大きなものは横2.0m以上、高さ0.9mの巨石だということです。

 また、根石下層に地面を整地した痕跡(整地層)も確認されたということで、整地層の上層から瀬戸・美濃産の天目茶碗や土師器皿、貝殻類、魚骨などが出土したそうです。

 さらに、根石の手前で礎石2基が確認され、天守台に近接して何らかの建物が建っていた可能性を示すものだということです。

 

 天守台北西部のトレンチ2の調査区では、石組溝が確認されたとのことです。石組溝に水が流れるように石垣根石付近を三和土により覆っているそうです。

 石組溝の石材には小型の矢穴痕が認められることなどから、天守台石垣構築後の江戸期の改修と考えられるが、この場所での改修履歴は史料からは知られず、詳細な時期は不明とのこと。

 

 天守台北面の鏡石手前のトレンチ3の調査区では、トレンチ1と同様、石垣下層で整地層が確認されたということで、鏡石は埋没部を含めると高さ2.0m以上にも及ぶ巨石だということです。

 また、この調査区でも石垣前面に石組溝が確認されたが、使用する石材は古相を示すことから、トレンチ2の石組溝とは構築時期に差が存在する可能性もあるとのことでした。

 

 調査区内から三つ葉葵紋金箔瓦(小菊瓦)が1点出土したということで、二の丸上洛御殿や本丸東照宮などに使用されたのではということでした。

 

 午前中は駿府城、午後からは西三河の城と、発掘調査三昧の1日でした。

 (当日配布頂いた資料からいろいろと写真や図などをお借りしました。)