先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「掛川城」(静岡県掛川市)の「番所」をお届けします。「日本100名城」に指定されています。

 

1469~87年頃に、駿河の守護大名だった「今川氏」が「朝比奈氏」に築かせたのが最初で、それは現在の「掛川古城」でした。

 

その後近くに「掛川城」を築きますが「今川義元」が敗死すると、その息子「今川氏真」は「徳川家康」の攻撃を受けて「朝比奈泰朝(やすとも)」が守る「掛川城」に逃げ込み、「家康」は「掛川古城」に本陣を置いて攻め立てます。

 

結果「朝比奈氏」が開城したので、その後は「徳川氏」が城代を置いて拠点としますが、「家康」が関東に移された後は「豊臣秀吉」の家臣「山内一豊」が入城します。そして、現在の縄張りの「梯郭式平山城」に大修築を行いました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「一豊」は東方として貢献したことで土佐一国を与えられ、その後「掛川城」には「家康」の異父弟「(久松)松平定勝」が入城しますが、1617年に「桑名城」へ移封となるとその後1746年に「太田資俊(すけとし)」が入城するまでの約140年の間に13家20人の城主交代が有りました。

 

掛川城」の立地と縄張りは、中小河川によって形成された沖積平野にある標高57mの独立丘陵にある平山城です。

丘陵最頂部に「天守丸」を置き、「本丸」をその南側下の前面に配置し、「二の丸」「三の丸」等主曲輪がそれを取り囲む「梯郭式縄張り」を採用していました。

 

城山の南を流れる「逆川」を「外堀」として取り込み、その内側には「松尾丸」と「内堀」によって「本丸」を防衛していました。

 

主要部分の昔の配置図(現地に掲出) ↓

 

現在の「大手門」は、1994年に元の場所から北側へ50m移して復元されていますが、その城内側には独立した建物の「大手門番所」が建ちます。

 

復元「大手門」(奥に「大手門番所」が見える) ↓

復元「大手門」(手前右側に「大手門番所」が見える) ↓


当「大手門番所」は、1854年の大地震で倒壊した後、1859年に再築されたもので、廃城後は民家「T家」の居宅として移築されていたものを1978年に掛川市へ寄贈され、1995年に大手門脇へ再移築された現存「番所」です。

 

屋根は「入母屋造り」で前面に瓦庇を設けて、その下で入城者の改めを行っていました。外壁は「白漆喰」ですが、手前には窓が、前面の庇下は雨戸が設けられているので、閉まっていると木造感が伝わります。

 

内部は、白壁で板敷きという簡素感がありました。

 

「入母屋造り」で「瓦庇」付き、手前には「窓」 ↓

「入母屋造り」で「瓦庇」付き ↓

雨戸が閉まっている状態 ↓

内部は白壁で板敷き(こちらの間は広い) ↓

内部は白壁で板敷き ↓

 

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「江戸城(後編)」(東京都千代田区、中央区、港区の一部)の「番所」をお届けします。「日本100名城」に指定されています。

 

「江戸城」は、江戸時代265年間にわたり、日本を統治した「徳川幕府」の所在地でありその最高トップである「将軍」の居住城でした。初代「徳川家康」から十四代「徳川家茂(いえもち)」までが江戸城で政務を執り起居したお城です。十五代将軍「徳川慶喜」だけが、「江戸城」で政務・起居をしていません。

 

「徳川家康」が江戸幕府を1603年に開府して以来、三代将軍「家光」の時代の1638年頃まで天下普請が続いて完成に至りました。

 

その後は、度重なる火災や自然災害が有りましたが、「天守」は「明暦の大火災」(1657年)で焼失して以来なくなりますが、それ以外はその都度再建されて蘇りました。

 

江戸城」の立地と縄張りは、嘗ての武蔵野台地の端部に築かれた「平山城」で、「本丸」と「西の丸」がその先端上に築かれています。「本丸」を中心に10の郭があり、それを「の」の字に「内堀」が渦巻きのように囲って「外堀」「神田川」「隅田川」まで至り、南北約3.5km、東西約5kmにも及びます。全体的には「渦郭式」と呼ばれています。

