先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「大洲城」(愛媛県大洲市大洲)の「番所」をお届けします。「日本100名城」の選定されています。

 

大洲には、鎌倉時代末期の伊予守護職「宇都宮家」が築いたお城があり約200年間居城しました。

 

しかし「宇都宮家」は、「長宗我部元親」に与した家老「大野家」に城を乗っ取られますが、今度は「大野家」が「小早川隆景」に滅ぼされ、その後「戸田家」を経て「関ケ原の合戦」で功績をあげた「藤堂高虎」が今治に築城を進めて、「大洲城」には養子の「藤堂高吉」を城代として置きます。

 

1609年に「脇坂安治」が入城して城下の整備を押し進めていましたので、1617年に「加藤貞泰」が入城した時点では既に近世城郭が出来上がっていました。それ以降は、「加藤家」が代々続いて、幕末・維新まで統治を行います。

 

 

大洲城」の立地と縄張りは、「肘川(ひじがわ)」を背後の守りとした高さ20mの「地蔵ケ嶽」を利用した後堅固の縄張りで、梯郭式の平山城です。

 

そして、「本丸」と「二の丸」を守るようにして「内堀」が取り巻き、その外側と「肘川」の東側に沿って「三の丸」を配置して、城下町が造られました。

 

「本丸」は、上段と下段に別れ、どちらも周囲を「多門櫓」で結ばれて厳重な守りを誇っていました。特に下段には井戸があり「井戸丸」とも呼ばれていました。

 

「二の丸」は、「本丸」の北側から西側、南側にかけて取り巻き、特に北側は「北の丸」と呼び「水手櫓」等置かれて川からの防備を図り、西側は「中の丸」とも呼んで「奥御殿」が置かれ、その南側は藩政の中心となる「藩庁」としての「表御殿」が配置されていました。更に、南東にかけては、「馬屋」「台所」等の倉庫群が置かれました。

 

縄張り図(赤丸は下記「番所」の位置) ↓

 

現在「番所」は、「二の丸(中の丸)」から「本丸下段」へ登る坂道の手前に復興「御門番長屋」が建ちます。ただ、当番所は、「松山城」と同じ様に内部は「トイレ」として使用されているのが残念です。

 

屋根は「切妻造り」の「本瓦葺き」で、絵図の通り「白漆喰総塗籠め」になっています。外観が白漆喰の番所は珍しいと思います。門番長屋と名前が付いていますが、この中に門番が控えていたようです。

 

復興「御門番長屋」(内部は「トイレ」として使用) ↓

復興「御門番長屋」(内部は「トイレ」として使用) ↓

古城絵図「御門番長屋」 ↓

 

 

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「松山城」(愛媛県松山市)の「番所」をお届けします。「日本100名城」の選定されています。

 

1602年に「加藤嘉明」によって「勝山」に築城が開始されて「松前(まさき)城」から転居しました。1627年に入城した「蒲生忠知」は「二の丸」を増築しましたが嗣子なく断絶、その後「(久松)松平定行」が15万石で入城しました。以降は「久松松平家」が幕末・維新まで統治します。

 

「定行」は、1642年に五重天守を三重天守に改築しますが、その「天守」は1784年に落雷で焼失し、現在建っている「天守」は、1852年に再建されたものです。

 

松山城」の立地と縄張りは、「勝山」山頂に「本丸」を築き「本壇」に「天守曲輪」等を設けています。中麓には「二之丸」を置き、更に麓には「三之丸」を置く「平山城」です。

 

城山公園マップ(現地掲載) ↓

 

その「二之丸」には、「二之丸御殿」が置かれていて現在は「多聞櫓」「門」「茶室」等が再建され、「御殿」跡は平面表示されています。

 

「二之丸」絵図(赤丸は下記「番所」の位置) ↓

当時の「二之丸」図(現地に掲載) ↓

 

「二之丸」跡北側には「四脚御門(北門)」が復興されていて、その脇に単独の「番所」が建っています。

 

屋根は「切妻造り」の「桟瓦葺き」、外壁は「真壁造り」で「庇」を設けて番所らしさを表現していますが、残念ながら現在は「客用トイレ」として使用されています。

 

復興「番所」(現在中はトイレに使用) ↓

復興「番所」(現在中はトイレに使用) ↓

 

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「丸亀城」(香川県丸亀市)の「番所」をお届けします。「日本100名城」の選定されています。

