城めぐりん -2ページ目

中日文化センター講座「日本の名城」(2019年10月19日)

 御無沙汰しております。m(__)m

 すっかり放置状態でした…

 

 そんな中、中日文化センターさんのこんな講座を受講してみました。

 

 10月から12月までの3ヵ月講座。月1回 計3回の講座で、本日10月19日(土)がその第1回目でした。

 『日本の名城』 歴史的名城から見た日本史 講師はおなじみ広島大学名誉教授の 三浦正幸 先生です。

 これまでも、いいなぁと思う中日文化センターさんの講座があったりしたのですが、平日であったりしてなかなか申し込むのに躊躇していたのですが、今回は、土曜日の午前中と、自分的にはベストの日程だったので申し込んでみました。

 

 第1回目の今回は、『毛利一族の城』 のお話でした。

 三浦先生がホワイトボードに記載してくださった、大体このような城が登場します。

 

 元就の城といえば吉田郡山城ですが、

                                           (三浦先生の郡山城復元図)

 

 月山富田城、春日山城と並び、中世の三大山城と呼ばれる吉田郡山城ですが、確かに巨大さでは三大山城ですが、目立つ堀切は尾崎丸のところと、あと2か所ぐらいで、きちんとした城門も設けられていない。当時の城レベルからいうと、防御のレベルは最低だったというお話がありました。

 

 先ほどのの図で、吉川元春と小早川隆景の間に線が引かれていますが、毛利本家や吉川の城は時代遅れ、小早川隆景だけは早くから秀吉の城の造り方を取り入れていて先進的な城造りを行っていたということです。

 毛利本家の歴代当主はプライドが高く、城造りについて秀吉の教えに耳を傾けなかったのではないかということを話されていました。

 

 秀吉に命じられて広島城を築く際も、おそらく秀吉は、「石垣積みや天守建築するのに職人を派遣してやるから…」と輝元に言ったのだろうが、プライドが高いもんだから、輝元は、「いや、大丈夫っすよ。うちにも優秀な職人はいますから…」と言って断ったんだろうと。聚楽第や大坂城みたいな天守を建てろと命じられた毛利の職人たちは、「おいおいどうする。天守なんて建てたことないぞぉ。とりあえず、あんな形になるように我流でやるしかないな。」ということで、その結果、近世城郭なのに何かおかしいものができあがってしまった、本来やっちゃいけないことをやってしまっているということでした。

 

 広島城天守です。

 

・ 破風の間がない千鳥破風

・ 床と梁が離れて床下がある。

・ 穴蔵がない。 ⇒ 輝元は秀吉に謁見して聚楽第や大坂城を見ているが、

             穴蔵までは見ていない。穴蔵なんてものは知らなかった?

・ 部屋の中まで柱を立てている。

・ そもそも望楼型天守で五重五階はあり得ない。普通は三階が屋根裏になってしまうので、五重六階になる。層塔型が登場して五重五階天守が出てきた。ある意味最先端(皮肉)

 などなど

 

 プライドが高く、「造り方ぐらい教えてもらわなくても分かってますから…」ということで、正しい天守の造り方が伝わっておらず、我流でやっちゃったので、いい意味ではなく、“日本初の○○” ということになってしまったのだとか。

 

 このことは、その後の萩城でもそうだし、吉川の城にしても、小倉山城は城門の位置も分からず無防備な城で時代遅れだし、吉川元春居館跡の石垣は飛鳥時代の積み方で、建物も天正の末の時代でなんと掘立柱建物だし、米子城や岩国城の天守も何かおかしい。その点、小早川の城は “まともな城” だということでした。

 

 いつもながら、建築物に関する三浦先生のお話は分かりやすく、非常に興味深くお聞きすることができます。

 

 来月の第2回目は、『徳川家康の城』 です。楽しみにしています。

 

『長浜城跡』試掘調査現地説明会(2019年8月17日)

 

