お城や陣屋を構成する「城郭建造物の中に建つ」(全国「城郭内の蔵」を巡るシリーズ)を採り上げてお届けしています。

 

お城(陣屋や代官所含む)には、「天守」「櫓」「御殿(能舞台や茶室等含む)」「門」「番所」の他に、戦闘に使用する武器類、生活を維持していく為のお金等の財産、命を繋ぐ米などの食物類、その他生活に必要な物品等々を保管しておく「蔵」や「納屋」が必ず設けられていました。

 

元々は、そのようなモノを保管しておく「蔵・納屋」が独自に築かれていましたが、江戸時代に入り平和な時代になってくると、戦闘用や監視用として築かれていた「櫓」がその目的から外され、蔵的な利用に切り替えられるお城が多くなりました。(鉄砲櫓、槍櫓、弓櫓、米櫓、塩櫓、麦櫓、干飯櫓、荒和布櫓など)

 

しかし今回は、そのような蔵的利用された「櫓」は割愛して、元々から「蔵・納屋」として築かれ名称も「〇〇蔵、○○庫、○○倉庫」と称する建造物を集めました。

 

このシリーズでは、現存、復元、復興、模擬のモノを紹介していきますが、「蔵」は殆どが現存のモノが多いです。

 

今回は、小諸城」(長野県小諸市)の「城郭内の蔵」をお届けします。「日本100名城」に指定されています。

 

お城の歴史と城主、及び立地と縄張りについては、「城門シリーズ」でも記載していますのでご参照ください。

          ↓

 

城内絵図(赤丸は、下記説明の「武器庫」の位置) ↓

 

城内「本丸」跡内の「酔月橋」を渡る手前に再移築復元された「武器庫」が置かれています。

 

この「武器庫」は、廃藩後に八幡村の民家宅へ移築され、更に東京へ移築されて使用されていましたが、当城内で復元する為に、当時の外観に近づけて再建したモノです。

 

屋根は「切妻造り」の「桟瓦葺き」で、「下見板張り」の上部は「白漆喰」で小さな窓が設けられています。また、木庇が付いた入口が桁側に1カ所あります。

 

再移築後当時の姿に復元された「武器庫」 ↓

再移築後当時の姿に復元された「武器庫」 ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

お城や陣屋を構成する「城郭建造物の中に建つ」(全国「城郭内の蔵」を巡るシリーズ)を採り上げてお届けしています。

 

お城(陣屋や代官所含む)には、「天守」「櫓」「御殿(能舞台や茶室等含む)」「門」「番所」の他に、戦闘に使用する武器類、生活を維持していく為のお金等の財産、命を繋ぐ米などの食物類、その他生活に必要な物品等々を保管しておく「蔵」や「納屋」が必ず設けられていました。

 

元々は、そのようなモノを保管しておく「蔵・納屋」が独自に築かれていましたが、江戸時代に入り平和な時代になってくると、戦闘用や監視用として築かれていた「櫓」がその目的から外され、蔵的な利用に切り替えられるお城が多くなりました。(鉄砲櫓、槍櫓、弓櫓、米櫓、塩櫓、麦櫓、干飯櫓、荒和布櫓など)

 

しかし今回は、そのような蔵的利用された「櫓」は割愛して、元々から「蔵・納屋」として築かれ名称も「〇〇蔵、○○庫、○○倉庫」と称する建造物を集めました。

 

このシリーズでは、現存、復元、復興、模擬のモノを紹介していきますが、「蔵」は殆どが現存のモノが多いです。

 

今回は、古河城」(茨城県古河市中央町)の「城郭内の蔵」をお届けします。

 

鎌倉公方「足利成氏」が城として整備を行いますが、その後、小田原の「後北条氏」が滅亡し、「徳川家康」の関東入部にともない譜代大名「小笠原氏」が入城してお城の再建を行います。

 

その後は「(戸田)松平家」「小笠原家」「奥平家」「永井家」「土井家」「堀田家」「(藤井)松平家」「(大河内)松田家」「本多家」「(松井)松平家」「土井家」と11家が入れ替わり立ち替わり在城し、1762年から「土井家」が定着して幕末・維新まで統治します。その間、多くの幕閣(大老、老中など)を輩出しました。

 

