先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「膳所城」(滋賀県大津市膳所)の「番所」ですが、下記の「番所」は民家で使用されていて自宅改築の為に消却されてしまったものです。立派な「番所」でしたので、名残惜しんで写真の掲載をしました。

 

今回は、「膳所城」の歴史と城主、立地と縄張りの詳細は割愛して、当時の姿の写真だけをお届けします。

 

当「番所」の名前は「勢多口(せたぐち)総門番所」と呼ばれていて、「膳所城」の東側の「勢多口(せたぐち)総門」の脇に置かれていたかなり立派な「番所」でした。

 

屋根は「入母屋造り」の「本瓦葺き」で「鯱」を上げています。また、非常に大きな「桟瓦葺き」の「庇」が前面に設けられています。

 

当「番所」は、個人宅で文化財指定されていなかったことから、新築改修の為に消却されてしまったのが残念でなりません。

 

嘗て民家に使用されていた頃の「勢多口(瀬田口)総門番所」 ↓

嘗て民家に使用されていた頃の「勢多口(瀬田口)総門番所」 ↓

嘗て民家に使用されていた頃の「勢多口(瀬田口)総門番所」 ↓

 

この前に建っていた「勢多口(せたぐち)総門」は、現在京都市内で「細見美術館」を運営されている大阪府泉大津市内の「細見家邸宅」に移築されていて、「高麗門」型式の立派な門です。

 

「細見家邸宅」に移築されている「勢多口(瀬田口)総門」 ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「今尾陣屋」(岐阜県海津市平田町)の「番所」をお届けします。

 

当地には「中島家」が築いたお城がありましたが、「織田信長」に滅ぼされた後は「信長」の家臣が城主に、また「豊臣秀吉」政権時には「市橋長勝」等が城主となっています。

 

その後「竹腰正信」に城が与えられますが、「一国一城の令」で廃城となり、「今尾陣屋」が築かれます。

 

「竹腰家」は、「尾張藩」付家老として、「犬山城」の「成瀬家」と共に「尾張藩」を支え幕末まで続きました。明治政府になってからは独立した藩として認められますが、1871年に廃藩置県によってわずか4年で消滅します。

 

「今尾陣屋」の縄張りは、「御城屋敷」「書院屋敷」「役屋敷」の三構えとなっていて、内郭に「濡門」、外郭に「辰巳門」が置かれていたようです。


「今尾陣屋」の縄張り図(「今尾小学校」校門内に掲出) ↓

 

現在、「薬医門」型式の「陣屋門」が陣屋跡近くの「西願寺山門」に移築されていて、その両脇には「続櫓」或いは「多門」の様な建物が建ちますが、「番所」的な役割を担っていたと思われます。

 

両方の建物には、「唐破風」状の庇が付く窓が設けられていてそこから出入りの監視が行われていたのではないかと思われます。

 

「番所」的な建物(向かって左側、「西願寺山門」に移築された「陣屋門」に付随) ↓

「番所」的な建物(向かって右側、「西願寺山門」に移築された「陣屋門」に付随) ↓

「番所」的な建物(内側から、「西願寺山門」に移築された「陣屋門」に付随) ↓

「西願寺山門」に移築された「陣屋門」の両脇に「番所」的な建物が付随) ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「飯山城」(長野県飯山市)の「番所」をお届けします。

 

「飯山城」の歴史は、伝承では鎌倉時代の砦がスタートですが、「武田信玄」の侵攻によって、当時の飯山周辺の国人達は「上杉謙信」に救援を求め、「飯山城」は「謙信」のものとなり改修が行われます。

 

その後、「御館(おだて)の乱」で勝利した「上杉景勝」は、「武田勝頼」と和睦して「飯山城」は「武田領」となります。そして「織田信長」軍が「飯山城」を占拠しましたが、「信長」が「本能寺の変」で死去すると「上杉」が奪取します。

 

「関ケ原の合戦」後、「上杉景勝」は「会津」に国替えとなりましたので、それ以降は「徳川家」の譜代大名が入れ替わり立ち替わりします。

 

「皆川家」「堀家」「佐久間家」「桜井松平家」「永井家」「青山家」と引継ぎ1717年に3万5千石で「本多家」が入城してからは、幕末・維新まで居城とし続きます。

 