 

「本丸」を中心にした10郭とは「内郭」と呼ばれ、「本丸」東側の台地下の低地や干拓地には「二の丸」「三の丸」「西の丸下」が続き、「三の丸」正面には「大手門」が開かれています。

 

「本丸」南西から西側にかけて「西の丸」「吹上」「紅葉山」が位置し、「本丸」北側には「北の丸」が配備され、「本丸」南で「西の丸」東側には「西の丸下」が、「三の丸」や「西の丸下」の東側は広大な「大名小路」「大手前」になっています。

 

「内郭」の東半分は将軍のお城で全てが石垣造りですが、西側半分は隠居した将軍である大御所や、将軍の跡継ぎが住んだ「西の丸」を頂点とした曲輪群で、最大級の土居(土塁)で構成されていて、堀の水際や城門周囲だけ低い石垣が築かれています。

 

また「江戸城」には、「外堀」の交通要所に敵の侵入を防ぐための「城門(殆どが櫓門)」を配置して、「三十六見附」と呼ばれて三十六の門が有りました。現在では建物は失われていますが、当時の櫓台の石垣が残っている見附もあります。

 

江戸城マップ(PHP「名城を歩く」から、赤丸は下記の渡櫓門付随の番所がある場所) ↓

 

本日(後編)は、城内の現存・復元「渡櫓門」に付随している「番所」を採り上げます。

 

一つ目は、復元「大手門」の「渡櫓門」に付随する「番所」で、「門扉」内側に正方形の「格子窓」が施されています。

 

「大手門」は、大名が登城する時に使用した正門で城内最大の門で、「高麗門」との間は桝形になっています。平洋戦争で「高麗門」は無事でしたが、「渡櫓門」は焼失し1968年に木造外観復元され、「番所」も復元されています。

 

復元「大手門」の「渡櫓門」 ↓

復元「大手門」の「渡櫓門」に付随する「番所」 ↓

 

二つ目は、「平川(平河)門」の「渡櫓門」付随する「番所」で、「門扉」内側に縦長の「格子窓」が施されています。

 

「高麗門」と「渡櫓門」によって桝形を形成していますが、「渡櫓門」の西側にももう一つ「高麗門」でできた「不浄門」があり、罪人や死人を城外へ出す門として使用されていました。

 

「平川(平河)門」の「渡櫓門」 ↓

「平川(平河)門」の「渡櫓門」付随する「番所」 ↓

 

三つ目は、「清水門」の「渡櫓門」付随する「番所」で、「門扉」内側に縦長の「格子窓」が施されています。

 

「北の丸」の東門で、「高麗門」と「渡櫓門」によって桝形を形成し、「渡櫓門」を入城すると左に折れて、もう一度左に折れて石段を上がる構造となっています。

 

「清水門」の「渡櫓門」 ↓

「清水門」の「渡櫓門」付随する「番所」 ↓

 

四つ目は、「田安門」の「渡櫓門」付随する「番所」で、「門扉」内側に縦長の「格子窓」が施されています。

 

「北の丸」の北門で、「高麗門」と「渡櫓門」によって桝形を形成し、「渡櫓門」を入城すると左に折れます。現在は、左側に「日本武道館」が建ち、その前が「田安家」邸の敷地跡になります。

 

「田安門」の「渡櫓門」 ↓

「田安門」の「渡櫓門」付随する「番所」 ↓

 

五つ目は、「桜田門」の「渡櫓門」付随する「番所」で、「門扉」内側は板張りになっていますが、当時は格子戸があったのでしょう。

 

「桜田門」の「渡櫓門」 ↓

「桜田門」の「渡櫓門」付随する「番所」 ↓

 

その他城内には「坂下門」「西の丸大手門」の「渡櫓門」がありますが、「番所」部分の写真を撮れていないので、櫓門の外観だけを掲載します。

 

「坂下門」の「渡櫓門」 ↓

「西の丸大手門」の「渡櫓門」 ↓

 

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

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今回は、「江戸城」(東京都千代田区、中央区、港区の一部)の「番所」をお届けします。「日本100名城」に指定されています。

 