古河城」の立地と縄張りですが、西側は「渡良瀬川」が接し、残りの三方を水堀に囲まれた曲輪群で構成されていました。

 

直線状に配置された「連郭式縄張」で、北から順に「観音寺曲輪」「桜町曲輪」「三の丸」「二の丸(西側)「本丸(東側)」「頼政曲輪」「立崎曲輪」が縦に並び、「桜町曲輪」東側の「百間堀」の先には出城的な「諏訪曲輪」設けられていました。

 

現在「本丸」「二の丸」跡などの主要部分は、「渡良瀬川改修事業」の際に堤防・河川敷となってしまいました。

 

「縄張図」(ウイキペディアより参照) ↓

 

このように城跡の痕跡が殆ど残されていない中で、門と蔵が移築現存しています。門は「門シリーズ」で投稿しましたので

本日は「文庫蔵」が移築現存されている「坂長本店店蔵」、「乾蔵」が移築現存されている「坂長本店袖蔵」を紹介します。

「坂長本店」は江戸時代に、「両替商」から「酒問屋」を営んでいたお店です。

 

「文庫蔵」の方は、屋根が「切妻造り」の「桟瓦葺き」、土蔵造2階建の店舗で、1階正面に「土庇」が付いていますがこれは移築後付けられたものではないかと思います。2階の外壁には大きな「窓扉」が桁側・妻側ともに2箇所付いています。

 

「乾蔵」の方も、屋根が「切妻造り」の「桟瓦葺き」、土蔵造2階建ての蔵で、白漆喰の2階の「妻側」にだけ「窓扉」が付いています。

 

下記の写真ですが、紙焼きの写真しか残ってなく、それをデジカメで撮った写真ですので、少し見にくくなっています。

 

「文庫蔵」が移築現存されている「坂長本店店蔵」 ↓

「乾蔵」が移築現存されている「坂長本店袖蔵」 ↓

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

一昨日から、お城や陣屋を構成する「城郭建造物の中に建つ」(全国「城郭内の蔵」を巡るシリーズ)を採り上げてお届けしています。

 

お城(陣屋や代官所含む)には、「天守」「櫓」「御殿(能舞台や茶室等含む)」「門」「番所」の他に、戦闘に使用する武器類、生活を維持していく為のお金等の財産、命を繋ぐ米などの食物類、その他生活に必要な物品等々を保管しておく「蔵」や「納屋」が必ず設けられていました。

 

元々は、そのようなモノを保管しておく「蔵・納屋」が独自に築かれていましたが、江戸時代に入り平和な時代になってくると、戦闘用や監視用として築かれていた「櫓」がその目的から外され、蔵的な利用に切り替えられるお城が多くなりました。(鉄砲櫓、槍櫓、弓櫓、米櫓、塩櫓、麦櫓、干飯櫓、荒和布櫓など)

 

しかし今回は、そのような蔵的利用された「櫓」は割愛して、元々から「蔵・納屋」として築かれ名称も「〇〇蔵、○○庫、○○倉庫」と称する建造物を集めました。

 

このシリーズでは、現存、復元、復興、模擬のモノを紹介していきますが、「蔵」は殆どが現存のモノが多いです。

 

今回は、盛岡城」(岩手県盛岡市内丸)の「城郭内の蔵」をお届けします。「日本100名城」の選定されています。

 

「豊臣秀吉」小田原遠征による天下統一の少し前、「南部信直」が豊臣政権に巧く取り入ったことから、東北地方の北東部分を抑えることができました。

 

更に、「大浦家」が統治していた「津軽」をも手に入れようと「秀吉」に望んだのですが、「弘前城」の「大浦家」は小田原に参戦していて領地を安堵されていたので、「南部家」の望みがかなえられなかったようです。息子の「南部利直」は、「秀吉」の寵臣であった「蒲生氏郷」の養女を妻にして、一層豊臣政権に近づき、「盛岡城」はこの頃から修築を始め居城としました。

 

「関ケ原の合戦」では、「利直」は徳川方について、「上杉景勝」を攻めるべく山形に出陣しました。このことで、本領を安堵されるようになります。「盛岡城」は、この後も修築を進め1633年に完成し、「南部家」は幕末・維新まで続きます。

 