 先週、報道等で、長浜城で豊臣期のものと考えられる石垣の遺構が見つかったと報じられましたが、8月17日(土)に現地説明会が開催されるということで行ってきました。

 

 

 この日も天気が良く、非常に暑い日でした。もう汗だくです。

 

 長浜駅から歩いて向かいます。受付場所は、長浜城跡に整備された「豊公園」の中にある国民宿舎「豊公荘」の北側ということで…

 あっ、ありました。

 

 受付で説明会の資料をいただき、時間になるまで待ちます。 

 

  

 今回のは、“試掘調査” ということです。

 豊公園再整備計画に伴って、9か所の地点で試掘調査を行ったということで、そこから、豊臣期の石垣だと考えられる遺構が発見されたのだそうです。

 この日の説明会では、9か所のうち、調査区1と調査区5の2か所が公開されるということでした。

 

 既にたくさんの人が説明が始まるのを待っておられました。

 木陰になっているので助かりました。

 

 10時30分になり説明が始まりました。

 最初に、かつて長浜城歴史博物館の館長もされていた、長浜市の太田浩司 学芸専門監から、長浜城についての概略説明があり、引き続き、調査担当者から今回の調査の全体説明を受けました。

 

 全体説明の後は、調査現場へ入り詳細の説明を受けるのですが、人数が多い一方、調査現場は狭いため、全体を4班に分けての説明となりました。

 

 前の班が現場で説明を受けている間、他の人は引き続き太田学芸専門監の話を聴きます。

 

 そうこうしているうちに、自分の班の順番になりました。

 調査区1の現場へ入ります。

 

【調査区1】

 見てのとおり、調査面積は約10㎡(5m×2m)と狭いです。

 

 発見された遺構を見ながら、担当者の方の説明を受けます。

 

  

 調査区1では、地表から約1.4mの深さで長浜城のものと考えられる石垣が発見されたということです。

  

 石垣は東西に築かれていて、掘削した部分の端から端まで続いていて、さらに東端(上の写真では奥が東)の石垣を角として南へ(上の写真では右の方)延びているとのこと。

 

(東端の石)

 

 見つかった石垣の全長は、東西約4.5m×南北約2mで、石材の大きさは、80㎝×45㎝を最大として8個の石が連なり、その上に二段目となる石が1個見つかったそうです。(二段目の石わかりますか?)

 

 石材が統一されていないことや、矢穴技法が用いられていないことなどから、豊臣期(羽柴秀吉~山内一豊が城主であった時期)に築造された石垣であると推測されるということです。

 さらに、柴田勝豊が城主であった期間はほんのわずかな期間であったこと、山内一豊は当時2万石で石垣を築くようなことはできなかったであろうことから、やはり秀吉が築いた可能性が高いというお話もされておられました。

 

 次に、調査区5の現場へぞろぞろと移動します。

 調査区5は、「秀吉像」と「長浜城天守閣跡の碑」が建っている場所のすぐ横です。

 

【調査区5】

 調査区5も、調査面積は約6㎡(3m×2m)と小さいです。

 

 天守と呼ばれているこの場所でも、石垣の一部と考えられる石が発見されたということです。

 

 結構大きな石なので、天守台に使われていたものでしょうか?

 

 説明の中で、「矢穴技法が用いられていない。矢穴が…」ということが何回も出てきたからか、調査区5の近くの石垣に、「これが矢穴ですよ~」というかのごとく、紙が貼ってありました。

 この石垣は、後世に豊公園を整備する際、長浜城に使われていたと考えられる石を使って築かれたもので、長浜城の遺構ではありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徳川美術館夏季特別展「合戦図 ― もののふたちの勇姿を描く ―」(2019年8月10日)

 8月10日(土)に徳川美術館へ行ってきました。

 

 

 凸版印刷株式会社が、平成29年(2017)11月から東京国立博物館が所蔵し、模本と考えられている『大坂冬の陣図屏風』 をデジタル技術によって復元するというプロジェクトを推進しているということは、以前に書いた覚えがありますが、そのデジタル想定復元が完成し、この特別展で初公開されるということで、観に行ってきた次第です。