「江戸城」は、江戸時代265年間にわたり、日本を統治した「徳川幕府」の所在地でありその最高トップである「将軍」の居住城でした。初代「徳川家康」から十四代「徳川家茂(いえもち)」までが江戸城で政務を執り起居したお城です。十五代将軍「徳川慶喜」だけが、「江戸城」で政務・起居をしていません。

 

「徳川家康」が江戸幕府を1603年に開府して以来、三代将軍「家光」の時代の1638年頃まで天下普請が続いて完成に至りました。

 

その後は、度重なる火災や自然災害が有りましたが、「天守」は「明暦の大火災」(1657年)で焼失して以来なくなりますが、それ以外はその都度再建されて蘇りました。

 

江戸城」の立地と縄張りは、嘗ての武蔵野台地の端部に築かれた「平山城」で、「本丸」と「西の丸」がその先端上に築かれています。「本丸」を中心に10の郭があり、それを「の」の字に「内堀」が渦巻きのように囲って「外堀」「神田川」「隅田川」まで至り、南北約3.5km、東西約5kmにも及びます。全体的には「渦郭式」と呼ばれています。

 

「本丸」を中心にした10郭とは「内郭」と呼ばれ、「本丸」東側の台地下の低地や干拓地には「二の丸」「三の丸」「西の丸下」が続き、「三の丸」正面には「大手門」が開かれています。

 

「本丸」南西から西側にかけて「西の丸」「吹上」「紅葉山」が位置し、「本丸」北側には「北の丸」が配備され、「本丸」南で「西の丸」東側には「西の丸下」が、「三の丸」や「西の丸下」の東側は広大な「大名小路」「大手前」になっています。

 

「内郭」の東半分は将軍のお城で全てが石垣造りですが、西側半分は隠居した将軍である大御所や、将軍の跡継ぎが住んだ「西の丸」を頂点とした曲輪群で、最大級の土居(土塁)で構成されていて、堀の水際や城門周囲だけ低い石垣が築かれています。

 

また「江戸城」には、「外堀」の交通要所に敵の侵入を防ぐための「城門(殆どが櫓門)」を配置して、「三十六見附」と呼ばれて三十六の門が有りました。現在では建物は失われていますが、当時の櫓台の石垣が残っている見附もあります。

 

縄張り絵図(赤丸は下記説明「番所」の場所、絵図は「東京とりっぷ」からお借りしました) ↓

 

その中で「番所」は、「大手門」から「本丸」への動線途中に設けられた「同心番所」「百人番所」「大番所」の三棟が残っているのと、城内の現存・復元「櫓門」に付随している「番所」が見られます。

 

まず「前編」では、「大手門」から「本丸」への動線途中に設けられた「同心番所」「百人番所」「大番所」を採り上げます。

 

古絵図(赤丸は下記説明「番所」の場所、絵図は「東京とりっぷ」からお借りしました) ↓

 

まず「大手門」の枡形で左へ折れてから真っ直ぐ進むと「大手三の門」枡形跡の石垣があります。元々はその前に「堀」が横たわり「下城橋」があって。文字通り登城してきた殆どの大名はここで輿から下りて中に入りますが、大名のお供を監視するのが「同心番所」でした。現在は、門の内側に移されていますが、当時は「下城橋」の手前に置かれていた番所です。

 

「同心番所」は「入母屋屋根」で「本瓦葺き」、前面には「瓦庇」が出張り、棟瓦や軒端に瓦には、「葵の紋(三葉葵)」が付いています。

 

ここに詰めていたのは次に紹介する「百人番所」と同じ「鉄砲百人組」の与力・同心が担当していました。同心は、下級役人で「御家人」でした。

 

「同心番所」 ↓

「同心番所」 ↓

「同心番所」 ↓

「同心番所」 ↓

 

「大手三の門」の枡形を左に折れると、「本丸」に入る「中の門」前の広い敷地出ますが、その前に「二の丸百人番所」が構えています。

 

入城者の検問に加え、江戸城の有事に備えると共に将軍の護衛を担った警備集団が詰めていて 江戸城警備を担当する「若年寄」の直轄支配下の「鉄砲百人組」でした。 ここには「伊賀組」「甲賀組」「根来組」「二十四騎組」が与力20人、同心100人の交替で詰めていました。