盛岡城」の立地と縄張りですが、当地は石材となる花崗岩が産出する丘陵地に造られたことから、石が豊富にあり東北地方では珍しい石垣造りのお城となっています。

 

西側に流れる「北上川」に沿って、「本丸」「腰曲輪」から「二の丸」「三の丸」にかけての面は長大な石垣が続き、特に「二の丸」西面の高石垣は立派で、積み方も「打込接」でありますが、殆ど隙間もなく「切込接」に近い積み方になっています。

 

「本丸」-「二の丸」-「三の丸」が縦に並ぶ「連郭式」の曲輪で、「本丸」は約70m四方の小さな形でしたが、南東角には三層で屋根が赤瓦で葺かれた「天守」が築かれ、北西角と南西角には二重櫓(納戸櫓、二階櫓)が置かれました。

 

縄張り絵図(赤丸は下記「彦御蔵」が建つ位置、絵図は城内に掲出) ↓

 

城内の「本丸」跡下に設けられた「腰曲輪」跡内の米内蔵跡に、城内唯一の城郭建造物「彦御蔵」が移築されています。

 

屋根は「切妻造り」で野地板に土塗りでその上に木造屋根組の二重という構造になっています。一重ですが土蔵造り内部は二階建て、外壁は白漆喰で塗籠められています。

 

妻側には庇付きの銅製の「窓」が四カ所あり、桁側は庇はないですが銅製「窓」が2箇所あります。

 

米内蔵跡に移築されている「彦御蔵」 ↓

米内蔵跡に移築されている「彦御蔵」 ↓

米内蔵跡に移築されている「彦御蔵」 (独特な屋根構造) ↓

 

また、城下にある1638年創業の小間物屋で、現在は文具事務・オフィス用品を扱う「木津屋本店」の土蔵群には、「盛岡城」から移築された「蔵」があるということですが、どれがその蔵なのかが判りませんでした。

 

「盛岡城」から移築された「蔵」があるという「木津屋本店」の土蔵群 ↓

「盛岡城」から移築された「蔵」があるという「木津屋本店」の土蔵群 ↓

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

お城や陣屋を構成する「城郭建造物の中に建つ」(全国「城郭内の蔵」を巡るシリーズ)を採り上げてお届けしていきます。

 

お城(陣屋や代官所含む)には、「天守」「櫓」「御殿(能舞台や茶室等含む)」「門」「番所」の他に、戦闘に使用する武器類、生活を維持していく為のお金等の財産、命を繋ぐ米などの食物類、その他生活に必要な物品等々を保管しておく「蔵」や「納屋」が必ず設けられていました。

 

元々は、そのようなモノを保管しておく「蔵・納屋」が独自に築かれていましたが、江戸時代に入り平和な時代になってくると、戦闘用や監視用として築かれていた「櫓」がその目的から外され、蔵的な利用に切り替えられるお城が多くなりました。(鉄砲櫓、槍櫓、弓櫓、米櫓、塩櫓、麦櫓、干飯櫓、荒和布櫓など)

 

しかし今回は、そのような蔵的利用された「櫓」は割愛して、元々から「蔵・納屋」として築かれ名称も「〇〇蔵、○○庫、○○倉庫」と称する建造物を集めました。

 

このシリーズでは、現存、復元、復興、模擬のモノを紹介していきますが、「蔵」は殆どが現存のモノが多いです。

 

今回は、五稜郭」(北海道函館市五稜郭町)の「城郭内の蔵」をお届けします。「日本100名城」の選定されています。

 

箱館には、1854年の日米和親条約の締結に基づく箱館開港に伴い、箱館奉行所を置きます。その後、増強の必要性が起こり老中「阿部正弘」等の幕閣によって「五稜郭」の建設が決定し、「武田斐三郎」が設計を行い、1864年には竣工して奉行所を五稜郭内に移転して業務を開始し1866年に全ての工事が完成しました。

 

しかし1867年に大政奉還が行われ、1868年4月に新政府によって「箱館府」が置かれ、引続き政庁として使用されます。

 

その後、1868年10月に「榎本武揚」が率いる旧幕府軍が蝦夷地に上陸すると、箱館府の「清水谷知事」は逃走したので旧幕府軍が「五稜郭」を占領しました。しかし、新政府軍の侵攻で「松前藩」の「松前城」は新政府軍の拠点となったことで、「五稜郭」内の「箱館奉行所」も新政府軍が駐屯し「箱館府」を置きました。