 

この地に本格的なお城の築城は、1587年に讃岐に入った「生駒親正(ちかまさ)」「一正」親子が1597年に「高松城」の支城として築城したのが始まりです。

「関ヶ原の合戦」では、親子東西に分かれましたが、息子の「一正」は東軍参加したので加増されて家督を継ぎお城も1602年に完成させます。その後、「高松城」を本城として「丸亀城」は城代を置いていましたが、1615年の「一国一城の令」では、樹木で隠してお城を守り切ったとのエピソードがあります。

その後1621年に息子の「高俊」が遊興に耽るとともに家臣間の権力闘争でお家騒動「生駒騒動」が起こり領地没収で流罪となります。

1641年に、「讃岐国」は二分され「高松城」には水戸徳川系の「松平家」が入り、「丸亀城」には「山崎家」が入り城の改修を行いますが完成まで30年間もかかり、そのうち嗣子なく断絶します。

そして1658年に「京極高和」が6万石で入城し、大改修をして現在の「天守」もその時(1660年)に完成しました。その後、「京極家」が幕末・維新まで続きます。

丸亀城」の立地と縄張りは、標高60mの「亀山」に山裾を取り込んで築かれた「平山城」で、「亀山」を総石垣造りで四段に取り巻いて、石垣は「扇の勾配」を描いています。

そして、「亀山」周囲の平地には、「内堀」と「外堀」を巡らせています。

曲輪は、「本丸」「二の丸」「三の丸」「帯曲輪」「山下曲輪」があり、「輪郭式(渦郭式)」と「連郭式」を複合した縄張りです。

 

城内案内図(赤丸は、下記「番所・番所長屋」の位置) ↓


現在「山下曲輪」跡入口には桝形構造の「大手門」が建ち、堀を土橋で渡った「馬出」的な敷地には重文「山下御殿」の「御殿表門」とそれに併設した形の重文「番所」と同「番所長屋」が建ちます。

この「御殿表門」の出入を管理する「番所」とその門番の休養場所「番所長屋」が残っています。

 

「番所」の屋根は手前の「立ち席」部分は「切妻造り」の「本瓦葺き」ですが、続く棟は「入母屋造り」の「本瓦葺き」で前には「庇」が出張っています。外壁は表側から見ると「下見板張り」ですが、内側は柱が見える「真壁造り」になっています。

 

更に「番所長屋」は、「番所」と直角に接続していて屋根は手前「入母屋造り」の「本瓦葺き」で外壁は「番所」に併せた仕様になっています。

 

右の「御殿表門」に併設した重文「番所」奥に同「番所長屋」 ↓

右の「御殿表門」に併設した重文「番所」 ↓

右の「御殿表門」に併設した重文「番所」 ↓

「御殿表門」に併設した重文「番所」「番所長屋」(正面から) ↓

重文「番所」「番所長屋」(正面から) ↓

重文「御殿表門」、重文「番所」「番所長屋」(「本丸」から見下ろす) ↓

 

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

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「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

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今回は、「徳島城」(徳島県徳島市)の「番所」をお届けします。「日本100名城」の選定されています。

 

戦国時代の阿波国は群雄割拠していましたが、「長宗我部元親」によって平定されました。しかし、「豊臣秀吉」による四国平定後は、「蜂須賀家政」が阿波一国を賜り「一宮城」に入りその後に「徳島城」を築城しました。

 

しかし、「家政」は「石田三成」とは疎遠であったので、「関ケ原の合戦」では、「家政」とその子「至鎮(よししげ)」とは西軍と東軍に別れて戦うことで、家を守ろうとする策にでました。結果、「至鎮」は毛利軍の抑えの役割で実戦には参加しませんでしたが、「家政」は出家して隠居することで、「至鎮(よししげ)」に阿波国17万6000石が安堵されました。

 

「大坂夏の陣」で手柄を立てた「至鎮(よししげ)」は、淡路国を加増されて25万7000石になり、「徳島城」を近世城郭として整備拡張して幕末まで統治することになりますが、家祖「正勝」以来の血統が7代藩主「宗英(むねひで)」で途切れ、その後8代・9代は高松松平家からの養子、10代は佐竹家からの養子の「重喜(しげよし)」が継ぎました。

 

「重喜」は、「明和の改革」という藩政改革を断行、淡路国を任せていた「洲本城」城代の「稲田家」の専制を廃するほか、様々な荒業を導入したことから破局を迎えることにもなりました。

