先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。
今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。
「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。
このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。
今回は、「赤穂城」(兵庫県赤穂市上仮屋)の「番所」をお届けします。「日本100名城」に指定されています。
「江戸城」の「松の廊下」で「吉良上野介」に対して刃傷を起こし「忠臣蔵」の原因を作った「浅野内匠頭(長矩)」の祖父「浅野長直」(5万石)が1645年に、「池田家」(3万5千石)の後に赤穂に入封して城づくりを進めて1661年に完成したのが「赤穂城」です。
この時代の新たな築城は非常に珍しいのですが、「長直」は国替えの際に、当時の将軍「徳川家光」から内々に築城許可を得ていたようで、築城に当たり近世軍学を反映した星型に近い曲輪を導入させました。
しかし前述のように、1701年に「長矩」の江戸城に於ける刃傷事件で切腹、「浅野家」はお家断絶となって「赤穂城」は、「脇坂安照」の家中の者が在番となりました。
その後、「永井家」1代、1706年からは「森家」2万石のお城として、幕末・維新まで続きました。
「赤穂城」の立地と縄張りは、現在の「千種川」の三角州の先端の砂州上に築かれ、「甲州流」や「山鹿流」の近世軍学に沿って築かれて星形に似た曲輪で「横矢掛かり」を多用し、輪郭式と梯郭式を併用した「平城」であり「海城」でした。
「本丸」は星形に近い多角形で周囲を石垣と堀で囲われています。「本丸」の南東部に「天守台」が築かれましたが「天守」は置かずに石垣で築かれた本丸城壁には、門が3基、櫓1基を配備する他に隅角には櫓台状の石垣の上に土塀を築いた「横矢桝形」を置いた各所から横矢を掛けるようにしていました。
「二の丸」は、「本丸」を輪郭式に取り囲む曲輪で門3基、櫓5基を置くとともに、円環状の平面である広大な曲輪内を石垣と土塀の仕切によって南北二つに区画して防衛機能を固めていました。また「二の丸」の半分が海に面していたので船着場の雁木等の備えも有りました。
「三の丸」は、「二の丸」北側に配置され海部分を除く曲輪外周には石垣を設けて城下町との区切りとしていました。「大手門」は「三の丸」の北側に設けられ、右折れの「内桝形」で高麗門と櫓門と出桝形形成をしていました。
縄張り絵図(赤丸は下記「番所」の位置、「名城を歩く」PHPより) ↓
現在、上記「大手門」を入ると右折れの桝形となりその先、「隅櫓」の裏下に復興「番所」が建ちます。
屋根は「入母屋造り」の「本瓦葺き」で、正面には庇と縁台が前に出ています。そこ改めが行われたものでしょう。右脇と妻側下にも入口が設けられています。
この前を通って、180度Uターンすると右手に「大石神社」その先には「大石内蔵助邸長屋門」があります。
「隅櫓」の裏下に復興「番所」 ↓
復興「番所」 ↓
復元「大手門」を入って右奥に「番所」 ↓
「隅櫓」の裏下に「番所」 ↓
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