飯山城」の立地と縄張りは、「千曲川」の河岸段丘の丘陵地に築城されて、丘陵地の頂部に「本丸」を置き、北側に向かって「二の丸」「三の丸」と連郭式状に曲輪が並びますが、曲輪毎には高低差があり、その間は「切岸」となっていて急峻になっています。西側には、「西郭」「帯郭」が設けられています。

 

「飯山城見取り図」(現地に掲出) ↓

 

「帯郭」には、民家に移築されていた櫓門型式の「南中門」が再移築されて復元されていますが、その「門扉」の片側に「番所」が置かれていた様相で、庇付き「出格子窓」が設けられています。

 

再移築復元された「南中門」の「番所」の庇付き「出格子窓」 ↓

再移築復元された「南中門」

再移築復元された「南中門」

再移築復元された「南中門」

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「金沢城」(石川県金沢市丸の内)の「番所」をお届けします。お城は「日本100名城」に指定されています。

 

「金沢城」の前身は、一向一揆の拠点にもなっていた「金沢御堂(尾山御堂)」でしたが、1580年に「柴田勝家」が「金沢御堂」を制圧して、配下の「佐久間盛政」が居城します。

 

しかし、「賤ケ岳の戦い」後に「豊臣秀吉」の盟友であった「前田利家」が領地を引き継ぎ、豊臣秀吉政権下の働きによって、加賀、越中と能登の一部を領地として与えられ、その後息子の「利長」も大改修を行い100万石(当初は120万石)に相応しい大城郭と城下町づくりを行いました。

 

「利家」死後、「利長」によって大改修したことで、「利長」が幕府=徳川家康に対する不穏の動きありとの言いがかりを付けられたので、母「まつ」を江戸へ人質として差し出し和解をしました。

 

「関ヶ原の合戦」では、「利長」は東軍について加賀での働きを認められ、加賀、越中、能登の三か国119.5万石を領有することになります。そして、1605年に「利常」に家督を譲り隠居しました。

 

「利常」の子「光高」の時に、かれの弟二人に対して「富山藩」と「大聖寺藩」に分割したので、石高は102.2万石となりましたが、徳川家との繋がりが一層強固となるように努力し続け、前田家の存続を保ちました。江戸時代通じて唯一100万石を保ちました。

 

金沢城」の立地と縄張りは、「本丸」は「尾山」という丘の頂部にあり、「二の丸」、「三の丸」、「新丸」、「北の丸」へと雛壇状態になった「平山城」であります。

 

「大手門」は、「新丸」という曲輪の入口にありますが、現在では「搦手門(からめてもん)」である「石川門」から登城するのが一般的です。

 

「石川門」と「兼六園」の間には、「百間堀」という幅広の水堀があり、お城の「出城」的な「兼六園」とによって、東側は守られていました。

 

城内案内図(赤丸は、下記「番所」が付随する「橋爪門」の位置) ↓

 

城内には、現存や復元の「櫓門」が多く建ちますが、その中で「三の丸」から「二の丸」内に入る復元「橋爪門」内に「番所」と思われるスペースが確保され「竪格子」が再現されています。

 

他の「櫓門」内にも「番所」が付随していたかもしれませんが、そのようなスペースは見られませんでした。門内側に単独の「番所」が設けられていたかもしれません。

 

復元「橋爪門」内に「番所」スペースの再現 ↓

復元「橋爪門」(奥に「番所」スペースが見える) ↓

復元「橋爪門」(「二の丸」側から) ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「松代城」(長野県長野市松代町)の「番所」をお届けします。お城は「日本100名城」に指定されています。

 

「武田信玄」の命で「山本勘助」が築いた「海津城」が原型と言われ、「第四次川中島の戦い」はこの城を巡っての戦となりましたが両者痛み分けとなり、その後は「武田家」による北信濃への領土拡大の拠点となります。

 

「武田家」滅亡後は「織田信長」支配下となりますが、「本能寺の変」後は「上杉家」が当城を吸収し、「豊臣政権」下でも引続き「上杉家」の支配下となっていました。

 

しかし「上杉景勝」の国替えと「秀吉」死去、そして「関ヶ原の合戦」後には「徳川家康」の六男「松平忠輝」が12万石で入城します。

 