 

 

 実は、7月28日(日)には、千田嘉博先生らによる公開記念シンポジウム『大坂冬の陣図屏風これまでとこれから』 というのが開催されていたんです。当然、参加すべく申し込みをしたのですが…

 

   

 ガーン!! 外れた… 抽選に外れた…  _| ̄|○

 

 ということで、不貞腐れて、「特別展なんか観に行ってやるかっ!」と思っていたのですが、まあ、大人げないなと思い直しまして … ^^; 

 

 さて、そのデジタル想定復元された『大坂冬の陣図屏風』ですが 、特別展会場の蓬左文庫の入口の所に展示されていましたよ。

 

 写真撮影OKです。(フラッシュはだめですよ。)

 

  (左上あたりが真田丸です。)

 

  (中央に壮大な大坂城)

  

 きれいです。

 東京国立博物館が所蔵するものは後世の写しの模本であり、原本は見つかっていません。複数の屏風絵が知られている関ヶ原合戦や大坂夏の陣とは異なり、大坂冬の陣を詳細に描いた屏風絵は、この模本が唯一のものということです。

 この模本は、線描と淡彩で構成され、彩色に関する指示が詳しく書き込まれていることから、これらの情報を読み解き、可能な限り原本に近いと思われる絵を想定して、復元を試みたそうです。

 

 特別展では、様々な目的で描かれ記録されてきた多くの中世合戦絵巻や戦国合戦図が展示されています。

 

 蓬左文庫展示室では、『大乱・戦後の世を描く』 と題して、室町幕府の衰退と内乱の後、全国で勃発した戦国の合戦を描いた「戦国合戦図」が展示されていました。

 

【関ヶ原合戦図屏風】

 

【東照社縁起絵巻】

 

 徳川美術館本館展示室では、『中世の合戦を描く』 と題して、「保元物語」や「平家物語」などの軍記物語を基に製作された合戦絵巻や、江戸時代に製作された、合戦の著名なエピソードを単独で大きく表した「源平合戦図屏風」などが展示されていました。

 

【平治物語絵巻】

 

【一の谷・屋島・壇の浦合戦図屏風】

 

 意地を張らず、観に行ってよかった^^

駿府城三ノ丸跡(歴史文化施設予定地)発掘調査現場説明会(2019年7月20日)

 

 静岡市の歴史文化施設建設に伴う駿府城跡発掘調査で、何やら新たな発見があったというニュースが流れ、7月20日(土)に現場説明会が開催されるということを聞き、行ってまいりました。

 

 場所は、静岡県庁の東、旧青葉小学校跡地です。

 

 この場所に、2021年度開館を目指し、静岡市歴史文化施設の整備が進められているということで、それに伴って発掘調査が行われています。

 

 場所は下の地図の黄色い部分。駿府城の大手御門を入ったところの右手、三ノ丸にあたる部分です。

 

 現場説明会会場への入り口は県庁側です。

 

 受付で資料などをいただきます。

 

    (説明会資料)

 

 午前の部の説明は10時からということです。既にたくさんの方が来ていますね。

 

 発掘調査箇所はこんな感じです。

 

 巽櫓との位置関係はこんな感じです。二ノ丸堀(中堀)を挟んで、すぐ南側です。

 

 調査区全体図です。

 今回の発掘調査では、現時点で大きく2つの発見があったということです。

 ① 戦国時代末期のまち(道と武家屋敷の石垣)を駿府で初めて発見

 ② 江戸時代の城代屋敷跡を発見

 

 発掘現場の奥の方を見学していると、間もなく担当者の説明が始まるようです。

 

 午前10時になり、市の発掘調査担当者の方の説明が始まりました。天守台の現場説明会でも説明されておられる方ですね。

 

 ① 戦国時代末期の道路と武家屋敷の石垣

 大御所となった家康が三ノ丸の堀と石垣を築造する以前の戦国末期(天正期)の道路とその両脇にある武家屋敷の石垣だということです。

 