 

当番所は、「入母屋造り」の「本瓦葺き」で平屋の前に「瓦庇」を付けて延ばしていて、現存で日本最大の規模を誇ります。棟瓦や軒端に瓦には、「葵の紋(三葉葵)」が付いています。

 

「二の丸百人番所」 ↓

「二の丸百人番所」 ↓

「二の丸百人番所」 ↓

「二の丸百人番所」 ↓

「二の丸百人番所」 ↓

 

「中の門」跡に入るとすぐ右側奥には、「大番所」が構えています。ここが最終チェックポイントですので、他の番所よりも身分の高い「与力」を中心に警備していた番所です。また「書院番頭」の詰所としても使用されていました。


当番所は、1966年に「皇居東御苑開園」に合わせて復元されたものだそうで、今まで現存の建物だと思っていました。

 

当番所は、「入母屋造り」の「本瓦葺き」で二重屋根になっていて格式が高く仕上げられています。周囲は開放的な縁側が取巻いています。こちらも棟瓦や軒端に瓦には、「葵の紋(三葉葵)」が付いています。

 

「大番所」 ↓

「大番所」 ↓

「大番所」 ↓

「大番所」 ↓

「大番所」 ↓

 

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「高崎城」(群馬県高崎市)の「番所」をお届けします。

 

1420年頃に、「和田家」によって「和田城」が築城されますが、この地をめぐり、「上杉家」「武田家」「北条家」が凌ぎをけずり激戦が繰り返されました。

 

「和田家」は当初、「上杉家」に従軍するも、「武田信玄」が「箕輪城」を攻撃すると「信玄」に従属、「武田家」滅亡後には「織田家」を経て「北条家」に鞍替えをしていきます。

 

しかし、「豊臣秀吉」による「小田原攻め」の時に、「和田城」は「前田利家」と「上杉景勝」の攻撃で落城して廃城となります。1597年に「徳川家康」の命で徳川四天王の一人「井伊直政」が「和田城」の跡地に「高崎城」を築き、「直政」は「箕輪城」から「高崎城」に移ります。

 

その後は、譜代大名が次々と入れ替わりました。「酒井家次」「松平(戸田)家」「松平(藤井)家」「安藤家」を経て「松平(大河内)家」「間鍋詮房(まなべ あきふさ)」、再度「松平(大河内)家」が入封し、その後は「松平(大河内)家」が幕末・維新まで10代が続きます。

 

「高崎城」の立地と縄張りは、南北に細長い「本丸」が三方向に「内桝形」の「虎口」を設け、特に東方向には「梅の木曲輪」が「二の丸」側に出張り門で繋がり、更に「二の丸」内の「東中門」先に馬出を置いて「三の丸」に繋げる工夫がされた複雑な縄張りとなっています。

 

「本丸」北側には「榎曲輪」を設け、西側には「本丸」の背後を守る「西曲輪群」とその南側にかけては「西の丸」が設けられていました。

 

「三の丸」の東側には「大手門」が、「三の丸東門」南側には「横矢桝形」が施されかなり守備力の高い縄張りになっていました。

 

 

現在「番所」を伴う門は「旧三の丸東門」で、移築「乾櫓」の西側に移築されています。

 本来は「追手御門」から南側にあった「出桝形(でますがた)」北側に築かれていて、通常は扉を開き、城内に出入りする武士や商人などを通行させた通用門でした。

 

「番所」は瓦庇付きの「無双窓」で張り出し、「番所」側の裏側の屋根は大きく出張っています。

 

「無双窓」とは、2枚の連子を前後に配置し、内側の連子を左右にスライドさせて開閉する窓で、内側の連子を動かすと、固定された外側の連子との隙間ができることから、採光や通風をコントロールできました。

「旧三の丸東門」に付随する「番所」 ↓

「旧三の丸東門」に付随する「番所」 ↓

「旧三の丸東門」に付随する「番所」裏側 ↓

 

 

 

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先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「一関陣屋」(岩手県一関市城内)の「番所」をお届けします。

