先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「柏原(かいばら)陣屋」(兵庫県丹波市柏原町)の「番所」をお届けします。

 

「柏原」の地には「織田信長」の弟「信包(のぶかね)」が入っていましたが、1598年に嗣子なく断絶となり、その後暫く「天領」となっていたところ、1695年に「信長」の次男「織田信雄(のぶかつ)」系統の孫「信休(のぶやす)」が「大和松山城」城主でしたが、お家騒動で領地を2万石に半減され、左遷先としてこの地に陣屋を築いて入りました。その後は、この系統の「織田家」が幕末・維新まで統治します

 

現存で国指定史跡である「陣屋御殿」前には、長大な「長屋門」型式の「表門」が建ちます。

 

この「表門」の北側に土間と共に「番所」が付随していて表には「板庇」が覆う「格子出窓」が付きます。南側は「馬見所」「砲庫」となっていてほぼ原形を保っているそうです。

 

「表門」の北側(左側)に「番所」が付随 ↓

「表門」の北側(左側)に「番所」が付随 ↓

「表門」の北側(左側)に「番所」が付随 ↓

「表門」の南側は「馬見所」「砲庫」が入る ↓

 

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「麻田陣屋」(大阪府豊中市)の「番所」をお届けします。

 

藩主だった「青木家」は、美濃国守護大名「土岐家」の家臣でしたが、その後「斎藤家」「織田信長」に仕えました。「信長」が「本能寺の変」で亡くなった後は、「豊臣秀吉」に仕えましたが、「関ケ原の合戦」では東軍に付き、「大坂の陣」では、「青木一重」は豊臣方に頼まれて「徳川家康」との和議の使者を行っています。

 

「青木家」は、1615年に麻田に陣屋を構え、外様大名ながらもその後は当地を幕末・維新まで統治します。

 

「麻田陣屋」の縄張りは、単郭で「陣屋」全体の出入口は規模の大きな「北門」と「南門」の二か所が置かれていました。また、北、東、南の周囲には「堀」によって囲われていました。

 

「陣屋」内部の中心には藩主の住居である「御殿」と庭園が置かれ、その北側に政務を行う「会議所」、その他に「道場」「弓稽古場」が土塀の中に囲われています。

 

「北門」と「南門」を結ぶメイン道路の東側には「青木別邸」との記載があり「火の見櫓」のような櫓も建っていました。また、その道路沿いには重臣たちの屋敷が描かれ、「長屋門」や「棟門」等が並んでいます。

 

「摂州麻田藩御陣屋絵図 トレース図」(現地配布資料より、左が北) ↓

 

「城門」の所でも触れましたが、移築門等が周辺に多く現存しています。その中で、本日は民家「U邸」(豊中市刀根山元町)の長屋門に付随している「番所」を紹介します。

 

普通の「長屋門」ではなく、「門扉」の東側に「入母屋屋根」で「本瓦葺き」の「番所」が出張っていてその三方には「出格子窓」が付いていますので、監視の目が行き届く構造になっています。

 

民家「U邸」の長屋門に付随している「番所」 ↓

民家「U邸」の長屋門に付随している「番所」 ↓

民家「U邸」の長屋門に付随している「番所」 ↓

民家「U邸」の「長屋門門扉」西側は「控室」か? ↓

 

 

 

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「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

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今回は、「狭山陣屋」(大阪府大阪狭山市狭山)の「番所」をお届けします。

 

「豊臣秀吉」による「小田原攻め」によって、「後北条家」4代の「北条氏政」は切腹、5代目の「氏直」とその叔父である「氏規」が高野山に蟄居になりました。

 

翌年に蟄居から許された「氏直」は1万石が与えられたものの亡くなり、「氏規」が跡を継いで河内国に7千石が与えられます。その後「氏規」の嗣子「氏盛」が、自領の4千石と併せて1万石越えとなり大名に復活できて、居所を日本で最古の「ため池」である「狭山池」の畔に「狭山陣屋」を築きました。

 

