先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「掛川城」(静岡県掛川市)の「番所」をお届けします。「日本100名城」に指定されています。

 

1469~87年頃に、駿河の守護大名だった「今川氏」が「朝比奈氏」に築かせたのが最初で、それは現在の「掛川古城」でした。

 

その後近くに「掛川城」を築きますが「今川義元」が敗死すると、その息子「今川氏真」は「徳川家康」の攻撃を受けて「朝比奈泰朝(やすとも)」が守る「掛川城」に逃げ込み、「家康」は「掛川古城」に本陣を置いて攻め立てます。

 

結果「朝比奈氏」が開城したので、その後は「徳川氏」が城代を置いて拠点としますが、「家康」が関東に移された後は「豊臣秀吉」の家臣「山内一豊」が入城します。そして、現在の縄張りの「梯郭式平山城」に大修築を行いました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「一豊」は東方として貢献したことで土佐一国を与えられ、その後「掛川城」には「家康」の異父弟「(久松)松平定勝」が入城しますが、1617年に「桑名城」へ移封となるとその後1746年に「太田資俊(すけとし)」が入城するまでの約140年の間に13家20人の城主交代が有りました。

 

掛川城」の立地と縄張りは、中小河川によって形成された沖積平野にある標高57mの独立丘陵にある平山城です。

丘陵最頂部に「天守丸」を置き、「本丸」をその南側下の前面に配置し、「二の丸」「三の丸」等主曲輪がそれを取り囲む「梯郭式縄張り」を採用していました。

 

城山の南を流れる「逆川」を「外堀」として取り込み、その内側には「松尾丸」と「内堀」によって「本丸」を防衛していました。

 

主要部分の昔の配置図(現地に掲出) ↓

 

現在の「大手門」は、1994年に元の場所から北側へ50m移して復元されていますが、その城内側には独立した建物の「大手門番所」が建ちます。

 

復元「大手門」(奥に「大手門番所」が見える) ↓

復元「大手門」(手前右側に「大手門番所」が見える) ↓


当「大手門番所」は、1854年の大地震で倒壊した後、1859年に再築されたもので、廃城後は民家「T家」の居宅として移築されていたものを1978年に掛川市へ寄贈され、1995年に大手門脇へ再移築された現存「番所」です。

 

屋根は「入母屋造り」で前面に瓦庇を設けて、その下で入城者の改めを行っていました。外壁は「白漆喰」ですが、手前には窓が、前面の庇下は雨戸が設けられているので、閉まっていると木造感が伝わります。

 

内部は、白壁で板敷きという簡素感がありました。

 

「入母屋造り」で「瓦庇」付き、手前には「窓」 ↓

「入母屋造り」で「瓦庇」付き ↓

雨戸が閉まっている状態 ↓

内部は白壁で板敷き(こちらの間は広い) ↓

内部は白壁で板敷き ↓

 

 

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