日本の、世界の、食の常識を超えていく。 -2ページ目

A先生

A先生が退職した。
ここ2年ほど英会話スクールで英語を習い続けている。元来英語を学ぶことが、特に英語ネイティブから学ぶのが苦手だった。学校で英語を言語ではなく、一つの勉学として学んだからだろうか。理解できない、話せない、など言葉に詰まる状況に陥ると、相手から、こんなこともわからないのかとバカにされているように感じてしまうのだ。しかし、必要に迫られていることもあり、またコンプレックス克服のためにも、英語を習おうと思い立った。
A先生は、英会話スクールの、最初の体験レッスンを担当してくれた先生だ。今でも覚えている。A先生でなければ私はスクールに通うどころか、英語を学ぶことすら諦めていたかもしれない。彼はそのレッスンで「バカ」にするどころか、理解できず、話せずにいる私を温かい眼差しで、ただ見守ってくれた。まるで歩くことを学び始めた子供を温かく見つめる母親のように、見守ってくれた。その眼差しにほだされて、私はその教室に通うことに決めた。それ以来、私の指名はA先生だ。

そんなA先生。22年間勤めたその英会話スクールを辞めるという。これからは大学で教鞭を取るとのこと。キャリアの方向性で様々なやり取りがA先生と英会話スクール側であったことは想像に難くない。しかし、いつもの温かい眼差しを崩さずに、私に退職の予定を伝えてくれた。

迎えたA先生最後の授業。テキストのタイトルは「Describe the worst experience you have had with a customer or client.」だった。私はA先生に、拙い英語で私の「Worst experience」を話し始めた。

それは会社を創業して3年目、3店舗を展開している時の体験だった。当時、私は神楽坂の店舗の店長を務めていた。金曜日の繁忙日。新入社員にレジの打ち方を教えながら、私は接客にあたっていた。その日の営業もピークに達し、新入社員がレジを1人で打った、その時に事件は起きた。彼はコース料理の人数を打ち間違え、ある団体のお客様に、いただかなくてはいけない額の半額程度で代金を請求していた。お客様に、その必要のないお釣りをお返ししようとした時に、私がその間違いに気がついた。すぐに計算をし直し、お客様に正確な会計額を伝えた。すると幹事の方が、
「ふざけるな!もうお金は割り勘で集めてしまったんだ!今更そんなことを言われても払えるわけないだろ!」
と言い、取り合ってくれない。
「本当に申し訳ありません。しかしなんとかお代を頂戴願えませんでしょうか?」
と平身低頭にお願いをする。しかしご理解いただけない。押し問答が10分以上は続いただろうか。最後にその方は、
「そんなに金が欲しいのなら土下座しろ!土下座をしたら払ってやる!」
と言った。
私はした。土下座をした。その店舗の全社員、アルバイトが見ている前で、土下座をした。
「じゃあ払ってやるよ!ほら拾え!」
と、彼はお金を投げ捨てた。私はそのお金を拾い上げた。
「二度と来ないし、絶対に許さないからな!」
そう言い捨てて、彼は帰っていった。

翌週、私は予約時にもらっていた名刺を頼りに、彼の会社を訪ねた。しかし、会議中とのことで会ってはもらえなかった。その翌日も、そのまた翌日も訪ねたが会ってはもらえなかった。私はお詫びの品を受け付けの方に渡し、今回の件を終わらせることにした。当時、私は懸命に何かを学ぼうとしていたのかもしれない。土下座をする必要はもちろんなかっただろう。そして翌日にお詫びに行く必要もなかったかもしれない。しかしとことんまでそのクレームと向き合ってみたかったのだ。このクレームを通して、商売人としての、何か「覚悟」のようなものが私に備わったかもしれない。しかし、私の「Worst experience」であることには間違いない。会計を間違えた新入社員も、ほどなくして退社していった。

