先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。
今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。
「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。
このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。
今回は、「徳島城」(徳島県徳島市)の「番所」をお届けします。「日本100名城」の選定されています。
戦国時代の阿波国は群雄割拠していましたが、「長宗我部元親」によって平定されました。しかし、「豊臣秀吉」による四国平定後は、「蜂須賀家政」が阿波一国を賜り「一宮城」に入りその後に「徳島城」を築城しました。
しかし、「家政」は「石田三成」とは疎遠であったので、「関ケ原の合戦」では、「家政」とその子「至鎮(よししげ)」とは西軍と東軍に別れて戦うことで、家を守ろうとする策にでました。結果、「至鎮」は毛利軍の抑えの役割で実戦には参加しませんでしたが、「家政」は出家して隠居することで、「至鎮(よししげ)」に阿波国17万6000石が安堵されました。
「大坂夏の陣」で手柄を立てた「至鎮(よししげ)」は、淡路国を加増されて25万7000石になり、「徳島城」を近世城郭として整備拡張して幕末まで統治することになりますが、家祖「正勝」以来の血統が7代藩主「宗英(むねひで)」で途切れ、その後8代・9代は高松松平家からの養子、10代は佐竹家からの養子の「重喜(しげよし)」が継ぎました。
「重喜」は、「明和の改革」という藩政改革を断行、淡路国を任せていた「洲本城」城代の「稲田家」の専制を廃するほか、様々な荒業を導入したことから破局を迎えることにもなりました。
「徳島城」の立地と縄張りは「城山」を中心とした平山城で、「寺島川」「助任(すけとう)川」更には「福島川」「新町川」に挟まれた天然の要害に築かれたお城です。
城山部分に「西三の丸」「西二の丸」「本丸」「東二の丸」と続く連郭式のお城になっています。「天守」は、本丸にはなくて、「東二の丸」に「御三階櫓」として建てられ、「西二の丸」には「弓櫓」、「西三の丸」には「帳(とばり)櫓」等が建っていました。麓には「御花畠」「西の丸御殿」「表御殿」「三木郭」が置かれていました。
現在「三木郭」に、表門である「鷲(わし)の門」が1989年に木造復元されていて、その脇には「番所」が単独で続きます。当門と「番所」は戦前まで現存していましたが、太平洋戦争時の1945年に戦災で焼失してしまいました。
屋根は「切妻造り」の「本瓦葺き」、外壁はかなり上部まで「下見板張り」になっています。外側には細い「竪格子」の窓が設けられています。
ただ、「鷲の門」と「番所」更に現在「休憩所」となっている建物全体は、当時の規模より縮小されて再現されていますので、当時はかなり立派な表門であったと思われます。
木造復元された「番所」と「鷲の門」 ↓
木造復元された「番所」と「鷲の門」(奥は現在「休憩所」として使用) ↓
木造復元された「番所」と「鷲の門」 (裏側から)↓
木造復元された「番所」と「鷲の門」(表側から) ↓
幕末〜維新頃の古写真(手前が「鷲の門」「番所」、徳島ヒストリーから) ↓
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