 

徳島城」の立地と縄張りは「城山」を中心とした平山城で、「寺島川」「助任(すけとう)川」更には「福島川」「新町川」に挟まれた天然の要害に築かれたお城です。

 

城山部分に「西三の丸」「西二の丸」「本丸」「東二の丸」と続く連郭式のお城になっています。「天守」は、本丸にはなくて、「東二の丸」に「御三階櫓」として建てられ、「西二の丸」には「弓櫓」、「西三の丸」には「帳(とばり)櫓」等が建っていました。麓には「御花畠」「西の丸御殿」「表御殿」「三木郭」が置かれていました。

 

現在「三木郭」に、表門である「鷲(わし)の門」が1989年に木造復元されていて、その脇には「番所」が単独で続きます。当門と「番所」は戦前まで現存していましたが、太平洋戦争時の1945年に戦災で焼失してしまいました。

 

屋根は「切妻造り」の「本瓦葺き」、外壁はかなり上部まで「下見板張り」になっています。外側には細い「竪格子」の窓が設けられています。

 

ただ、「鷲の門」と「番所」更に現在「休憩所」となっている建物全体は、当時の規模より縮小されて再現されていますので、当時はかなり立派な表門であったと思われます。

 

木造復元された「番所」と「鷲の門」 ↓

木造復元された「番所」と「鷲の門」(奥は現在「休憩所」として使用) ↓

木造復元された「番所」と「鷲の門」 (裏側から)↓

木造復元された「番所」と「鷲の門」(表側から) ↓

幕末〜維新頃の古写真(手前が「鷲の門」「番所」、徳島ヒストリーから) ↓

 

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「平福陣屋」(兵庫県佐用郡佐用町平福)の「番所」をお届けします。

 

南北朝時代の1349年に、赤松一族の「別所敦範」が「利神山」(373m)に山城を築き、以来、赤松一族の拠点となりました。「関が原の合戦」後、播磨国領主「池田輝政」の甥「池田由之」が平福領2万3千石の領主となり、「利神山」上に広大な城郭を造営し、山麓にも城主屋敷、武家屋敷を配して城下町の建設に着手しました。

 

しかし1615年の「一国一城令」で「利神城」が廃城となり、1640年に山崎藩主となった「松平(松井)康映」は、平福村などを「松平(松井)康朗」に分知したので、「康朗」は「平福陣屋」を築きました。ただ、歴代「松平(松井)氏」は旗本として江戸に在勤し、「平福」には代官を置いた代官支配となりました。

 

一時、「出石藩」の「仙石騒動」に連座して幕府領になりますが、1863年に旧領のうち2500石が「松平(松井)氏」に戻って、幕末・維新まで続きます。

 

現在は、陣屋跡地に移築された1864年築の「陣屋表門」に「番所」が付随しています。門扉両脇に格子戸を設けて監視の役割を担っていたと思われます。

 

「陣屋表門」に「番所」が付随 ↓

「陣屋表門」に「番所」が付随 ↓

 

 

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今日は、紹介された神戸花隈にある病院へ朝から出かけました。

 

神戸なんて凄く久しぶりでしたので、病院で検査するにも拘わらず心なしかウキウキ気分になりました。

 

神戸花隈の病院 ↓

 

10時に初診、血液・尿・エコー検査を済ませ、先生の問診、最後に検査結果を踏まえて先生からの説明を済ませると13時になりました。

 

中は綺麗でシステマチックな病院 ↓

 

病院近くのグルメランチをググると、直ぐ近くの「洋食の朝日」が目に止まり、そこへ行くことに。

 

ところが遠目からも人だかりが! 何と20人くらいが並んでいたので断念しました。

 

「洋食の朝日」 ↓

 

そしてすぐ近くの「ビラトレッティ」というピザ店に入り「ピッツアランチセット」をオーダーしました。「マルゲリータ」を頼みましたが、結構大きくお腹が一杯になったところで、出立しました。そうそう、大きな「フォッカチャ」が80円だったので購入!

