春季特別展「安土 ―信長の城と城下町―」(2019年4月29日) | 城めぐりん

春季特別展「安土 ―信長の城と城下町―」(2019年4月29日)

 GW中の4月29日、安土城考古博物館へ行ってきました。目的は、27日(土)から始まった春季特別展 『安土 ―信長の城と城下町―』 です。

 

 信長が築いた安土城とその城下町は、歴史の上では言うまでもなく、それまでの城や町のあり方を大きく転換させたものであるが、実際の姿を伝える確実な記録や古文書、絵画資料などがあまり残されていないため、安土城の万人が納得する姿は確立できていない。

 今回の展覧会は、これまでの発掘調査や文献調査で、城と城下町について、どれだけの信頼できる資料が残っているのか、そこからどこまでのことが言えるのか、様々な推測がどこから生まれてきたのかを紹介するものということです。

 

 今回も図録を購入しましたので、その中からいくつか展示を紹介します。

 

第一章 「信長の城」 の形成

【織田信長画像】

 安土山中に所在する信長の菩提寺・摠見寺に伝わる束帯姿の信長像です。江戸時代の摠見寺の供養や什物の記録には一切見えないため、いつどのような経緯で摠見寺に入ったのかは分からないそうです。

 

【春日井郡小牧村古城絵図】 

 永禄6年(1563)、信長は清須から移り、小牧山に新たに城と城下町を築いた。この絵図は、小牧村の古城跡を描いたもので、尾張藩が17世紀中頃に古城跡の実地検分をもとに作成したそうです。中央に直線の大手道を据えるところは安土城と共通するとのこと。

 

【織田信長制札】

 永禄10年(1567)に信長が稲葉山城に入城した際、城下の住人達は戦火を避けて離散したといい、信長はすぐさま住人達を呼び戻して町や村を再建する動きを見せたという。この制札は、城下総構南の上加納に対して、この地の治安回復を約し、戻ってきた住人には往還の自由や借金免除などを保証することを明示して立てられたものとのこと。

 

第二章 安土築城

【信長記】

 天正4年(1576)正月、近江国安土に築城を開始したことを記す。

 この「信長記」は、旧岡山藩主池田家に伝来したもので、太田牛一が信長・秀吉・

家康に仕えた池田輝政の求めに応じて自ら筆をとったものだそうです。

 

【近江国蒲生郡安土古城図】

 安土城跡全体を真上から見た平面図。貞享4年(1687)の年紀を持ち、廃城後約100年を経た城跡の姿を描いているとのこと。安土城は、築城当時の図面や絵画作品が確認されていないことから、本図様の絵図が最古のものとなるとのこと。

 

【日本史 第二巻】

 フランス人宣教師で探検家としても有名なピエール・フランソワ・ザビエル・ド・シャルルヴォワが1736年にパリで刊行した『日本国の歴史と概況』の挿絵の一つで、安土城と城下町を描いた図だという。シャルルヴォワ自身は日本に来たことはないといい、安土の現地形にも合致しておらず、正確な情報ではないとのこと。

 

【羽柴秀吉自筆判物】

 秀吉が、「てんしゅ」手伝いの人夫を家臣たちに割り当てた自筆の命令書だといい、「てんしゅ」は安土城のことと考えられているとのことです。

 

【阿閉貞征・同貞大連署書状 ―菅浦文書―】

 阿閉貞征は、山本山城主で浅井の家臣であったが、天正元年(1573)8月に信長に降り、家臣となったといい、貞大はその子。秀吉の与力となったが、秀吉が播磨に出陣するようになると、近江に残留し、信長の旗本に組み入れられたと考えられているとのこと。

 この書状は、貞大と連名で、菅浦の地下人らに対して安土城の普請に人夫を出すよう命じたものとのこと。

 

【織田信長朱印状】

 多聞山城の高櫓を、領内の人夫を使って解体し、「此方」によこすよう、大和を支配する筒井順慶に信長が命じた朱印状とのこと。

 高櫓が運ばれた「此方」について、京都二条の信長新邸などに比定する見解もあるが、建設中の安土城とする方が適当であると考えられるとのことで、安土城建設が一部移築によって行われた証拠となるとのこと。

 

【安土城跡出土 鳥伏間瓦・まわり縁瓦】

 安土城跡の各所から多くの遺物が出土しているが、完形の部材のほとんどが豊臣秀次の八幡山城築城に再利用されたらしく、ほとんどが破片となっているという。

 

【摠見寺仏殿額】

 「遠景山下漫々摠見寺」の木製文字を貼り付けた扁額で、函表面には「仏殿額 安土山」の墨書、函裏に「天保二年辛卯春修補」の墨書が認められるという。

 当初から現存する二王門に掲げられていたのか、方丈のものであったが、嘉永7年(1854)の火災により、救出の後、二王門に掲げられたのかは不明であるとのこと。

 

第三章 安土城下町の建設

【天文三年十二月結解状 ―長命寺文書―】

 長命寺は琵琶湖の奥津島の長命寺山中腹に伽藍を構える天台宗寺院で、西国三三所巡礼の札所であるとともに、中世には湖上交通の拠点を押さえ船も所持する湖上勢力でもあったという。

 この文書は、長命寺が一定期間に、門前の浜に出入りする船に下行した飯米の決算報告書であるとのこと。

 

【織田信長朱印状】

 信長が、近江国金森に宛てて出した楽市楽座の掟書であるとのこと。

 

第四章 安土城のゆくえ

【織田信雄定】

 信雄の安土入城後すぐに発せられたものとのことであるが、内容としては、信長の掟書の内容を引き継ぐと宣言するのみで、本能寺の変以後の戦乱への対処を示すものの、家が残っている場合は奉行が処理するとする程度のものとのこと。

 

【江州蒲生郡八幡町惣絵図】

 信長の実質的後継者となった秀吉は、天正13年(1585)、甥の秀次に近江等43万石を与え、その居城となったのが安土の南に位置する八幡。

 秀次時代の絵図は残されていないが、延宝3年(1675)を最古とした複数の町絵図が伝わっているといい、町筋に記された町名には、安土城下町と同じものが複数見られ、町ごと移されたと考えられているとのこと。

 

【八幡山下町中掟書】

  八幡山に居城を築いた秀次は、安土城下町をそのまま移転させるとともに、信長と同じ方法で新設の城下町に住人を集め、繁栄させようとしたといい、そのために発布されたのがこの掟書であるとのこと。

 内容は、信長が記した安土の掟書をほぼ踏襲しているが、信長が陸路を行く商人を安土に強制宿泊させようとしたことに加え、琵琶湖を通航する商船までも八幡浦への入港を命じたり、近在で開かれる諸市までも、八幡に誘引する内容となっているとのこと。

 

 特別展は、6月9日(日)までです。