「狭山陣屋」の立地と縄張りは、「狭山池」の近い場所に、三代藩主の時に周囲より少し高い丘上に「上屋敷」を設け、「本丸」として「御殿」を設けました。「御殿」周囲には比較的敷地面積の大きな重臣の居宅が置かれたようです。そして西側には、三つの池を並べて堀替わりとしました。

 

また五代藩主の時には、陣屋の増設が行われ、「上屋敷」の南側で「狭山池」の東側に「下屋敷」を設けて、こちらにも藩主別邸としての「御殿」が置かれるとともに、中央には「馬場」が、南東端には「鉄砲製造所」や「硝煙蔵」が置かれていたようです。

 

上屋敷略図(現地に掲出) ↓

下屋敷略図(現地に掲出) ↓

 

 

 

この陣屋にあった「陣屋大手門」が現在「本願寺堺別院 表門」(堺市堺区神明町東)に移築されているお話は「城門」の所でもお話をしましたが、その「表門」両脇には瓦庇付の「出格子窓」が付いた「番所」が付随していたようです。

 

「本願寺堺別院 表門」に移築された「陣屋大手門」に付随している「番所」 ↓

「本願寺堺別院 表門」に移築された「陣屋大手門」に付随している「番所」 ↓

 

 

 

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「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

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今回は、「岸和田城」(大阪府岸和田市)の「番所」をお届けします。「続日本100名城」に指定されています。

 

「岸和田」は、且つて城館だけの「岸和田家」の「岸和田古城」があり、「三好長慶」の支配下になると「松浦家」が城主となります。

 

その後「織田家」の支配下を経て、「羽柴秀吉」による根来寺と雑賀衆攻めの最前線として「中村一氏」が入城します。そして「秀吉」全国統一後は「小出秀政」が入って本格的な近世城郭へ改修していき、その中で五重天守も建築されます。

 

「小出家」の後に入った「松平康重」は城下町の沿岸部に石垣を築くなどの城下町整備を行います。1640年に「松平家」の後を継いだのが「岡部宣勝(のぶかつ)」で、幕府に対する異心があると言われた「徳川頼宜」の「紀州藩」を監視する目的でお城も大規模な改修が行われています。

 

その後は幕末・維新まで「岡部家」が代々続きますが、1827年まで存在していた五重天守は落雷で焼失してしまいます。

 

岸和田城」の立地と縄張りは、海に近い平地に堀を設けた中に「本丸」と「二の丸」が並列に並び、その周囲を「三の丸」が囲い、海側には城下と紀州街道を取り込んだ「町曲輪」を設けています。「町曲輪」の南北の入口には「北大手門」「西大手門」を築いて城内への監視に備えています。

 

上の縄張り絵図では、「二の丸」から「本丸」に入る虎口に「土橋」を渡った所に「櫓門」が見え、現在は復興「本丸表門」が建っていますが、その内側には「番所」と思われるスペースが設けられています。

 

障子窓の様に見えますが、以前はここが「天守」が建つ「本丸」の入口発券所になっていたのかもしれません。

 

復興「本丸表門」の内側には「番所」と思われるスペース ↓

復興「本丸表門」の内側には「番所」と思われるスペース(「本丸」側から) ↓

復興「本丸表門」(「本丸」側から) ↓

復興「本丸表門」(「二の丸」側から) ↓

 

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

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今回は、「福知山城」(京都府福知山市内記)の「番所」をお届けします。「続100日本名城」に選定されています。

 

前身は、室町時代に「塩見頼勝」が築いた「横山城」でしたが、明智光秀」が「塩見家」を攻めて当城を手に入れ、その後お城を拡張して「福知山城」と改称しました。

 

平定後は、「光秀」の娘婿である「明智秀満」等が入城しましたが、「関ケ原の合戦」後は「有馬豊氏」が城主となり、ほぼ現在のような縄張りと建造物配置がなされたようです。

 