 

新政府軍方に付いた「松前城」攻めを、「土方」軍が砲撃を繰り返しながら搦手門から入り落城させ、更に1869年10月には「五稜郭」へ「大鳥圭介」と「土方歳三」率いる旧幕府軍の箱館進撃によって、新政府軍は「五稜郭」を放棄して旧幕府軍は「無血入城」を果たします。そして「無血入城」を果たした旧幕府軍は、「榎本武揚」を総裁とする「蝦夷共和国」を立国します。

 

しかしながらその後、新政府軍が本土から4~5隻の軍艦に大軍を乗せて次々と上陸させて、旧幕府軍の防衛線を突破して、ついに1869年5月に新政府軍は降伏を勧告したことから、「榎本武揚」はそれを呑み、「五稜郭」を明け渡しました。 

 

五稜郭」の立地と縄張りは、「佐久間象山」の下で西洋兵学や砲学を学んでいて大洲藩の蘭学者「武田斐三郎」に築城させて、「西洋式稜堡」の城情報を採りいれ、砲撃戦に備えた縄張りを導入しました。

 

それは、五角形(星形)にすることで、側面攻撃(横矢を掛ける)ことができるメリットがあり、更には五角形(星形)の窪みの所から三角形の「半月堡」を設けることで、一層の側面攻撃が可能でした。

 

こういうことで、当初計画では星形の窪みの所の5か所には「半月堡」を設ける予定でしたが、南西側の「大手口」に「半月堡」を築いただけで、財政的に厳しい状況下にあった幕府はその他4か所については未完成のままでした。

 

しかし「五稜郭」全体を水堀や石垣と土塁によって囲い込むことで、強固の防衛線を築き、1か所しか造らなかった三角形の「半月堡」は、和洋式のお城の「馬出し」にも相当し、空堀と水堀で周囲を取り囲んでいます。

 

「五稜郭縄張り絵図」(赤丸は、下記説明の「蔵」の位置) ↓

「五稜郭タワー」から見下ろした「五稜郭」 ↓

 

以上の様な近代西洋式城郭の「五稜郭」内の建造物は取り壊されましたが、2010年に木造で「箱館奉行所」が復元されています。

 

復元「箱館奉行所」 ↓

 

その中で、唯一現存の建造物が「兵糧庫」1棟が、解体を免れて建っています。

 

「切妻屋根」の「桟瓦葺き」で外壁は「白漆喰」、桁側には瓦庇が設けられています。また屋根と下部建屋との間は通風を良くするためのものでしょうか隙間が空いています。

 

内部は、木造ですので木が剥き出しのまま貼り付けられているのが判ります。そして小屋組みの天井となっています。

 

唯一現存の「兵糧庫」 ↓

唯一現存の「兵糧庫」 ↓

唯一現存の「兵糧庫」(一番手前) ↓

唯一現存の「兵糧庫」(通風用隙間) ↓

唯一現存の「兵糧庫」の「小屋組み天井」 ↓

唯一現存の「兵糧庫」内部 ↓

唯一現存の「兵糧庫」の内部 ↓

現存「兵糧庫」に続いて建てられた摸擬「蔵」(飲食店等に使用) ↓

 

敷地内にはもう一棟の蔵が見られ、復元「函館奉行所」の北側に再建された板で貼られた「板蔵」が建ちます。

 

復興「板蔵」 ↓

復興「板蔵」 ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

本日からは、お城や陣屋を構成する「城郭建造物の中に建つ」(全国「城郭内の蔵」を巡るシリーズ)を採り上げてお届けしたいと思います。

 

お城(陣屋や代官所含む)には、「天守」「櫓」「御殿(能舞台や茶室等含む)」「門」「番所」の他に、戦闘に使用する武器類、生活を維持していく為のお金等の財産、命を繋ぐ米などの食物類、その他生活に必要な物品等々を保管しておく「蔵」や「納屋」が必ず設けられていました。

 

元々は、そのようなモノを保管しておく「蔵・納屋」が独自に築かれていましたが、江戸時代に入り平和な時代になってくると、戦闘用や監視用として築かれていた「櫓」がその目的から外され、蔵的な利用に切り替えられるお城が多くなりました。(鉄砲櫓、槍櫓、弓櫓、米櫓、塩櫓、麦櫓、干飯櫓、荒和布櫓など)