 

「陣屋」は、1682年に「田村家」の移封に伴って、「釣山」に築城されていた「一関城」の麓に築かれました。

 

「一関陣屋」の本丸絵図によると、「藩主居館」のエリアと藩庁「役所」が「中御門」という長屋門で分断されていました。その「中御門」が、下記に紹介する「毛越寺(もうつうじ)山門」に移築再利用されている長屋門のようです。


「一関陣屋」の本丸絵図(〇印が下記の移築門のようです) ↓

 

その「陣屋長屋門」は現在「毛越寺山門」(岩手県西西磐井郡平泉町)に移築されていて、その境内入口として利用されています。入口脇は「番所」だったと思われ、表側には監視用の「出格子窓」が付いています。

 

「毛越寺山門」に移築された「陣屋長屋門」に付随する「番所」 ↓

「毛越寺山門」に移築された「陣屋長屋門」に付随する「番所」 (両脇に「出格子窓」が見られる)↓

「毛越寺山門」に移築された「陣屋長屋門」に付随する「番所」 (両脇に「出格子窓」が見られる)↓

 

「城門」シリーズでも触れましたが、「毛越寺(もうつうじ)」は、JR「一ノ関駅」から北方向に二駅目の「平泉駅」が最寄り駅で、境内には伽藍が残り、東側に拡がる庭園は平安時代の優美な浄土庭園がほぼそのまま残されていると言われ、国の「特別史跡」であり「特別名勝」に指定されています。

 

 

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今回は、「弘前城」(青森県弘前市)の「番所」をお届けします。

 

「弘前城」の城主「津軽家」は、元々は「南部家」の支配下にありましたが、「大浦為信」の時に、「南部家」の津軽支配の中心城であった「石川城」を攻めて独立を宣言し、津軽各地を攻略しました。そして「大浦為信」は、「南部信直」が小田原に参陣する前に「豊臣秀吉」にいち早く謁見したことから津軽の支配権が安堵され、「南部家」は津軽の領地を失うことになります。

 

更に「大浦為信」は、京都の公家「近衛家」に近づくことで、名字を「津軽家」と改めることになりました。

 

「関ヶ原の合戦」では、東軍の徳川軍につくことによって加増され、「為信」の息子「信枚(のぶひら)」の時に、「弘前城」が完成します。以上のような経緯から、江戸時代通じて両隣の「南部家」と「津軽家」の反目が続いたそうです。

 

「弘前城」の立地と縄張りは、「岩木川」の河岸段丘の上に築かれたお城で、「梯郭式」の「平山城」であります。天然の要害として、西側に流れる「岩木川」と東側に流れる「土淵川」も堀として利用しています。

 

更に、「岩木川」から水を取り込んだ水堀の「外堀」「中堀」「内堀」を設け、西側には巨大な溜池の「蓮池」や「西堀」も防御の為に掘られました。

 

城内案内図(赤丸は下記で紹介している「番所」の位置) ↓

 

城内にある「番所」は、一基現存で存在しています。更に、既に紹介している「櫓門」内に設けられた「番所」もありますので、それらも含めて紹介していきます。

 

現存番所は「二の丸東門与力番所」です。屋根は「入母屋造り風」で外壁は「下見板張り」で「真壁造り」です。また一部、二階もあったようで一階と共に外部からは「連子窓」が見られます。

 

「与力」とは、上級武士に仕えていた武士のことを言い、その「与力」が見張り役として警備をした詰所(番所)を「与力番所」といいますので、門に付随して出入りを監視する「番所」とは少し役割は違っていたようです。


城内には「追手門与力番所」「三の丸東門与力番所」など12ヵ所に建てられていたと謂われています。

 

当番所は、廃城後も残されていましたが1915年(大正4年)から一時公園管理人の宿舎や作業員詰所として移築使用されていましたが、1979年(昭和54年)に再度元の場所へ復元移築した「番所」です。

 

「二の丸東門与力番所」 ↓

「二の丸東門与力番所」(二階にも連子窓) ↓

「二の丸東門与力番所」(入母屋造り風の屋根) ↓

「二の丸東門与力番所」(裏側から) ↓

「二の丸東門与力番所」(裏側から) ↓

 