 

やはり神戸は、少し歩くだけでグルメが豊富です。

 

「ビラトレッティ」というピッツア店 ↓

大きなマルゲリータ ↓

 

このまま「花隈駅」へ行きましたが、地図を見ると近くに「元町商店街」があったので少し寄ってみようという気が起こり足を向けました。

 

昨年11月以来の繁華街でしたので大感激、ウインドウショッピング好きな私は、首が重たいにもかかわらず、顎を指で押し上げながら歩きました。

 

元町商店街(神戸の雰囲気は違うな〜) ↓

 

そして途中まで来てフッと近くに「南京町」が有ることを思い出し、昔良く購入した「老祥記」で豚まんを買おうと向かいました。

 

「南京街」広場 ↓

 

旧店舗は無くなっていて新店舗だけになっていましたが、丁度行列も殆どなく5個だけをゲットしました。前に並ぶ人は50個や20個と大量購入していて驚きです。私の後には長蛇の列となっていたのでラッキーでした。

 

豚饅頭「老祥記」 ↓

豚饅頭「老祥記」(できたてホカホカ) ↓

豚饅頭「老祥記」(帰って食べるのが楽しみ!) ↓

 

久々に「南京町」ゲートまで行き、今度は「三宮センター街」をブラリブラリと「三宮」まで散策してしまいました。

 

「南京町」(広場から西方向) ↓

「南京町東門」 ↓

「南京町案内図」 ↓

「三宮センター街」 ↓

 

だいぶ首が疲れ、息も絶え絶えでしたが、この前「万博」へ行って少し自信ができたので、歩いてみました。

 

神戸は海に近いので、私の住んでいる大阪の山沿いとは違い暑さもマシでしたが、汗はタップリとかき、「阪急三宮駅」に着いたら帽子を始め服まで汗が滲み出ていました。

 

久しぶりの「繁華街散策」は非常に気分転換となりましたので、秋に向けて少しずつ距離を延ばして歩いていくようにしようと思いました。

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

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今回は、「赤穂城」(兵庫県赤穂市上仮屋)の「番所」をお届けします。「日本100名城」に指定されています。

 

「江戸城」の「松の廊下」で「吉良上野介」に対して刃傷を起こし「忠臣蔵」の原因を作った「浅野内匠頭(長矩)」の祖父「浅野長直」(5万石)が1645年に、「池田家」(3万5千石)の後に赤穂に入封して城づくりを進めて1661年に完成したのが「赤穂城」です。

 

この時代の新たな築城は非常に珍しいのですが、「長直」は国替えの際に、当時の将軍「徳川家光」から内々に築城許可を得ていたようで、築城に当たり近世軍学を反映した星型に近い曲輪を導入させました。

 

しかし前述のように、1701年に「長矩」の江戸城に於ける刃傷事件で切腹、「浅野家」はお家断絶となって「赤穂城」は、「脇坂安照」の家中の者が在番となりました。

 

その後、「永井家」1代、1706年からは「森家」2万石のお城として、幕末・維新まで続きました。

 

赤穂城」の立地と縄張りは、現在の「千種川」の三角州の先端の砂州上に築かれ、「甲州流」や「山鹿流」の近世軍学に沿って築かれて星形に似た曲輪で「横矢掛かり」を多用し、輪郭式と梯郭式を併用した「平城」であり「海城」でした。

 

「本丸」は星形に近い多角形で周囲を石垣と堀で囲われています。「本丸」の南東部に「天守台」が築かれましたが「天守」は置かずに石垣で築かれた本丸城壁には、門が3基、櫓1基を配備する他に隅角には櫓台状の石垣の上に土塀を築いた「横矢桝形」を置いた各所から横矢を掛けるようにしていました。

 

「二の丸」は、「本丸」を輪郭式に取り囲む曲輪で門3基、櫓5基を置くとともに、円環状の平面である広大な曲輪内を石垣と土塀の仕切によって南北二つに区画して防衛機能を固めていました。また「二の丸」の半分が海に面していたので船着場の雁木等の備えも有りました。

 

「三の丸」は、「二の丸」北側に配置され海部分を除く曲輪外周には石垣を設けて城下町との区切りとしていました。「大手門」は「三の丸」の北側に設けられ、右折れの「内桝形」で高麗門と櫓門と出桝形形成をしていました。

 

縄張り絵図(赤丸は下記「番所」の位置、「名城を歩く」PHPより) ↓

 

現在、上記「大手門」を入ると右折れの桝形となりその先、「隅櫓」の裏下に復興「番所」が建ちます。

 

屋根は「入母屋造り」の「本瓦葺き」で、正面には庇と縁台が前に出ています。そこ改めが行われたものでしょう。右脇と妻側下にも入口が設けられています。

 