「忠輝」は「高田城」を築城して移り、引続き「川中島」を含む当地も領有していましたが、「忠輝」が謀反を理由に改易された後は「松平忠昌」、続いて「酒井忠勝」が入城し、1622年には「真田信之」が8万8000石で入城しました。以降、幕末・維新迄「真田家」のお城として続きますが、1711年に幕命で「松代城」と改名します。

 

松代城」の立地と縄張りですが、「真田家」のお城になってからは、「千曲川」の自然の要害を活用した石造りの「本丸」と、「土塁」や「馬出」中心の「二の丸」「三の丸」となりました。

 

「本丸」の各隅部には隅櫓を置き、「戌亥隅櫓台」は「天守台」に相当する規模のモノでした。「二の丸」は、北側以外の三方を取り囲む配置で前述の通り曲線の縁辺部には「土塁」が巡っていました。

 

そして、「東側」と「南側」2箇所に「武田家」のお城に代表される「丸馬出」と「三日月堀」があり、更に南側の「大手」に当たる「丸馬出」には東西に門があって「三の丸」と連結した「複合馬出」になっていました。更に、「三の丸」東側に「大御門(大手門)」があり、「三の丸」の西側には「花の丸」がありました。

 

「縄張り絵図」(赤丸は下記「文武学校」の位置) ↓

 

城内には復興「太鼓門」と復興「北不明門」が建ちますが、「番所」は復興されていません。

 

ただ、城下に藩士子弟の学問と武術を向上させる場として開校した藩校「文武学校」は、現在でも創建時のままの姿が残されていて国の史跡にも指定されていますが、その「藩文武学校門」の向かって左側に単独の「番所」の建物が建ちます。

 

「藩校」と言えども、やはり内外の出入りは厳しくチェックされていたようです。

 

藩校「文武学校」内絵図(現地に掲出) ↓

「文武学校門」の左手に見えるのが「番所」の建物 ↓

「番所」の建物 ↓

手前が「番所」、奥は「柔術所」 ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「小諸城」(長野県小諸市丁)の「番所」をお届けします。お城は「日本100名城」に指定されています。

 

「小諸」の地は、「小室家」の「宇頭坂(うどうざか)城」、続いて「大井家」が「鍋蓋城」を築城しますが、「武田信玄」に攻められます。

 

そして「信玄」は「山本勘助」や「馬場信房」に命じて、前述の各城に「乙女坂城」の跡地も包含して、「小諸城」を築かせて「武田家」の城代が入ります。

 

しかし「織田・徳川連合軍」の甲斐侵攻で「小諸城」は落城、「本能寺の変」後は「徳川家康」の支配下となりますが、豊臣政権下では「仙谷秀久」が入城します。

 

「関ヶ原の合戦」後は「秀久」は東軍に属したので所領は安堵されます。その後、暫くの間は「徳川忠長」の所領の一部になりますが、「松平家」「青山家」「酒井家」「松平家」と譜代小大名が目まぐるしく替わり、1702年に1万5千石で入城した「牧野康重」以降、「牧野家」が幕末・維新まで統治します。

 

小諸城」の立地と縄張りは、「千曲川」の右岸で、「浅間山」から「千曲川」に向かって傾斜する台地上に築城されました。小諸地方は、浸食によって抉(えぐ)られ、両側と底地が平らになった凹(ぼこ)の字のような地形(「田切り」という)が発達していて、「小諸城」はこのような地形が複雑に入り込んだ断崖絶壁をうまく利用して築かれています。

 

「千曲川」に面した断崖上の最も低い所に「本丸」を配置して、北東に向かって「北丸」「南丸」、「二の丸」、「三の丸」とほぼ一直線に並ぶ「連郭式」の縄張りです。各郭を結ぶ城内道は「田切り」の谷間に設けられ、要所に門が置かれていました。

 

「三の丸」の北東には「大手門」を築き、門の外側に城下町が展開しています。従って、お城は城下町より低い場所にあることから「穴城」と呼ばれています。

 

縄張り図(赤丸が下記説明の番所が付随する「大手門」の位置) ↓

 

その重文「大手門」は廃城後、料亭や民家として使用されていましたが、2005年に保存管理工事が行われて江戸時代の姿に戻された非常に立派な櫓門です。

 

重文「大手門」の内両側に小規模な「番所」のスペースが設けられていて「竪格子窓」が見られます。

 

重文「大手門」に付随する「番所」 ↓

重文「大手門」に付随する「番所」 ↓

重文「大手門」(城外側) ↓

重文「大手門」(城内側) ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「甲府城」(山梨県甲府市丸の内)の「番所」をお届けします。お城は「日本100名城」に指定されています。