その後、「岡部家」「稲葉家」と替わりますが、「稲葉紀通」の時には領民への重税や殺害、隣の城主だった「京極家」にも争いを仕掛けるなど大変な悪政をしたことから改易となります。そして「京極家」「松平家」と城主が替わりましたが、1669年に「朽木稙昌(くつきたねまさ)」が入城した後は、幕末・維新まで「朽木家」が統治します。

 

福知山城」の立地と縄張りですが、東側に流れる「由良川」や「土師川」の自然要害を背に小高い丘の上に「本丸」を置き、西側に向けて「二の丸」「三の丸(伯耆丸)」「内記丸」を配置する「連郭式平山城」になっています。

 

また、その北側に配置された「左門丸」には「対面所」が、それに続いて「中門」「大手門」が配備され、城下町は北側に拡がっていました。

 

城下今昔地図(赤丸は、元の「番所」位置から移築先の現在位置、下が北方向) ↓

 

「本丸」西側には、「二の丸」北西に建っていた「銅門(あかがねもん)番所」が移築されていて、「本丸」跡に復元された「天守群」と共に、お城の様相を見応えある姿に寄与しています。

 

元々は「銅門」脇に置かれていた「番所」でしたが、1916年に「天守台」上に移築され、さらに1985年に「天守・小天守」の復元に伴い、「本丸」跡西側に移築されました。

 

真ん中に取調室を置き、両端は東側に向けて出っ張った部屋を設けていますので、平面では「コ」の字型になっています。

屋根は出張った部分が「入母屋造り」で「本瓦葺き」、外壁は柱が見える「真壁造り」になっています。

 

また「伯耆丸」跡から望んだ写真は、正面に「銅門番所」の左右対称の美しい姿を見ることが出来ます。

 

「本丸」西端に移築された「銅門番所」 ↓

「本丸」西端に移築された「銅門番所」 ↓

「本丸」西端に移築された「銅門番所」 ↓

「本丸」西端に移築された「銅門番所」(「大天守」から見下ろす) ↓

「本丸」西端に移築された「銅門番所」(「二の丸」から見上げる) ↓

「本丸」西端に移築された「銅門番所」と「天守群」(「伯耆丸」から望む) ↓

「銅門」跡(この脇に「銅門番所」があった) ↓

 

 

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今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

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今回は、「丹波亀山(亀岡)城」(京都府亀岡市荒塚町)の「番所」をお届けします。

 

「亀山城」は、1578年に「織田信長」が丹波攻略をする為に、「明智光秀」に築城させたのが最初です。本能寺の変で「信長」が打たれた後は、「豊臣秀吉」の配下の一門や五代奉行になった「前田玄以」が入城しました。

 

「関ケ原の合戦」時は、「前田玄以」が西軍でしたが東軍に西軍情報を流していたことから、「徳川家康」からは「丹波」の領地を安堵されます。

 

その後、「大坂城」に居城していた「豊臣秀頼」を北から包囲・監視する目的の為に、「徳川家康」は天下普請で築城するよう「藤堂高虎」に縄張りを命じます。「高虎」によって近世城郭化された当城には、譜代大名の「岡部家」が入城します。

 

その後は、「大給松平家」「菅沼家」「藤井松平家」「久世家」「井上家」「青山家」と短期間の間に入れ替わり立ち替わり城主が替わり、1749年に「形原松平家」が入ってようやく城主が定着し、幕末・維新まで統治します。

 

丹波亀山城」の立地と縄張りは、「本丸」が高石垣で守られ、更に「藤堂高虎」好みの周囲を「多聞櫓」で取り巻く手法で、本丸の「北」から「西」、「南」にかけて配備しました。

 

更に「本丸」は上段と下段に別れていて、上段には「天守」を始め「本丸御殿」の「大書院」「広間」や「奥御殿」が敷地一杯に建てられ、周囲に「月見櫓」や「杉櫓」等が置かれました。 

 

縄張り図 ↓

 

現在「千代川小学校」(亀岡市千代川町)に移築されている長屋門の「新御殿門」には、門脇に「番所」が付随しています。

 