 反対側(東側)か見たところ。

 

 道路は幅2.7m、長さは30mを超えるとのこと。表面は、土に砂利を混ぜ10~25㎝の厚さを締め固めているそうです。

 道幅から、大手道や東海道に繋がる支道と考えられるとのことです。

 

 石垣は、南側で地上2段あり、北側は1段しか残っていないとのこと。

 石垣の裏込めの川原石は、石垣よりも高く残っているため、本来はさらに1~2段の石垣があったものと推定されるそうです。

 石垣には入口に当たる部分がなく、30mを超える1つの大きな屋敷地であることから、重臣クラスの屋敷地であった可能性が考えられるとのこと。

 

 粗割りした石も見られるが、自然石が主体となっているとのこと。

 

 家康没後、寛永9年(1632)から幕末まで城主が不在となり、駿府には城代が置かれていたということで、絵図からも、今回の発掘現場は江戸時代に城代屋敷があったことが分かっているとのことです。

 今回、幕末頃の土層から建物跡が見つかったということで、絵図資料から城代屋敷の建物であると考えられるということです。

 

 ② 江戸時代の城代屋敷跡

 今回発見された遺構は、建物の礎石の下を固定する根固め石で、当時の地面下の部分であり、礎石や建物本体は残念ながら残っていなかったそうです。

 

 根石は幅1間または半間の等間隔で並ぶが、ごくわずかしか残っていないため、屋敷のどの部分に当たるのか特定することはできないそうです。

 

 城代屋敷跡の根石が見つかった場所の東奥の方には、大きな石が埋められているのも見つかっています。

 

 一瞬、柱穴がある礎石かなと思いますが、手水鉢だそうです。

 

 矢穴がありますので石垣の石ですね。

 

 報道のテレビカメラも来ていました。

 

 入口の受付のテントでは出土遺物の展示がされていました。

 

 

 

 

 

 

 

 この場所の発掘調査は10月末まで続けられるそうです。

 調査区の北半分、道路と武家屋敷の石垣は、保存する方針のため、深く掘り下げることはしないそうです。現在は、調査区の南半分、戦国末期の武家屋敷地の内部の調査を行っているとのことです。南半分はさらに調査を進め、下層の今川氏時代の遺構の発掘調査を進めていくということです。

 新たな発見を期待したいです。

講演「新発見!鳥羽城絵図 ~ 鳥羽城と藩主の変遷」(2019年7月13日)

 7月13日(土)に鳥羽市へ行ってきました。

 先週、新聞等で、これまで確認されているものより年代が前の、最古の鳥羽城絵図が発見されたというニュースが報道されましたが(なかには、「再建に弾み」とする、なんだかなぁ~という記事もありましたが…)、発見された鳥羽市の文化財専門員の方の講演があるというので、聴講に行ってきた次第です。

 

 

 資料に第18期「地球塾」第2回講座とありますが、鳥羽市では、地域特性を生かした創造的・独創的な地域づくりを推進するために、豊かな発想や広い視野をもった21世紀の郷土を担う人材とリーダーを育成するとともに、地域の中核となる人材のネットワークを構築することを目的に、郷土の偉人、世界の真珠王・御木本幸吉翁が残した語録をテーマに、人材育成講座『地球塾』を開講しているとのことで、今期の講座の第2回目として開催されたということです。

 

 場所は、鳥羽市民文化会館3階中央公民館、この文化会館自体もかつての鳥羽城の中に建っている形ですので、講演が始まるまで少し城跡を散策することにします。

 

 整備された三の丸広場

 

 本丸跡西側の石垣

 この辺り、野面積みの石垣が良好に残っています。

 今でこそきれいに石垣が見えますが、今回の講師である文化財専門員の豊田さんが13年前に鳥羽市に赴任した当時は、草が覆い繁って石垣がよくわからない状態だったそうです。それを一人で石垣によじ登って草むしりをし、石垣が見えるような状態にされたそうです。

 