A先生はいつものように、温かい眼差しで私の話を聞いてくれた。そして
「最後に私もこんな話をあなたに共有したい。」
と言って話し始めた。

それは今から22年前。A先生がその英会話スクールで働き始めた、24歳の時のこと。ある生徒を指導していると、いつにも増してその生徒が文法の間違えを犯す。その間違いを、つど正してあげていると、彼が突然、
「私の間違いを正すな!あなたは私の話をただ聞いていればいいんだ!」
とA先生を怒鳴りつけた。A先生は狼狽した。いつもはそのような態度を見せない生徒ではあったが、それ以上指導するのが恐ろしくなり、その授業の終了と同時にボスにその旨を相談した。
「もうあの生徒の指導をすることはできません。」
しかしボスの答えは「No」だった。無理やり教室に戻らされ、次の時間も同じ生徒を受け持たされた。A先生は、なんとかその授業をやり過ごし、終了のチャイムとともに教員室に戻ろうとした、その時だった。その生徒が呟いた。
「今日は最悪な日です。最愛の17歳の娘の妊娠を、今日の朝、知らされたのです。」


A先生は言う。人は誰しも怒りを感じることがある。そしてその怒りを誰かにぶつけてしまう。その怒りをぶつけられた人間は当惑する。そんな時、その怒りに対して怒りで対応すると、往々にして後悔せざるを得ない結果となる。人は後になってそのことに気づく。そもそも、誰かの我々に対しての怒りは、実は我々が原因では無いのかもしれないのに。ぶつけられた怒りの原因は、また別にあるのかもしれないのに、と。
「あなたの、そのお客さんも、何か別の大きな問題を抱えていたのかもしれないね。」
そう言って、A先生はいつものように優しく微笑んだ。

人の怒りに触れるということはしたくないものだ。その怒りに根拠が無いと思える時はなおさらだ。しかし、その怒りに対して心を痛めるのではなく、さらには怒りで対応するのでもなく「その人が何か別に大きな問題を抱えているのかもしれない」と、ある種慈しみの心を持って対応すれば、どれほど無用な争いが回避できるかわからない。そしてどれほど多くの人と、心の奥底でつながり合えるかわからない。

A先生、多くの学びをありがとう。
All the best to you!

私はこれからも英語を学び続けようと思っている。

その裏のロジック

先日、名刺を恐ろしく下に、こちらが相当に腰を折り曲げなければならないほど下の位置に差し出す、若いセールスパーソンと名刺交換をした。おそらく彼は、働くその企業での新入社員研修で、名刺は相手より下に差し出すべきである、と指導され、それを深く考えもせずに、ある種盲目的にそれを実践しているのであろう。

営業先での名刺交換で、自らの名刺を相手より下に差し出すということ。それはアポイントを受け入れてくれた先方への感謝の念と、それに伴う恐縮の意であるはずだ。それを伝える一つの手段として、相手より下へ名刺を差し出すのであろう。しかし、それがあまりに下過ぎては、自らのルールを相手に「押しつける」形となり、むしろ相手に不快感を抱かせてしまう。大切なのは「感謝と恐縮の意」を伝えることであり、「下に名刺を差し出す」ということではないのだ。

おそらく、真に優秀な人間と、学歴だけが良い人間との分かれ目は、ここにあるのであろう。決まりきったルールをルールとして順守するだけではだめだ。さらにはビジネスにおいてもそのルール、ベストプラクティスをそのままに受け入れるだけではだめだ。ルールがルールとして必要とされた、その文脈こそを読み解くべきなのだ。ベストプラクティスとなった、その裏に隠されたマーケットの真なる需要こそを読み解くべきなのだ。

例えばスターバックス。彼らが96年に日本に進出してから、多くの高価格帯のコーヒーチェーンが誕生した。しかし、それらはスターバックスほどうまくはいかなかった。おそらく模倣したチェーンは、スターバックスの成功を「高価格帯コーヒーチェーンの成功」として理解したに違いない。しかし、私はそうは思わない。スターバックスの顧客が買っているのは「高級なコーヒー」ではない。「場所」だ。しっかりと食事をするわけではないので食事メインのお店では追い出されてしまう、しかしファミレスで時間を過ごすのはさみしい。さみしさを感じずに時間をつぶしたい。その需要に応えたのだ。その意味では、実はスターバックスは、高価格帯コーヒーチェーンと競合しているのではなく、むしろ快適性を打ち出している「まんが喫茶」などと競合している、と言えるのかもしれない。

この情報社会において、表面上だけの理解だけではだめなのだ。常識的なことをそのままやっているだけではだめなのだ。その裏にある、隠されたロジックを見出すべきなのだ。ビジネスの現場ではさらにそこから仮説を導き出し、実際に試して、そのフィードバック情報から実行策をアジャストしていくが、この裏のロジックを探し出すということ、ここにこそ、生身の人間がバリューを出せるポイントがあると思う。