外部から見ると、板庇の下に「出格子窓」が設けられ、内側からは引戸の扉と格子窓が見えますが、この引戸は後世にこれに改変されたのかもしれません。

 

「千代川小学校」に移築されている「新御殿門」に「番所」が付随 ↓

「千代川小学校」に移築されている「新御殿門」に「番所」が付随 ↓

「千代川小学校」に移築されている「新御殿門」に「番所」が付随 ↓

「千代川小学校」に移築されている「新御殿門」に「番所」が付随 ↓

 

 

 

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今回は、「園部陣屋(園部城)」(京都府南丹市園部町)の「番所」をお届けします。

 

1619年に「小出(こいで)義親」が「小麦山」付近に築城を開始しました。当時「天守(櫓)」建築をする為に幕府へ申請しましたが許可が下りず「陣屋」扱いとなりました。その後幕末・維新まで外様大名の「小出家」が統治しますが、その間も城づくりという野望は捨てきれずに「城主格」になることに拘(こだわ)っていたようです。

 

幕末には、園部が「帝都」に近い距離にあり「京」を守るという大義名分の下で、いよいよ城造りが幕府から認められましたが大政奉還となり、政府は明治政府となりました。

 

明治政府は、「京(京都)」が戦火に見舞われた際に「明治天皇」の「行在所(あんざいしょ)」として使用する計画もあったようで、「園部陣屋」の城郭化を進め1869年に三重櫓を含め五基の「櫓」と二基の「櫓門」を設けたお城に変貌しました。

 

しかしながら、2年後の1871年の廃藩置県で藩の消滅に伴い城の破却が進みました。あまり知られていないですが、日本で最後(明治時代に入っての)の近世城郭です。

 

園部陣屋(園部城)」の立地と縄張りは、「小麦山」の麓に置いた「本丸」を中心に「内堀」が囲い、更に北側に「大手門」を置いて「内堀」の周囲を「外堀」で囲い、「北(釘貫)門」「東(不明)門」「南門」を配備した総郭的な縄張りになっています。

 

「小麦山」に三重櫓である「小麦山櫓」が建ち、「本丸」には五基の「櫓」と二基の「櫓門」が一時的でも建っていた姿は壮観だったと思います。

 

「園部城復元図」(「観光協会」発行のパンフレット)↓

 

「番所」は、正面の「櫓門」型式の立派な現存「陣屋表門」の左脇に現存の単独建物が設けられています。そんなには大きくはないですが、「入母屋造り」の屋根で「桟瓦葺き」、外壁は「下見板張り」で柱を見せる「真壁造り」となっています。門側から城内側にかけて窓が設けられています。

 

現存「陣屋表門」脇に単独の建物の「番所」(城内側から) ↓

「陣屋表門」脇に単独の建物の「番所」(城内側から) ↓

「陣屋表門」脇に単独の建物の「番所」(表門側から) ↓

現存「番所」と現存「巽櫓」 ↓

現存「陣屋表門」の左脇に見えるのが現存「番所」の屋根 ↓ 

 

 

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「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

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今回は、「二条城」(京都府京都市中京区)の「番所」をお届けします。「日本100名城」に指定されています。

 

1603年に「徳川家康」が天下普請で現在の「二の丸」部分を完成させ、「家康」の征夷大将軍の祝賀等一連の儀式が行われました。この祝いの儀では本営として使用されました。式は、二代将軍「秀忠」、三代将軍「家光」まで引き継がれました。

 

天守は1606年に完成させ、「大坂冬の陣」の本営として使用されました。1619年には、「秀忠」の娘「和子(まさこ)」が「後水尾天皇」に嫁入りする前に入る宿館として使用する為に、大規模改修を行いました。

 

更に1626年、三代将軍「家光」の時に、「後水尾天皇」による「行幸」を受け入れる為に、西側に増築して現在の「本丸」が造られ、天守台には「伏見城」の天守が移築されました。

 

