歴史講座「発掘された西三河の城」(2019年2月23日) | 城めぐりん

歴史講座「発掘された西三河の城」(2019年2月23日)

 実は先週の土曜日、駿府城での現場見学会からの帰り道、ちょっと寄り道して歴史講座 『発掘された西三河の城』 も受講してきました。

 

 主催は、愛知県埋蔵文化財センターと岡崎市教育委員会の共催で、場所は岡崎市見合町にある愛知県青年の家でした。多くの受講者が予想されたためか、会場が、事前の案内にある第1研修室から、190名以上入る多目的ホールに変更になっていました。毎回言っていますが、最近ますますこういった講座への参加者が増えてきた気がします。

 

 内容は、西三河に所在する城のうち、発掘調査が実施された岡崎市と豊田市の4遺跡について、愛知県埋蔵文化財センターと岡崎市教育委員会の担当者の方が報告するというもので、併せて、出土した内耳鍋についての報告もありました。

 

 最初は、愛知県埋蔵文化センターの 永井 邦仁 氏から、豊田市足助町にある 『城山城跡』 に関する報告です。

 

 調査自体は、平成12年(2000)から平成14年(2002)にかけて実施されたそうで、もう随分前の調査になりますね。

 主郭から南と南西方向に伸びる4つの尾根筋で発掘調査が行われたということで、横堀や堀切、掘立柱建物跡などの遺構が検出されたそうです。

(当日頂いた資料です。以下同じです。) 

 

 2番目は、同じく愛知県埋蔵文化センターの 池本 正明 氏から、豊田市矢並町に所在する 『矢並下本城跡』 に関する報告です。

  

 こちらも、東海環状自動車道建設に伴って平成13年(2001)と、かなり前に調査された事例です。現在は、東海環状自動車道の鞍ヶ池パーキングとなっている場所だということです。

 検出された遺構は、丘陵頂部の平坦部分に柵列をめぐらしたⅠ期と、平坦部分を整地して南北に堀切と土塁を設け、平坦部に建物が設置されたⅡ期に区分できるということです。

 

 

 3番目は、ちょっと城から離れて、発掘調査で出土した 『西三河の内耳鍋』 について報告がありました。報告者は、愛知県埋蔵文化財センターの 鈴木 正貴 氏です。

 

 東海地方の土器鍋類は、縄文時代以降ほぼ丸底の土師器で作られていたが、戦国時代になると、湯沸かし専用の釜が登場し、大型の羽付鍋、小型の内耳鍋、釜の3器種に機能分化したそうです。この中で特に、内耳鍋は上半部の形状から、

  ① くの字形内耳鍋

  ② 半球形内耳鍋

  ③ 内彎形内耳鍋

に分けられるそうです。

 

 西三河では、当初は東三河・遠江の「くの字形内耳鍋」が使われたが、すぐに尾張の「半球形内耳鍋」と、くの字形と半球形を折衷した「内彎形内耳鍋」に変わったということです。

 このことから、「おぉっ!?」っと、

  半球形 = 織田

  くの字形 = 今川

  内彎形 = 松平

だと考え、ニヤニヤ(?)してしまいそうですが、実際にはそう単純に変化したわけではないということでした。

 城郭そのものの話ではなかったのですが、この報告が結構興味深かったです。

 

 休憩をはさんで、4番目の報告は、岡崎市教育委員会の 中根 綾香 氏による、岡崎市岩津町に所在する 『岩津新城跡』 に関する報告です。

 

 岩津新城は、矢作川東岸の台地縁辺に位置する中世城館で、平成19年度(2007)と平成30年度(2018)に発掘調査が実施され、大規模な堀と土塁が確認されているそうです。お若い担当者の方ですので、中根氏が携わったのは平成30年度(2018)の調査だということです。

 岩津は岡崎城の北方の守りとしての役割を果たしたといい、本城である岩津城は縄張りから戦国末期の改修と考えていて、岩津新城も同時期に改修を受けているとみられるとのこと。

 平成30年度(2018)の調査は、主郭北半分を調査範囲としていて、主郭北側の堀の南肩と土橋を確認したとのことです。

 

 最後の報告は、岡崎市教育委員会の 山口 遥介 氏による 『岡崎城跡(天守台石垣)』 に関する報告です。

 

 岡崎城跡では、平成29年(2017)年3月に出された「岡崎城跡整備基本計画 平成28年度改訂版」に基づき、積極的に調査研究が進められていますが、今回は、平成30年(2018)8月~9月に実施された天守台石垣の基礎構造の解明を目的とした調査についての報告でした。

 

 天守台南側のトレンチ1の調査区では、地表面から約1.0m下層で根石の下端部が確認されたといい、最も大きなものは横2.0m以上、高さ0.9mの巨石だということです。

 また、根石下層に地面を整地した痕跡(整地層)も確認されたということで、整地層の上層から瀬戸・美濃産の天目茶碗や土師器皿、貝殻類、魚骨などが出土したそうです。

 さらに、根石の手前で礎石2基が確認され、天守台に近接して何らかの建物が建っていた可能性を示すものだということです。

 

 天守台北西部のトレンチ2の調査区では、石組溝が確認されたとのことです。石組溝に水が流れるように石垣根石付近を三和土により覆っているそうです。

 石組溝の石材には小型の矢穴痕が認められることなどから、天守台石垣構築後の江戸期の改修と考えられるが、この場所での改修履歴は史料からは知られず、詳細な時期は不明とのこと。

 

 天守台北面の鏡石手前のトレンチ3の調査区では、トレンチ1と同様、石垣下層で整地層が確認されたということで、鏡石は埋没部を含めると高さ2.0m以上にも及ぶ巨石だということです。

 また、この調査区でも石垣前面に石組溝が確認されたが、使用する石材は古相を示すことから、トレンチ2の石組溝とは構築時期に差が存在する可能性もあるとのことでした。

 

 調査区内から三つ葉葵紋金箔瓦(小菊瓦)が1点出土したということで、二の丸上洛御殿や本丸東照宮などに使用されたのではということでした。

 

 午前中は駿府城、午後からは西三河の城と、発掘調査三昧の1日でした。

 (当日配布頂いた資料からいろいろと写真や図などをお借りしました。)