しかし残念ながら、このようなことを今までの日本人は少々苦手にしてきたのかもしれない。儒教を文化の背景に抱え、先生の言うこと、親の言うことを疑う事を禁忌とし、ルールを押し付け、その論理を説明せず、論理を問われればどやしつける。そんな「伝統」が日本の教育に、文化に、そして和食調理の世界に、色の濃淡はあれ今でも残っていると感じる時がある。しかし、まさにコペルニクス的転回が求められはするが、その分伸び白も大きく残されているとも言える。少子高齢社会の日本が力強く成長するために、さらにはグローバル経済の中で勝ち抜いて行くために、こんな素養を身につけておきたい。


マーケティングのジレンマ

昨年は「プロ経営者」というキーワードをよく目にした。今の実業界のトレンドを映す言葉なのかもしれない。数億円、数十億円の年収を手にし、華々しく活躍する彼ら。これは「所有と経営の分離」という流れと整合性が取れるということもあり、先行するアメリカでは「プロ経営者市場」なるものがあるという。日本もこのような時代になっていくであろうと言われている。

無論、「プロ経営者」と認められた人間の中でも、結果を出す人もいればそうではない人も出てくるだろう。現に数年前「プロ経営者」として大成功をおさめたかに見え、賞賛されていた方が、現在は全く違う評価を受けているのを目にしたりする。人の評価というものは、後世の歴史に照らし合わせてなされなければならないが、なぜ、類まれな才能を持っているからこそ「プロ経営者」であるのに、結果が伴わない場合があるのであろうか?もちろん商売とは一種の「賭け」だ。その成功確率を上げることはできても、商売の成功に「絶対」はない。だからだ、とも言えるが、私はそれだけではないような気がする。

我々は経営学に多くの学びを得ている。特にマーケティング。3C分析、5フォース、そしてPEST分析、SWOT分析、セグメンテーションにターゲティング、ポジショニング、それら環境分析に4Pでのマーケティングミックス。このマーケティングやマーケティングにまつわる事柄をしっかりと学んだのが「プロ経営者」であるのであろう。しかし、だからこその盲点もあるのかもしれない。

クレイトン・クリステンセンは著書「イノベーションのジレンマ」で、5インチハードディスクが3.5インチディスクに駆逐されたように、先行する優良企業は、商品の質を上げていく、顧客の声を聴いて商品をレベルアップさせていく過程で、それら商品よりもクオリティが下がる低価格であったり小型であったりする新興の企業に敗れていく。この破壊的イノベーションの前で、大企業や優良企業は「あまりに優れているからこそトップの地位を失う」と説いた。このような逆説が、結果に恵まれない「プロ経営者」に当てはまる場合がありはしないか?

なるほど、マーケティングは『良いものを作りさえすれば売れる』という売り手中心的な発想を思いとどまらせ、市場とのコミュニケーションの大切さを我々に認識させてくれた。しかしだからこそ、我々はどうあるべきなのか?何がしたいのか?世界をどう変えていきたいのか?そんな「あるべき論」さらには「浪漫」ともいうべき議論を忘れがちにさせてしまってはいないだろうか?「プロ経営者」があまりに優秀だからこそ、マーケティングに精通しているからこそ、失敗してしまうという矛盾「マーケティングのジレンマ」のようなものがあったとしたら、こんな皮肉な事はない。

ファーストリテイリングの柳井正氏も言うように、「経営とは意志」であるのだと思う。どんな世の中にしたいのか?世の中をどのように変えていきたいのか?これこそが経営の、実業の、根幹であるべきだと思う。そしてこの根管はロジックや経営学では学ぶことはできない。単なる「意思」であり、「想い」であるからだ。しかし、そのような単純なものだからこそ、過去の偉人はその重要性を叫んだのであろう。吉田松陰が孟子から学んだと言われる「狂夫」というものも、最終的には「意思」の狂人性を言ったのであろうし、清巌宗「狂人走不狂人走」もそうだろう。狂うほどの「意思」を持つことこそが重要であるのだ。

「手段」という技を研ぎ澄ますことの重要性はいつの時代も同じである。しかし「目的」の無い「手段」はあり得ないし危険でもある。テクニカルなもの、ロジカルなものを賞賛、礼讃する風が強い昨今。今だからこそ「意思」の重要性に触れておきたいと思う。