全国の城郭建造物「御殿(居館)シリーズ」をお届けしています。
「御殿」については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。
全国「御殿」を巡る”はじめに” ↓
今回は、「彦根城」の「槻御殿」と隣接する「玄宮園(八景亭)」内に建つ数寄屋建築「鳳翔台・臨池閣等」をお届けします。
■「彦根城」(滋賀県彦根市)
「徳川家康」は「関ヶ原の合戦」後、畿内の有力外様大名に睨みを利かす為に「佐和山城」に「井伊直政」に入城させました。しかし、「直政」は2年後に「関ヶ原の合戦」で受けた傷が原因で逝去してしまいます。
「直政」を継いだ藩主「直勝」はまだ幼少でしたので、「家康」と家老の「木俣守勝」とで「彦根城」を「天下普請」で築城させ、まず1606年に三重三階「天守」を含む第1期工事を完成させます。その後「表御殿」等の建築を進めて完成したのは1622年でした。
3代藩主となった「直孝」の時に、「大坂夏の陣」の働きや幕政にも関わっていたことから35万石まで加増されて、「徳川家」家臣の中では最高の石高を得て、「井伊家」は盤石な基盤を構築するようになります。
そして、江戸時代通じて幕府の重鎮を務め、老中や「井伊直弼」など5人の大老を輩出する城主(藩主)となりました。
さて今回は、「彦根城」に現存する「槻(けやき)御殿」(楽々園)とそれに隣接する「玄宮園(八景亭)」内に建つ数寄屋建築「鳳翔台・臨池閣等」をお届けします。
「槻御殿」は、藩主の日常生活用の下屋敷で、国指定記念物の「御書院」「地震の間」「茶亭 楽々の間」が繋がっています。1813年の11代藩主「井伊直中」の隠居に際して大規模な増改築が行われ現在の建物の約10倍もあったようです。
「井伊直弼」は、隠居した「井伊直中」の子としてこの御殿で誕生しました。
「槻御殿」の「御書院」車寄せ ↓
「槻御殿」の「御書院」 ↓
「御書院」内には藩主専用の「御上段の間」が残され、国内でも「江戸城」と「彦根城」にしかなかった耐震構造の「地震の間」も現存しています。また、「茶亭 楽々の間」の前には枯山水庭が残ります。
「槻御殿」の「地震の間」 ↓
「槻御殿」を含む「楽々園」の南東に隣接する「玄宮園」は、玄宮皇帝の離宮をなぞらえて造ったと謂われ近江八景等の借景を採り入れたとのことで「八景亭」とも言われています。
園内には「鳳翔台・臨池閣等」の「数寄屋建築」を中心に「池泉回遊式庭園」が拡がり、客人の接客饗応の為の空間になっていました。
現在でも西側の平山上には「本丸」跡の「天守」が望めますが、当時は今以上に「天守」に加えて「多聞櫓」「着見櫓」等の各種の櫓等を借景とした見事なまでに美しい庭園だったと思われます。
池泉回遊式庭園「玄宮園」内の数寄屋建築「鳳翔台・臨池閣等」 ↓
池泉回遊式庭園「玄宮園」内の数寄屋建築「鳳翔台・臨池閣等」 ↓
池泉回遊式庭園「玄宮園」内の数寄屋建築「鳳翔台・臨池閣等」 ↓
池泉回遊式庭園「玄宮園」内から「天守」を望む ↓
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