この前を通って、180度Uターンすると右手に「大石神社」その先には「大石内蔵助邸長屋門」があります。

 

「隅櫓」の裏下に復興「番所」 ↓

復興「番所」 ↓

復元「大手門」を入って右奥に「番所」 ↓

「隅櫓」の裏下に「番所」 ↓

 

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

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今回は、「姫路城」(兵庫県姫路市)の「番所」をお届けします。「世界遺産」であり、「日本100名城」に指定されています。

 

1333年に「赤松則村」が砦を築いたのが最初といわれ、その後「山名持豊」が本格的な城に改修、「赤松家」の一族である「小寺家」の属城となり、その家臣であった「黒田家」が城代となります。

 

「羽柴秀吉」が中国攻めの際に「黒田官兵衛」が秀吉に「姫路城」を献上し、「秀吉」によって望楼型の三重天守が「姫山」に建てられました。「秀吉」の全国統一時には、秀吉の縁戚である「木下家定」が城主になりました。

 

「関ケ原の合戦」後、「徳川家康」が西国外様大名の抑えとして「姫路城」に配置したのが、「家康」の女婿(むすめむこ)である「池田輝政」でした。

 

「姫路城」は、西の外様大名を監視する役割を担っていましたので、その後は、譜代・親藩(御家門)の名門大名が入城します。

 

「家康」の外孫である「松平忠明(ただあきら、奥平)」を皮切りに、「越前松平家」(「松平直矩」が幼少だったので移封)の次に「榊原家」が入城→成人になった「越前松平直矩」が再入封→「本多家」→「榊原家」→「越前松平家」と目まぐるしく替わり、1749年に「酒井家」の入城後はやっと藩主が定着しました。

 

姫路城」の立地と縄張りは、「姫山」(東側)と「鷺(さぎ)山」(西側)という小丘陵を中心に築かれた「平山城」です。「姫山」最高峰に「天守群」を建てて、「本丸」から「二の丸」等が階段状に配される「渦郭式」の縄張りです。

 

「天守群」南側には「本丸=備前丸」を置き、少し下には「井戸曲輪」「腹切り曲輪」そして「上山里曲輪」「乾曲輪」などを配備し、「三国濠」を中心に「二の丸」が拡がります。「三国濠」の西側の「鷺山」は「西の丸」となっています。

 

「三国濠」の南側にある「菱の門」は、以上の曲輪に出入りできる門となります。その南側の平坦地には、藩主が住む「三の丸(御居城)」や藩政を執り行う「三の丸(向御屋敷)」「御作事所」が置かれていました。そして、「三の丸」の南端に「大手門」が置かれ、以上の曲輪全体が「内曲輪」と呼ばれていて、その周囲を非常に幅広の「内堀」で取り巻き防御しています。

 

更に「内曲輪」の北・東・南側を「中曲輪」が取巻き侍屋敷が置かれ、総構えとなっている「外曲輪」とは12の門が構えていました。

 

惣構えの縄張り図(「名城を歩く」PHPより) ↓ 

 

以上の様に、「姫路城」の広大な敷地内、特に「菱の門」内には約80棟の城郭建造物が建ち並び、国宝、重要文化財に指定されていて、今回の「番所」はその中の1建造物しかありませんが、紹介したいと思います。

 

「菱の門」内の現在絵図(赤丸は下記「番所」の位置、「名城を歩く」PHPより) ↓ 

 

場所は「ちの門」と」「井楼櫓」の間に建つ「番所」で、曲輪間を管理・監視する「ちの門」の脇に置かれた「番所」です。これらはいずれも重要文化財に指定されています。

 

入口と横格子窓がある小さなスペースですので2〜3名が常駐していて曲輪間の出入をチェックしていたのでしょう。

 

ただこの場所は、現在「井楼櫓」より北側が通行止めとなっていて、特別公開日しか近くで見ることが出来ません。

 

重文「ちの門」の脇に置かれた重文「番所」 ↓

重文「ちの門」の脇に置かれた重文「番所」 ↓

突当りが重文「番所」(右は、重文「井楼櫓」) ↓

重文「ちの門」(潜って左側に「番所」) ↓

 

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「三日月陣屋」(兵庫県佐用郡作用町)の「番所」をお届けします。

 

