今まで、「城郭建造物」の「天守」「御殿(茶室・能舞台等含む)」「櫓」「櫓門」「城門」を紹介してきましたが、まだまだ「城郭建造物」はあります!
先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。
今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。
「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。
このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。
今回は、「高崎城」(群馬県高崎市)の「番所」をお届けします。
1420年頃に、「和田家」によって「和田城」が築城されますが、この地をめぐり、「上杉家」「武田家」「北条家」が凌ぎをけずり激戦が繰り返されました。
「和田家」は当初、「上杉家」に従軍するも、「武田信玄」が「箕輪城」を攻撃すると「信玄」に従属、「武田家」滅亡後には「織田家」を経て「北条家」に鞍替えをしていきます。
しかし、「豊臣秀吉」による「小田原攻め」の時に、「和田城」は「前田利家」と「上杉景勝」の攻撃で落城して廃城となります。1597年に「徳川家康」の命で徳川四天王の一人「井伊直政」が「和田城」の跡地に「高崎城」を築き、「直政」は「箕輪城」から「高崎城」に移ります。
その後は、譜代大名が次々と入れ替わりました。「酒井家次」「松平(戸田)家」「松平(藤井)家」「安藤家」を経て「松平(大河内)家」「間鍋詮房(まなべ あきふさ)」、再度「松平(大河内)家」が入封し、その後は「松平(大河内)家」が幕末・維新まで10代が続きます。
「高崎城」の立地と縄張りは、南北に細長い「本丸」が三方向に「内桝形」の「虎口」を設け、特に東方向には「梅の木曲輪」が「二の丸」側に出張り門で繋がり、更に「二の丸」内の「東中門」先に馬出を置いて「三の丸」に繋げる工夫がされた複雑な縄張りとなっています。
「本丸」北側には「榎曲輪」を設け、西側には「本丸」の背後を守る「西曲輪群」とその南側にかけては「西の丸」が設けられていました。
「三の丸」の東側には「大手門」が、「三の丸東門」南側には「横矢桝形」が施されかなり守備力の高い縄張りになっていました。
現在「番所」を伴う門は「旧三の丸東門」で、移築「乾櫓」の西側に移築されています。
本来は「追手御門」から南側にあった「出桝形(でますがた)」北側に築かれていて、通常は扉を開き、城内に出入りする武士や商人などを通行させた通用門でした。
「番所」は瓦庇付きの「無双窓」で張り出し、「番所」側の裏側の屋根は大きく出張っています。
「無双窓」とは、2枚の連子を前後に配置し、内側の連子を左右にスライドさせて開閉する窓で、内側の連子を動かすと、固定された外側の連子との隙間ができることから、採光や通風をコントロールできました。
「旧三の丸東門」に付随する「番所」 ↓
「旧三の丸東門」に付随する「番所」 ↓
「旧三の丸東門」に付随する「番所」裏側 ↓
「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。
「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。
もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。