1634年には、「家光」は朝廷や西国大名に対する威嚇的なデモンストレーションで30万人の大軍を率いて入城しましたが、その後、4代将軍「家綱」から約230年間、城主不在のお城で「二条城代」から「二条在番」制となり江戸からの交替武士が管理しました。

 

1720年には落雷で「天守」を焼失、更に火事で「本丸御殿」や「隅櫓」も焼失、地震で櫓や門や一部御殿も倒壊などがあり、それらは再築することなく幕末に至ります。

 

1862年に14代将軍「家茂(いえもち)」が、約230年ぶりの上洛を果たしますが、それに備えた「二の丸御殿」の修復と本丸には「仮御殿」が建てられました。

 

15代将軍「慶喜」は、1867年9月に「二条城」に入城しますが、10月には二の丸御殿の「大広間」で「大政奉還」を行い、政権を朝廷に返上しました。その後12月までの間は、当城の「本丸」に建てられた「本丸仮御殿」に居住していたようです。

 

二条城」の立地と縄張りですが、 「輪郭式平城」で、「家康」の建築当時は現在の「二の丸」が「本丸」で単郭でしたが、「秀忠」「家光」の時に複郭となります。当初の「本丸」(現在の「二の丸」)は、現在の東半分しかなく望楼型「天守」が北西隅に御所を見下ろすように建っていたようです。

 

そして現在の「本丸」は西側に増築され、「内堀」を隔てて周囲を「二の丸」で取り囲まれています。「本丸」への東出入口は「本丸東櫓門」で、「二の丸溜蔵」間とは「廊下橋」で連結し、西側は「本丸西虎口」からの出入りになっていました。

 

「城内絵図」(赤丸は下記に記載の「番所」がある建物の位置) ↓

 

当城の「番所」は、「東大手門」を潜るとすぐわかる右側にデンと構えています。城内には9棟の番所があったそうですが、現存しているのはこの番所のみ、1663年築で重要文化財に指定されています。

 

正面十間(約20m)、奥行三間(約6m)の細長い建物で、屋根は「主屋」部分は「切妻造り」の「本瓦葺き」で、見張り・警固のために前面には「桟瓦葺き」の「庇」が延びています。外壁は柱が見える「真壁造り」で裏側から見ると良く判ります。

 

中は座敷になっていて、幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが宿直・警備していました。城内には二組が常駐していて一つの組は五十人で構成されていたようです。
 

「番所」(重文) ↓

「番所」(重文) ↓

「番所」(重文、庇が前方に出る) ↓

「番所」(重文、庇が前方に出る) ↓

「番所」(重文、屋根は切妻造り) ↓

「番所」(重文、裏側の外壁は「真壁造り」) ↓

 

「二の丸」から出て「本丸櫓門」へ向かわずに左手の壁に沿って南側へ進んだ先に建つ長屋門形式の「桃山門」(重文)にも付随する「番所」スペースがあります。

 

「桃山門」は、「御水尾天皇」行幸時には大きな門でしたが、その後改築され、扉わきには警備兵の番所と控室があります。

 

「桃山門」(重文)に付随する「番所」(竪格子窓が見えます) ↓

「桃山門」(重文) ↓

 

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「彦根城」(滋賀県彦根市)の「番所」ですが、足軽屋敷エリアに現存する貴重な「物見番所」です。

 

「徳川家康」は、「関ヶ原の合戦」後、畿内の有力外様大名に睨みを利かすべく「佐和山城」に「直政」を入城させます。しかし「直政」は、2年後に「関ヶ原の合戦」で受けた傷が原因で逝去し、後を継いだ「直勝」がまだ幼少であったので、家老の「木俣守勝」が「家康」と相談して「彦根城」の築城を進めました。

 

築城に際しては、天下普請によって進められ、1606年に三重三階「天守」を含む第1期工事が完成し、「直勝」が入城しました。その後「表御殿」等の建築が進められ1622年に完成しました。

 