続いて、現存「櫓門」が5基ありますが、全てに「番所」が付随して設けられ「出格子窓」が付いていました。

 

南から見ていきますと、「南外堀」が左へ折れた所に建つのが「三の丸追手門」(重文)です。

 

「三の丸追手門」は「脇戸・番所付き櫓門」で、2階は「庇付きの出格子窓」が付き、壁は「真壁造り」で「下見板張り」、屋根は「銅瓦葺」 という古い形式の「櫓門」です。当城には現存櫓門が他に4門ありますが、殆どが同じ形式で造られています。

 

「三の丸追手門」(重文、左下に「番所」) ↓

 

「三の丸追手門」(重文、左下に「番所」) ↓

「三の丸追手門」(重文、「番所出格子」) ↓

 

次に「中堀」を渡って「二の丸」南入口に建つのが「二の丸南内門」(重文)です。この門も基本的には「追手門」と同形式で「番所」が左下に付随して設けられ「出格子窓」が付きます。

 

「二の丸南内門」(重文、番所出格子窓) ↓

「二の丸南内門」(重文、番所出格子窓) ↓

 

続いて、「外堀」を渡り「三の丸」に東側から入る「三の丸東門」(重文)です。ほぼ他の櫓門と同形式ですが、他の櫓門上の「鯱」が「銅製」に対して「鋳鉄製」になっていますので色もどす黒く見えます。

 

この門だけが付随する「番所」は向かって右側に付き、「出格子窓」が見られます。

 

「三の丸東門」(重文、城外から) ↓

「三の丸東門」(重文、番所で格子窓) ↓

「三の丸東門」(重文、鋳鉄製の「鯱」) ↓

 

続いて、「中堀」を渡り「二の丸」の東入口に建つのが「二の丸東門(東内門)」(重文)で、他の櫓門とほぼ同形式です。付随する「番所」は、左下にあり「出格子窓」を備えています。

 

この門の北側に、前述した「二の丸与力番所」が建っています。。

 

「二の丸東門(東内門)」(重文) ↓

「二の丸東門(東内門)」(重文、番所で格子窓) ↓

 

最後は、「外堀」から「亀甲橋」を渡り「四の丸」の北出入口に鎮座しているのが「亀甲門(北門)」(重文)で、当初は「大手門」として「大光寺城」から移築されて建造された「櫓門」ですので規模も大きいです。

 

それに付随している「番所」は左下にあり「出格子窓」が付きますが内部は広いスペースのようです。

 

「亀甲門(北門)」(重文、左下が番所) ↓

「亀甲門(北門)」(重文、桝形内から) ↓

「亀甲門(北門)」(重文、門と土塁の間は「板塀」) ↓

 

「櫓門」の詳細については下記↓からご覧ください。

 

 

 

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一昨日で「城郭建造物」の「城門」シリーズを終えました。

 

今まで、「城郭建造物」の「天守」「御殿(茶室・能舞台等含む)」「櫓」「櫓門」「城門」を紹介してきましたが、まだまだあります!

 

先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回からは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介していくシリーズをスタートさせます。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


まず今回は、「久保田城」(秋田県秋田市千秋公園)の「番所」をお届けします。

 

「豊臣秀吉」による「小田原攻め」の後、「後北条家」の領地は「徳川家康」に与えられます。常陸国に領地を持つ「佐竹家」は「家康」にとって邪魔になる存在であったことから、「佐竹義宣(よしのぶ)」が「関ケ原の合戦」や「会津攻め」に参加しなかったことを理由に、「出羽国」に追いやられるとともに大幅な領地削減が行われました。

 

「義宣」は、「出羽国」の「土崎湊」に入りましたが、すぐに「久保田城(1642年に窪田城から改名)」を築き、その後、「佐竹家」はここを統治の中心地として幕末・維新まで続きました。

 

久保田城」の立地と縄張りは、「旭川」東側の丘陵地を利用した平山城で、二段に形成された「本丸」と「二の丸」が「内堀」に囲われ、「二の丸」の南から東南にかけて拡がる「三の丸」や「本丸」北側に拡がる「北の丸」は、外堀で守られていました。

