先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。
今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。
「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。
このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。
今回は、「平福陣屋」(兵庫県佐用郡佐用町平福)の「番所」をお届けします。
南北朝時代の1349年に、赤松一族の「別所敦範」が「利神山」(373m)に山城を築き、以来、赤松一族の拠点となりました。「関が原の合戦」後、播磨国領主「池田輝政」の甥「池田由之」が平福領2万3千石の領主となり、「利神山」上に広大な城郭を造営し、山麓にも城主屋敷、武家屋敷を配して城下町の建設に着手しました。
しかし1615年の「一国一城令」で「利神城」が廃城となり、1640年に山崎藩主となった「松平(松井)康映」は、平福村などを「松平(松井)康朗」に分知したので、「康朗」は「平福陣屋」を築きました。ただ、歴代「松平(松井)氏」は旗本として江戸に在勤し、「平福」には代官を置いた代官支配となりました。
一時、「出石藩」の「仙石騒動」に連座して幕府領になりますが、1863年に旧領のうち2500石が「松平(松井)氏」に戻って、幕末・維新まで続きます。
現在は、陣屋跡地に移築された1864年築の「陣屋表門」に「番所」が付随しています。門扉両脇に格子戸を設けて監視の役割を担っていたと思われます。
「陣屋表門」に「番所」が付随 ↓
「陣屋表門」に「番所」が付随 ↓
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