 

しかし今回は、そのような蔵的利用された「櫓」は割愛して、元々から「蔵・納屋」として築かれ名称も「〇〇蔵、○○庫、○○倉庫」と称する建造物を集めました。

 

このシリーズでは、現存、復元、復興、模擬のモノを紹介していきますが、「蔵」は殆どが現存のモノが多いです。

 

次回からは、北から南にあるお城の「蔵」を順次紹介していきます。

 

以下には、今まで紹介してきた各種「城郭建造物」ですので、またご参考にご覧ください。

天守 ↓

御殿(茶室、能舞台、御亭などを含む) ↓

三重櫓 ↓

二重櫓 ↓

「一重櫓(平櫓)」 ↓

「櫓門」 ↓

「城門」 ↓

「番所」 ↓

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「鹿児島城(鶴丸城)」(鹿児島県鹿児島市)の「番所」をお届けします。「日本100名城」に選定されています。

 

「島津家」は、戦国大名としての地位を築き九州統一に向けて、北九州の「大友家」と「龍造寺家」を破りましたが、「秀吉」の大軍に大敗して降伏しました。その結果、「島津義弘・家久(※忠恒)」親子が豊臣政権で働くこととなり、朝鮮出兵でも活躍しました。   ※「家久」は「貴久」の四男にもいる

 

「関ケ原の合戦」では西軍に参加したものの、戦後「家久」は、「義弘」が勝手に西軍に参加したと主張したことから、幕府も大軍を擁する「島津家」との対決を回避する為に、領土を安堵したようです。

 

その後、幕府は「島津家」に対して警戒を続ける一方で、「島津家」も石高72万石の大大名にも拘らず目立った動きをしないようにしました。特に居城である「鹿児島城(鶴丸城)」は、天守は勿論のこと重層櫓も建てることを抑えて居館だけのお城に徹しました。

 

しかし、江戸時代中期頃からは、将軍家に接近する方向を採り、五代藩主「島津継豊」の妻に五代将軍「徳川綱吉」の養女を迎え、その後も八代藩主「重豪(しげひで)」の娘が、十一代将軍「家斉」の妻となります。また、幕末には、十二代藩主「斉彬」の養女「篤姫」が十三代将軍「家定」の妻に迎えられ、幕政に意見を言えるだけの地位を築くに至りました。

  

鹿児島城」の立地と縄張りですが、標高107mの城山(中世の上山<うえやま>城跡があった)の麓の平地に築かれた「居館」で、まるで鶴が翼を広げた形に似ていることから「鶴丸城」と呼ばれました。

 

中世以来の館造りを踏襲した城は、華麗な御殿建築のみで構成され、「天守」や重層「櫓」は存在しませんでした。

 

「本丸」と「二の丸」の二曲輪で構成され南北750m・東西200mの規模で、お城の東側に一族や重臣の屋敷と役所群が置かれました。1696年には「本丸」と「二の丸」の一部が焼失して、1704年には再建されました。

 

縄張り絵図(本丸と二の丸、赤丸は下記説明の「御楼門」付随の「番所」位置) ↓

 

「番所」が見られるのは「御楼門」に接続しています。当門は2020年に復元された櫓門で非常に立派な造りです。

 

その門扉右側に「入母屋屋根」で「本瓦葺き」の出張り部分に「竪格子」窓をが備わった「番所」となっています。

 

「御楼門」に付随の「番所」 ↓

「御楼門」に付随の「番所」 ↓

「御楼門」内に付随の「番所」内側 ↓

「御楼門」と「番所」 ↓

「御楼門」(裏側から)と「番所」(左) ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「熊本城」(熊本県熊本市中央区本丸)の「番所」をお届けします。「日本100名城」に選定されています。

 

1607年に「加藤清正」が最先端技術を導入して築城しました。しかし1632年に「清正」の子「忠弘」が改易され、その後に54万石で「熊本城」に入城したのが「細川忠興」です。既に「熊本城」は、「加藤清正」によって現状に近い状態に築城されていたようです。「細川家」は、その後幕末・維新まで統治しました。

 