 

縄張り図(城内に掲出) ↓

 

当城の「番所」は、石段で上り「本丸」の入口である「櫓門」型式の「本丸表門」の右下に置かれている現存の「御物頭御番所」です。「秋田市指定文化財」になっています。

 

「御物頭御番所」は「本丸表門」の右下に置かれている ↓

 

屋根は「切妻造り」で前面には「庇」を設け、外壁は「真壁造り」の「下見板張り」です。

 

御番所の中は14畳あって、北側には休憩所や台所や便所もあります。また、中2階にも8畳の部屋ありました。

 

「御物頭御番所」外観(本丸表門側から) ↓

「御物頭御番所」外観(本丸表門側から) ↓

「御物頭御番所」外観(妻側は真壁造り) ↓

「御物頭御番所」(正面の高床座敷) ↓

「御物頭御番所」(高床座敷) ↓

「御物頭御番所」(高床座敷には「床の間」) ↓

「御物頭御番所」(高床座敷には「床の間」) ↓

「御物頭御番所」内の一室 ↓

「御物頭御番所」(奥は「板の間」) ↓

「御物頭御番所」(板の間) ↓

「御物頭御番所」(「板の間」から「高床座敷」方向) ↓

「御物頭御番所」(入口) ↓

 

 

 

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城郭建造物」の「城門」シリーズを終えました。

 

「城門」は「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐ防御や、いざという時の逃げ道の確保という役割の他に、城の居住者の城内外の行き来、城内の各空間(曲輪)の間仕切りによる管理をする役割もありました。

 

今まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

次からシリーズとして紹介していくのは「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)です。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。

 

以下は、今まで紹介してきた各種「城郭建造物」ですので、またご参考にご覧ください。

 

「天守」 ↓

「御殿」 ↓

「三重櫓」 ↓

「二重櫓」 ↓

「一重櫓(平櫓)」 ↓

「櫓門」 ↓

「城門」 ↓

 

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私が現在所持している「城門」の写真を、約8ケ月に亘って『全国「城門」を巡る』シリーズとして約250城の「城門」を発信し続けてきて、昨日やっと終了しました。

 

移築されたり復元されている「城門」はまだまだ各地に存在すると思います。また、私自身が持っている写真で掲載を漏らしている「城門」があるかもしれません。

 

実は、「城門」シリーズを始めるキッカケは、「天守」「櫓(三重、二重、平)」「櫓門」「御殿(茶室、能舞台含む)」の各シリーズを発信し終えて、それに続いて城郭を形成する建造物の「城門」を紹介するシリーズを考えていたことに加えて、昨年11月に突然「首下がり病」という病気に襲われたことから、お城巡りができなくなったからです。

 

この「首下がり病」は、原因不明らしく重い首が前に垂れるので、歩行が非常に大変で少し歩いても息切れ、動悸が高まります。

 

整形外科で診てもらうと、リハビリやトレーニングをすれば改善するかもと言われ、その言葉を励みに、「お城巡り」に行けない間は、今まで撮りためた沢山ある「城門」を紹介することで「お城巡り」再開までの時間稼ぎができると思っていました。

 

ところが、最近「大阪大学整形外科」の先生から、「これ以上良くならないかも、これ以上アドバイスすることもありません」と言われて見放され、大変ショックを受けていますが、微かな期待を持ちながら今も、リハビリとトレーニングに励んでいる日々です。

 

ということで、前置きが長くなりましたが、「城門」の「総集編」を、といっても今までの「城門」のURLを貼り付けますので、見逃した「城門」をどうぞご覧ください。併せて「櫓門」シリーズも貼り付けておきます。

 

次回からも、新たなシリーズで城郭建造物を発信していきたいと思いますので、どうぞ引続きご愛顧ください!