「本能寺の変」で討ち死にした「森蘭丸」と同じ祖先を持った名門「森家」の「森長俊」が、15,000石で分地され「津山藩」の支藩「津山新田藩」を経て「三日月藩」へ転封され、1700年に「三日月(乃井野)」の地に陣屋を築きました。

 

「陣屋」というものの城域は広く、城外から城内へは「大手門」に相当する「表御門」を含め東西に5か所の門を構えて、「表御門」両脇には堀代用の池を設けていました。

 

当時の陣屋絵図(赤丸は下記「番所」がある位置、現地に掲出) ↓

 

 

 

「表御門」の中央から右手にかけての段々上には武家屋敷群が広がり、更には現在復元されている建造物群が後背に控える「御殿」群を守備するような陣容になっています。

 

水堀を渡る木橋を越えると二重櫓門「中御門」が構え、両脇からは「多門櫓」が挟み込んでいますが、向かって左側には板庇付きの「出格子窓」が設けられていてその中に「番所」機能があったものと思われます。

 

復元「中御門」左側に板庇付きの「出格子窓」が設けられ中は「番所」機能? ↓

 

また、右(東)側の多門櫓に続いて「通用御門」が木橋を渡って建っていますが、その右側にも前述と同様の板庇付きの「出格子窓」が設けられていているので、ここにも「番所」機能があったものと思われます。

 

復元「通用御門」右側に板庇付きの「出格子窓」が設けられ中は「番所」機能? ↓

復元「中御門」と「通用御門」 ↓

復元「中御門」と「通用御門」(裏側から) ↓

 

 

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一昨日(8/28)、今回初めて「大阪・関西万博」へ行ってきました。

 

以前にも触れましたが、昨年11月に「首下がり症候群」を患い、約10ケ月もの間遠出をしたことがなく、万博のIDチケットを2回分持っていましたが、もう行くのを諦めていました。

 

ところが、先日「息子ファミリー」達が既に2回万博へ行って凄く良かったので「是非一緒にいきましょう!」とのお誘いを受けていたものの、歩くのが無理だからと頑なに断っていたところ、「会場近くまで車で行くし、椅子も持っていくし、ちゃんとフォローするので是非是非行きましょう」とのお誘いを断れず、更に雰囲気だけでも味わいに行こうかとその気にもなってきたので意を決して行くことにしたわけです。

 

地下鉄「大阪港」で駐車してそこから地下鉄で「夢洲駅」へ移動、降りたら凄い人達が「東ゲート」へ向かっていきましたが、幸いにも荷物検査やIDチェックはスムーズに済ませ14時半頃に入場を果たしました。

 

地下鉄「夢洲駅」からゾクゾクと「東ゲート」方面へ ↓

会場マップ ↓

 

孫達は、来場2回の経験から、欲しいお土産を先にゲットすべく「オフィシャルショップ」へ直行し、その後パビリオン巡りになりました。

 

「オフィシャルショップ」の入口にあったモニュメント ↓

 

3回目の「息子ファミリー」は未だ未入場の「アメリカ館」「日本館」の入場を希望していましたが、当日は既に予約無し入場は無理とのことで、孫達がまだスタンプを押していないパビリオン巡りに切り替えました。

 

一番近々にオープンした「ネパール館」からスタートし「トルコ館」からへ、少し並んで「タイ館」に入場、更に沢山の国々が入居している「コモンズ館」でどんどんスタンプを押して楽しんでいました。(3日間で約150のスタンプをゲットできたとか)

 

「ネパール館」 ↓

「トルコ館」 ↓

「タイ館」 ↓

「コモンズ館」内の「スロバキア」 ↓

「コモンズ館」でスタンプを押す孫ちゃん ↓

 

私は、特に入場したいというパビリオンは無く、「大屋根リング」の木の凄さを見たかったのと、各パビリオンの工夫を凝らした外観を眺めること、そして万博全体の雰囲気を味わうだけで充分満足でした。

 

ギンギラギンの青空と「大屋根リング」 ↓

「大屋根リング」に感動 ↓

「大屋根リング」に感動 ↓

「韓国館」外壁が次々と変わる映像 ↓

「アゼルバイジャン館」 ↓

「パソナ館」 ↓

 

55年前の「大阪万博」の時は高校生で8回も通って万博の良さを体験しているだけあって、今回も万博の中に居ること自体が感無量でした。

 

吉本新喜劇ファンの孫(女の子)が、ステージで芸を披露していた吉本の「島田珠代」「藤崎マーケット」を生で見れたことに大興奮でした。

 