「熊本城」の立地と縄張りは、「茶臼山」と呼ばれる台地上に戦国最強の縄張りと言われ、精緻を極めたモノでした。

お城は、一つ一つの曲輪が大きくてそれぞれに天守の代わりになるような巨大な櫓が建っていました。更にその周りには多聞櫓や土塀がぐるりと囲んでいたので、それらが一つのお城のような役割を果たしていました。

 

「熊本城」には「七つの天守」が存在すると言われ「天守」「小天守」「御裏五階櫓」が建つ「本丸」を頂点に、「宇土櫓」が建つ「平左衛門丸」、「数寄屋丸五階櫓」が建つ「数寄屋丸」、「飯田丸五階櫓」が建つ「飯田丸」、「竹の丸五階櫓」が建つ「東竹の丸」が南側にかけて段々と下がっていきます。

 

更にその下には「竹の丸」が広がり「坪井川」を天然の「堀」替わりとしています。そして以上の敷地全体の西側には堀を設け大きな面積の「西出丸」「奉行丸」が構えています。

 

更に、堀を設けた西側には「二の丸」「三の丸」と城下が広がり武家屋敷を配してお城の守りとしています。

 

「番所」があるのは、「東竹の丸」の北端に建つ重文「不開門」(震災で現在未修理)を出た所にある重文「御平櫓」(こちらも震災で現在未修理)に付随する「櫓番詰所」です。「不開門」側から見ると「庇」が延びているのが確認できます。

 

重文「御平櫓」に付随する「櫓番詰所」(震災前の写真) ↓

重文「御平櫓」に付随する「櫓番詰所」(左側、震災前の写真) ↓

こちらは「不開門」でこの先に「御平櫓」が建つ(震災前の写真) ↓

 

もう一カ所は、「竹の丸」西端に建つ復元「櫨方(はぜかた)門」に付随して「番屋」が設けられていました。います。震災前は、当門に発券所があってここから入城ができましたが、現在は修理中の為に使用されていないようです。

 

復元「櫨方門」に「番屋」が付随(震災前の写真) ↓

復元「櫨方門」に「番屋」が付随(震災前の写真) ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「鹿島陣屋」(佐賀県鹿島市高津原城内)の「番所」をお届けします。

 

1610年に当時の藩主「鍋島勝茂」の弟である「忠茂」に2万5千石を分与して、「鹿島藩」が立藩しました。当初は「常広(つねひろ)城」(鹿島市)を与えられて居住していましたが、1807年に9代「直彜(なおのり)」の時に水害に悩まされていたことから、「鹿島陣屋」(佐賀県鹿島市)を構えてそこに移ります。石高は2万石を越えるものの、「城持ち大名」ではなかったので、居城は「陣屋」しか造ることができませんでした。

 

鹿島陣屋」の立地と縄張りは、「本丸」「二の丸」「三の丸」で構成され、周囲は石垣や土塁、堀などで囲まれ、更には武家屋敷が周囲を取り巻くことで「外郭」に相当する曲輪となっていましたので、お城と呼ぶに相応しいものでありました。門は、「大手門」「搦手門」「東門」「西門」で守護されていました。

 

現在「鹿島高校」の門となっている「赤門」の「本丸表門」向かって右側には「多門」が連結していますが、その表側には「番所」だったと思われる瓦屋根で出張り部分に朱色の「格子窓」を備えた建造物が付随しています。

 

当陣屋にはもう一つ現存の赤門「大手門」も建ちます。

 

「本丸表門」向かって右側の「多門」内に「番所」が付随 ↓

「本丸表門」左側の「多門」内に「番所」が付随(裏側から) ↓

「本丸表門」左側の「多門」内に「番所」が付随(裏側から) ↓

もう一つの赤門「大手門」 ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「佐賀城」(佐賀県佐賀市城内)の「番所」をお届けします。「日本100名城」に選定されています。

 

「鍋島家」は、九州を「島津家」と「大友家」と共に三分していた「龍造寺家」の家老を務めていましたが、「龍造寺家」の後継ぎが暗寓であったので「直茂」は「龍造寺家」一門から領国政治の委任を受けるという変則的な形となりました。そして、「直茂」は、「豊臣秀吉」のフォローで「島津家」を追い払う策をとります。

 