 本丸跡から見た鳥羽湾

 鳥羽城といえば、おそらく唯一とされる、大手門が海に開いた水門であった城として知られています。残念ながら、海側の遺構は全く残されていません。現在、鳥羽水族館が建っている辺りに大手門があったということです。

 

 そろそろ時間になりますので、会場の文化会館の方へ向かいます。

 

 家老屋敷跡

 講演会場の鳥羽市民文化会館の裏に残るこの石垣は、家老屋敷跡の石垣です。

 

 講演は午前10時から、地球塾の塾生の方だけでなく、一般聴講も可ということでしたので参加させていただいたということです。

 

 演題は、『新発見!鳥羽城絵図 ~ 鳥羽城と藩主の変遷』で、講師は、鳥羽市教育委員会生涯学習課 文化財専門員の豊田祥三 氏です。

 

 鳥羽城は、一般的には織田信長や豊臣秀吉のもとで水軍大将として活躍した九鬼嘉隆によって築城され、文禄3年(1594)に竣工したとされていますが、築城の過程には不明なところが多いということです。

 城跡は、昭和40年(1965)に三重県史跡に指定されていますが、平成23年(2011)までほとんど発掘調査も行われてこず、鳥羽城の研究はほとんど進んでいなかったということです。

 

 豊田専門員は、平成19年(2007)から鳥羽城の絵図の調査を開始したということで、これまでに全国の大学・博物館などに約40枚存在することが確認されているということです。

 これまで最古のものとされている絵図は、三重県所蔵の『鳥羽城古図』で、延宝8年(1680)のものであったそうです。

 

 最近、松江市の松江歴史館が所蔵する『極秘諸国城図』の中に、家康時代の江戸城の様子が描かれた『江戸始図』や、大坂の陣の際の『真田丸』が描かれた図が発見され話題となりましたが、今回発見された最古の鳥羽城絵図も、この『極秘諸国城図』の中にあったということです。

 江戸城や真田丸のニュースを聞いて、豊田専門員は「ひょっとしたら…」と思い、松江歴史館に「極秘諸国城図の中に鳥羽城は入っていませんか?」と問い合わせたそうです。すると、松江歴史館から、「あるよ」という返事が返ってきたということで、さっそく松江市まで調査に向かわれたそうです。

 『極秘諸国城図』は、昭和28年(1953)に旧松江藩士の子孫の方から松江市に寄贈されたもので、全国74城の絵図が存在しているそうですが、肝心の松江城が含まれていないため、どうやら松江市では、これまであまり研究対象にはなっていなかったということで、平成28年(2016)に山梨県の研究者の方が閲覧したのをきっかけに注目を集めるようになったそうです。まだまだ新しい発見があるかもしれません。

 

 さてこれが『極秘諸国城図』所収の『鳥羽城図』です。

 

 『江戸始図』が慶長期の江戸城を描いたものなので、豊田専門員は、「ひょっとしたら九鬼氏時代の鳥羽城図があるのでは?」と期待したそうですが、残念ながら九鬼氏の時代ではなく、その後の内藤氏が藩主であった時代の城を描いたものだったということです。

 しかし、これまで最古の図とされていた『鳥羽城古図』(延宝8年(1680)頃、内藤忠勝時代)よりも古い、内藤氏2代・忠政が城主の時代の万治2年(1659)~寛文13年(1673)の時期の状況を描いたものであることが判明したとのことです。

 

 年代の判定は、地誌に記された寺院の創建、移転、名称変更などの記述と、絵図に描かれている寺院の位置や呼称の記述などを比べて行ったそうで、その話はなかなか興味深いものでした。

 

 

 

 例えば、この「観音堂」の表記。志陽略誌に「元観音堂といひ、鍋ヶ崎月見櫓の下にありしを、内藤志摩守忠重の時、此所に移し、同忠政の時、慈眼山観音院と改む」と記述があるとのことで、図には「観音堂」とあることから、忠政が「観音院」と変える前の絵図である可能性が高いというように考えられるとのことです。