 

全国の「城門」シリーズ ↓

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

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只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。


「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

今回は「首里城」(沖縄県那覇市の「城門」をお届けします。「日本100名城」に指定されています。

 

「琉球」は、14~15世紀初頭にかけて、北山・中山・南山が覇権を争う戦国時代でしたが、中山の「王武寧(ぶねい)」がいち早く、明朝に対して琉球の覇者としての地位を認めてもらい(冊封-さくほう)、明皇帝に忠誠を誓って(朝貢-ちょうこう)貿易面でのメリットを享受しました。

 

しかし、1407年に南部の「尚巴志(しょうはし)」が「中山」の拠点を攻略しその覇権を手に入れて、本拠地を「首里城」に移し、その後整備と強化を進めます。そして1416年に「北山」を、1429年に「南山」を平定して琉球を統一しました。

 

その後、「尚円(しょうえん)」のクーデターによって、「第一尚氏王朝」は崩壊して、「第二尚氏王朝」となり、その後はその子孫が続きます。

 

ただ、1609年に「薩摩軍」が「琉球」に侵攻したことで、当時の「尚寧(しょうねい)」は、薩摩軍に連行され「徳川家康・秀忠」と謁見し、薩摩の琉球政治下に組込まれるとともに、中国(明から清へ)にも朝貢する二重の従属的関係を続けることになります。

 

1879年に、明治新政府は、19代「尚泰(しょうたい)」に対して「首里城」の明け渡しを迫り、「琉球王国」は崩壊します。

 

太平洋戦争末期に、沖縄守備軍が、「首里城」の地下に司令部壕を造ったことで、アメリカ軍に攻められ「首里城」は消滅してしまいました。

 

城内には、多くの「楼門」(櫓門)が復元されていて、「櫓門シリーズ」で紹介しました。

 

「楼門(櫓門)」は下記よりご覧ください ↓

 

 

 

 

 

「城門」は「アーチ門」が見られるものの、石のアーチだけが残っている状態ですので、今回は建物が建っているモノを採り上げました。

 

まず、「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」は、王家の祈願所の「石門」で木の扉と屋根以外は琉球石灰岩で造られています。「重要文化財」に指定されています。

 

屋根は「木造板葺き」で、屋根の両妻から軒先までは和風ですが、棟飾りは「火焔宝珠」を中心として両側に「鴟尾(しび)」が飾られ、軒は石造りながら垂木を張り出して造られています。

 

王家の拝所でしたので、国王が城外に出る時に道中の安全を祈願したり、聖地を巡礼する行事や、最高神女(のろ)・聞得大君(きこえおおきみ)の即位式も最初にここを参拝したといわれています。

 

1519年に築かれた門でしたが、1945年の戦災で大破しましたが、1956年にトラバーチン材を用いて復元されました。その後亀裂が生じた為、解体修理を行い古材をできるだけ使って1987年に完成しました。

 

王家の祈願所の「園比屋武御嶽石門」 ↓

王家の祈願所の「園比屋武御嶽石門」 ↓

王家の祈願所の「園比屋武御嶽石門」 ↓

王家の祈願所の「園比屋武御嶽石門」 ↓

 

続いて、「下之御庭」の中心にある、小さな森「首里森御嶽(すいむいうたき)」が首里城発祥の地であり、「琉球開闢(かいびゃく)」の神「アマミキヨ」が作った琉球の信仰の中で最も神聖な七つの「御嶽」のうちのひとつと言われています。

その「首里森御嶽」前にある「石門」で、1997年に復元されました。

 

「首里森御嶽石門」(中の植物はガジュマルとクロツグ) ↓

 

次に、城外にある琉球王家最大の別邸で、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されました「識名園(しちなぬうどぅん)」の「屋門(やーじょ)」と呼ばる「正門」です。

 

屋根は「赤瓦葺き」で門そのものは木造建築ですが、両脇には「切石」の石垣が積まれています。この門を、国王一家や冊封使が出入りしました。

 

「識名園」の「屋門」と呼ばる「正門」 ↓

「識名園」の「屋門」と呼ばる「正門」 ↓

「識名園」の「屋門」と呼ばる「正門」 ↓

「識名園」の「屋門」と呼ばる「正門」 ↓

 

脇には、「正門」と同形式ですがやや小さい「使用人門」が建ちます。

 

「使用人門」 ↓

「使用人門」 ↓

 

 

 

 

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