その後、「秀吉」は「直茂」の軍才能を高く評価し、朝鮮出兵でも「龍造寺家」に代わって活躍したことから、出兵後の肥前国は「鍋島家」に任せられ豊臣政権の一躍を担うことになります。 

 

「関ケ原の合戦」では、「直茂」自身は、「徳川家康」と「石田三成」両方を天秤にかけて連絡をとりあいながら、息子「勝茂」には西軍に参加させますが、「家康」が素早く優位に進撃しているという情報を得て、東軍へ鞍替えして西軍の拠点であった「立花宗茂」の「柳川城」を攻めました。その結果、本領を安堵されましたので、「家康」に恭順の意を示すために、「勝茂」の弟を江戸に人質として置くことで幕府から好感を得ました。

 

「龍造寺家」を主家として立てることを幕府に申告しましたが、「龍造寺家」を継ぐ者が相次いで亡くなったことから、「勝茂」がその家督を継ぐことを幕府から承認され、その後は幕末まで「鍋島家」がこの地を治めることとなります。

 

佐賀城」の立地と縄張りは、「本丸」と「二の丸」を「三の丸」や「西の丸」が「梯郭式」に取込む縄張りで、広大な水堀で囲う「平城」です。「三の丸」は「本丸・二の丸」から堀を隔てて西側に位置し、更にその西側には「西の丸」が置かれました。「三の丸」「西の丸」の北側には重臣屋敷が拡がっていました。

 

縄張り図(赤丸は下記説明の「番所」位置、図はPHP「名城を歩く」から) ↓

ありし日の本丸絵(赤丸は下記説明の「番所」位置、図はPHP「名城を歩く」から) ↓

 

重文「鯱の門」の内側に門から繋がった状態の小さな「番所」が設けられています。

 

屋根は「切妻造り」で「本瓦葺き」、「下見板張り」で「真壁造り」の外壁です。門側には「下見板張り」の上1/3くらいの「竪格子窓」が備わっています。

 

また「鯱の門」の内側には「門番」の控室があるようで、表側は「竪格子窓」を設けて内側は格子戸の引きドアが見えます。

 

重文「鯱の門」の内側に門から繋がった状態の小さな「番所」 ↓

重文「鯱の門」の内側に繋がった状態の小さな「番所」 ↓

重文「鯱の門」の内側に繋がった状態の小さな「番所」 ↓

重文「鯱の門」の内側に繋がった状態の小さな「番所」 ↓

重文「鯱の門」の内側に繋がった状態の小さな「番所」 ↓

重文「鯱の門」正面の門扉両側にも「竪格子窓」が見える ↓

重文「鯱の門」の門扉両側には「門番」の控室か? ↓

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「秋月陣屋」(福岡県朝倉市秋月野島)の「番所」をお届けします。

 

1203年に「秋月種雄」が築いた「古処山(こしょざん)城」の山麓にあった「秋月氏」の居館跡を利用して1624年に「黒田長興」(黒田長政と栄姫の次男)によって陣屋が築かれました。築城の際には、「古処山城」の廃材等も利用して建てられたそうです。

 

5万石を「福岡藩」から分与されて立藩した「秋月藩」の「長興」以降、幕末・維新まで代々「黒田家」が統治しました。

 

「秋月陣屋」の立地と縄張りですが、一本筋に掘られた堀と石垣を築き「二重櫓」や「平櫓」を5基も建ち並んでいました。

 

二つ目の櫓と三つ目の櫓の間には、瓦を並べた「瓦坂」があり枡形構造で右に折れて「表御門」で城内に入るようになっていました。更に五つ目の「櫓」手前にも土橋があって「裏門」に繋がっていました。

 

城内は、上段と下段に分かれていて、北側の低い下段には「表御殿」が、南側の段の高い所には藩主の休息場や奥方の部屋等の「奥御殿」が建っていて、「御鈴廊下」によって繋がっていました。

 

縄張り図(赤丸は下記「番所」が付随する裏門の位置) ↓

 

現在「内馬場裏御門」が現存していますが、長屋門なので門扉両脇には「番所」のスペースや「中間部屋」が設けられているようです。

 

現存「内馬場裏御門」右側の竪格子窓の所が「番所」スペースか? ↓

現存「内馬場裏御門」 ↓

現存「内馬場裏御門」裏側 ↓

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村