 

「甲斐」地域は「武田家」が領有していましたが、「本能寺の変」後は「徳川家康」が「平岩親吉」に「甲府城」の築城を命じます。その後「家康」が関東に移されて、豊臣政権下となると「羽柴秀勝」「加藤光泰」「浅野長政・幸長」が城主となり「甲府城」を完成させます。

 

徳川政権下では、「家康」の九男「義直」が城主を務めたり、「秀忠」の次男「忠長」の支城になったり、1661年には「家光」の三男「綱重」が城主となり、徳川一門のお城となります。

 

その後「綱重」の子「綱豊(後の6代将軍「家宣」)」が1704年に「徳川綱吉」の養嗣子となって江戸城へ移り、「綱吉」時代の側用人「柳沢吉保」のお城となります。

 

1724年に「柳沢家」が移封となった後は、幕領の「甲府勤番」支配下になり幕末まで続きましたが、「戊辰戦争」では新政府の「板垣退助」が無血入城します。

 

「甲府城」の立地と縄張りですが、お城全体は平山城で、頂上中央部に天守台を設けた「本丸」を築き、その一段下には「二の丸」「天守曲輪」が取巻き、更に一段下に「稲荷曲輪」「数寄屋曲輪」「鍛冶屋曲輪」が取巻く一二三段を形成しています。

 

また、西側から北側にかけては、御殿や藩庁が置かれた「楽屋曲輪」「屋形曲輪」「清水曲輪」が並んでいました。

 

「本丸」と「天守曲輪」の出入口に築かれた復元の櫓門「鉄門」内には「番所」が設けられています。「竪格子」で監視できるようになっています。

 

復元の櫓門「鉄門」内に「番所」 ↓

復元の櫓門「鉄門」内に「番所」(左側) ↓

復元の櫓門「鉄門」 ↓

復元の櫓門「鉄門」(本丸側から) ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「松尾城」(千葉県山武市松尾町)の「番所」をお届けします。

 

1868年に「徳川宗家」の「徳川家達(いえさと)」が駿河へ国替えとなったことに伴い、元々その地を統治していた7藩(浜松、掛川、沼津、田中、横須賀、相良、小島)が国替えのあおりを食って、上総・安房に移転を余儀なくされるとともにその地に陣屋、城を築くことになりました。

 

「掛川城」の「太田家」は、移転先が上総国で現在の「山武市」になりました。急遽、城づくりを進め、当初は稜堡式の四稜郭を造成するつもりが土地の制約で三稜郭を造る工事を進めていましたが、1871年に廃藩置県となり、未完成のままとなりました。

 

お城の名前は、「掛川城」の別名だった「松尾城」を城名として付けて、藩名も「松尾藩」としたようです。

 

その造りかけていたお城の立派な「御殿表門」が、山武市内の民家(山武市松尾町大堤)に移築されていることは「城門」「櫓門」シリーズでも触れました。

 

向って右の脇戸横には木枠を被せられた小さめの窓がありますが、多分そこが「御殿門番所」の働きがあった部屋ではないでしょうか。

 

山武市内の民家に移築された「御殿表門」の「番所」 ↓

山武市内の民家に移築された「御殿表門」(脇戸の右が「番所」か) ↓

山武市内の民家に移築された「御殿表門」(脇戸の右が「番所」か) ↓

山武市内の民家に移築された「御殿表門」

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「水戸城」(茨城県水戸市)の「番所」をお届けします。お城は「日本100名城」に指定されています。

 

古くは、12世紀最後に「馬場資幹(しげもと)」が、現在の「本丸」跡に「馬場城」を築きます。しかし1426年に「佐竹家」配下であった「江戸通房」が占拠し「江戸家」が支配します。

 

「佐竹家」は、「豊臣秀吉」による「小田原平定」にいち早く反応し「秀吉」に近づいて自分の領土固めを行いますが、「江戸家」は「水戸城」の明け渡しを拒否した為に、「佐竹家」は「水戸城」を攻撃して「江戸家」を追い出します。そして、本格的な城普請を行い、現在残る4つの大きな曲輪を増築します。

 