芸を披露中の吉本の「島田珠代」「藤崎マーケット」 ↓

 

「西ゲート」の方へ移動すると、意外にも人が少ないような気がしましたが、そこで「息子夫婦」共通の友達とバッタリ出会い「こんなところで会える」と喜びもひとしおのようでした。

 

日暮れの「西ゲート」 ↓

 

孫(女の子)は、「ミャクミャク館」で人形プレゼントの抽選があるとの事で1時間待ちの行列を並ぶことに。

 

ミャクミャクのマンホール ↓

 

その間男性陣は「未来の都市館」に少し並んで入場しました。待っている間、海に近いだけあって涼しい風が心地よく、昼間のギンギラギンの照り付けから様相が一転していました。

 

パビリオンの中は、「既に開発されたり開発途上の品々によって未来の生活が、このようになりますよ」とのメッセージが発信されていました。

 

「未来の都市館」の中(ダンボールを重ねて作られた顔デザイン) ↓

「未来の都市館」の中 ↓

「カワサキ」の未来のオートバイ ↓

 

ここを出ると、夜空には「花火」が打ち上げられているのをグッドタイムで見られました。

 

花火大会 ↓

 

この後、息子と孫(男の子)は、「フトモモ館」でバーチャルの自転車競技選手とリアルの自力自転車漕ぎによる体験競技にチャレンジしました。アシスタントの男性による大声の励ましに活力を貰い、二人ともセミプロ級でゴールインして大喜びでした。

 

バーチャルの自転車競技選手とリアルの自力自転車漕ぎにチャレンジする孫くん ↓

バーチャルの自転車競技選手とリアルの自力自転車漕ぎにチャレンジする息子 ↓

 

女性陣と合流したのが20時、近くに並ぶレストラン街の中で、全員がこの時間までエネルギーを使い果たしてカツを食べたいとのことで、京都「勝牛」に入って夕食を取りました。

 

京都「勝牛」の店内 ↓

 

入って店員さんから、ミャクミャク人形を持っていれば「ミャクミャクソーダー」(定価700円)をプレゼントとのこと。入場して購入した2体と先ほど抽選で貰ってきた1体併せて、3杯もプレゼントされました。ラッキー! ミャクミャク好きの孫(女の子)ちゃんは大喜び、また孫(男の子)君も美味しい牛カツに舌鼓して大満足でした。

 

プレゼントの「ミャクミャクソーダー」 ↓

ミャクミャク一杯で大満足の孫ちゃん ↓

ボリュームたっぷり色々な味を味わえる「黒毛和牛カツ」に大満足の孫君 ↓

 

お腹を満たして「東ゲート」へ移動する途中「JR西日本」がやっている「オフィシャルショップ」で再度お土産を物色、買った後は退場の為にゲートに向けて足を進めました。

 

「JR西日本」の「オフィシャルショップ」天井に装飾されたミャクミャク ↓

途中でガンダムも見ました ↓

ミャクミャクと「大屋根リング」 ↓

暗闇の中の「大屋根リング」 ↓

夜の「大屋根リング」の中もいいな〜 ↓

夜の「大屋根リング」の中もいいな〜 ↓

 

真っ暗闇中に照明で浮かぶ「大屋根リング」は凄く目に焼き付く姿でした。

 

「東ゲート」手前からの「大屋根リング」 ↓

 

「東ゲート」を21時半に出ましたが、目の前に「夢洲駅」が有るにも拘わらず、大量の帰宅者による危険回避のために各国の国旗がはためくポール下を廻る大回りで駅まで進みます。

 

駅に向かう帰宅者の群れ ↓

 

この帰宅者の大群の中で、またしても今度は孫(男の子)君の野球チームメンバーとその家族に遭遇、本日2度目の知り合いに出会い運の良さを喜び合っていました。因みに、この日の万博入場者数は15万8千人でした。

 

約半時間の大行列の末、駅に着いたのは22時過ぎでした。

 

地下鉄に乗り「大阪港」で下車して、そこから高速道路で一路我が家まで送り届けてもらい別れました。

 

行けないつもりだった「万博」に連れて行って貰い、歩行は顎を指で支えながら少し首と腰が痛くなりましたが、何とか歩き切り、或いは椅子で休憩させてもらいながら貴重な体験をすることができたので、背中を押してもらった「息子ファミリー」には感謝!感謝!でした。

 

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