病弱だった「直勝」に替わり異母弟であった「直孝」が継ぎ「大坂夏の陣」の働きの他幕政にも関わり35万石まで加増され「井伊家」の基盤を盤石なものにしました。その後は江戸時代通じては、幕府の重鎮を務め代々老中や「井伊直弼」など5人の大老を輩出します。

 

彦根城」の立地と縄張りは、「金亀(こんき)山」に築かれた「平山城」で、中枢の山部は「中世城郭」を思わせるような「山城」ですが、各所に使用された石垣や多門櫓は「近世城郭」の様相でした。

 

「金亀(こんき)山」の周囲を「内堀」で取り囲み城下全体は、「中堀」「外堀」そして「琵琶湖」(松原内湖)と西側には「芹川」が堀の替わりをしていましたので、非常に堅固なお城でした。

 

「惣構え」の縄張り図(赤丸は、下記「番所」の位置、左が北向き) ↓

 

本日の「番所」は、上述の城下「惣構え」西端を流れる「芹川(善利川)」と「外堀」の間に拡がる「中級・下級侍屋敷」と「足軽長屋・組屋敷」が並んでいたエリアに、日本で唯一残る「物見番所(足軽組屋敷辻番所<善利組・旧磯島家住宅>)」をご紹介します。

 

「彦根城」と言えば、「天守」を始め「櫓」「門」「御殿」等の立派な城郭建築群が揃うお城ですが、一方では下記のような城下を構成していた建造物も残ります。

 

当「番所」は、丁度辻の角に位置していますが、防御を目的として道を意図的に少しずらして、見張りが容易にできる仕掛けを採っています。

 

屋根は「切妻造り」の「桟瓦葺き」、外壁は板張りと下見板張りで角部分に小さな窓を設けて外を監視できるようになっています。今で言うと「交番所」のような感じです。

 

近くには「御普請方長屋」の遺構もあります。

 

日本で唯一残る「物見番所(足軽組屋敷辻番所<善利組・旧磯島家住宅>)」 ↓

日本で唯一残る「物見番所(足軽組屋敷辻番所<善利組・旧磯島家住宅>)」 ↓

「物見番所(足軽組屋敷辻番所<善利組・旧磯島家住宅>)」(西側から、手前の道がずれている)) ↓

「物見番所(足軽組屋敷辻番所<善利組・旧磯島家住宅>)」(南側から、道がずれている) ↓

「芹川(善利川)」(惣構えの最外郭を形成している) ↓

 

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「芝村陣屋」(奈良県桜井市)の「番所」をお届けします。

 

当藩の藩祖「織田長政」は、「柳本陣屋」藩主(城主)の藩祖「織田尚長」とは兄弟で、「織田信長」の弟であった「織田長益(有楽斎)」のそれぞれ四男、五男です。

 

元々は父親である「織田長益(有楽斎)」の領地の内1万石ずつを分けて得た領地で、「長政」は当初、「戒重(かいじゅう)陣屋」(奈良県桜井市)に居を構えていましたが、1745年7代藩主「輔宜」の時に「芝村」へ陣屋を移し幕末・維新まで続きました。

 

芝村陣屋」の立地と縄張りですが、敷地のやや北側中央に「御殿」屋敷群があり、その周囲を「家中屋敷」「中元屋敷」を置いて、更に北西の「弁天池」を堀替りにしながらも周囲を「堀」で囲っていました。城外からの入口は「南門=陣屋惣門」「東門」「北門」がありました。

 

「陣屋」跡近くの「織田家」の菩提寺「慶田(よしだ)寺」(桜井市芝)正門に移築された「陣屋惣門」には、向かって右側に「番所」が付随しています。

 

「慶田寺」正門に移築された「陣屋惣門」に付随する「番所」(右の竪格子窓内) ↓

「慶田寺」正門に移築された「陣屋惣門」に付随する「番所」(裏側から) ↓

「慶田寺」正門に移築された「陣屋惣門」 ↓

「慶田寺」正門に移築された「陣屋惣門」 ↓

 

 

 

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