「関ヶ原の合戦」では東軍に組しなかった「佐竹家」は出羽秋田へ国替えとなり、その後に「家康」の五男「新吉」、十男「頼宣」を経て十一男「徳川頼房」が入城します。その後幕末・維新迄、「徳川御三家」の一角ではあるものの、本家や他の二家とは違うスタンスで存続することとなります。

 

 

水戸城」の立地と縄張りは、「那珂川」と「桜川」に浸食された台地の先端に築かれた「平山城」です。北に「那珂川」南には「千波湖(せんばこ)」によって防御が優れた場所でした。

 

「佐竹家」の時代にはほぼ規模は確立されて、「徳川家」が入って整備されました。東から「東二の丸(下の丸)」「本丸」「二の丸」「三の丸」が直線的に繋がる「連郭式」の縄張です。

 

その東側と西側に城下町が拡がり、全体を掘と土塁で囲む「総構え」になっていて、石垣は全くない土のお城です。

 

西側から続く台地には、五重の堀を築き、特に「本丸」と「二の丸」の間、「二の丸」と「三の丸」の間の「内堀」は重視されていました。

 

その「二の丸」の入口には「佐竹家」が城主だった1601年頃に建てられた「大手門」があり、明治時代まで残っていましたがその後破却され、古写真を元に2020年2月に復元されました。

 

「櫓門」の復元「大手門」の内側には「番所」を付随していたようで復元の際にも格子窓を施しています。

 

復元「大手門」内側に「番所」を付随 ↓

復元「大手門」 ↓

復元「大手門」(右内側下に「格子窓」が見える)

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「掛川城」(静岡県掛川市)の「番所」をお届けします。「日本100名城」に指定されています。

 

1469~87年頃に、駿河の守護大名だった「今川氏」が「朝比奈氏」に築かせたのが最初で、それは現在の「掛川古城」でした。

 

その後近くに「掛川城」を築きますが「今川義元」が敗死すると、その息子「今川氏真」は「徳川家康」の攻撃を受けて「朝比奈泰朝(やすとも)」が守る「掛川城」に逃げ込み、「家康」は「掛川古城」に本陣を置いて攻め立てます。

 

結果「朝比奈氏」が開城したので、その後は「徳川氏」が城代を置いて拠点としますが、「家康」が関東に移された後は「豊臣秀吉」の家臣「山内一豊」が入城します。そして、現在の縄張りの「梯郭式平山城」に大修築を行いました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「一豊」は東方として貢献したことで土佐一国を与えられ、その後「掛川城」には「家康」の異父弟「(久松)松平定勝」が入城しますが、1617年に「桑名城」へ移封となるとその後1746年に「太田資俊(すけとし)」が入城するまでの約140年の間に13家20人の城主交代が有りました。

 

掛川城」の立地と縄張りは、中小河川によって形成された沖積平野にある標高57mの独立丘陵にある平山城です。

丘陵最頂部に「天守丸」を置き、「本丸」をその南側下の前面に配置し、「二の丸」「三の丸」等主曲輪がそれを取り囲む「梯郭式縄張り」を採用していました。

 

城山の南を流れる「逆川」を「外堀」として取り込み、その内側には「松尾丸」と「内堀」によって「本丸」を防衛していました。

 

主要部分の昔の配置図(現地に掲出) ↓

 

現在の「大手門」は、1994年に元の場所から北側へ50m移して復元されていますが、その城内側には独立した建物の「大手門番所」が建ちます。

 

復元「大手門」(奥に「大手門番所」が見える) ↓

復元「大手門」(手前右側に「大手門番所」が見える) ↓


当「大手門番所」は、1854年の大地震で倒壊した後、1859年に再築されたもので、廃城後は民家「T家」の居宅として移築されていたものを1978年に掛川市へ寄贈され、1995年に大手門脇へ再移築された現存「番所」です。

 

屋根は「入母屋造り」で前面に瓦庇を設けて、その下で入城者の改めを行っていました。外壁は「白漆喰」ですが、手前には窓が、前面の庇下は雨戸が設けられているので、閉まっていると木造感が伝わります。

 

内部は、白壁で板敷きという簡素感がありました。

 

「入母屋造り」で「瓦庇」付き、手前には「窓」 ↓

「入母屋造り」で「瓦庇」付き ↓

雨戸が閉まっている状態 ↓

内部は白壁で板敷き(こちらの間は広い) ↓

内部は白壁で板敷き ↓

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村