誰も間違っていないのに、何かが間違っている。
先日、アプリでタクシーを呼んだ。
地図上で、私は正確にピンを落としたつもりだった。しかしタクシーは、反対車線に停まった。少し困惑しながら車に乗り込み、運転手に理由を問うと、
「最短距離で来たので、こうなりました。」
とやや強い口調で説明された。ナビが示したルートや交通規則を踏まえれば、確かに彼の言い分は正しいのだろう。悪意があったわけでも、手を抜いたわけでもない。その判断は筋が通っていた。
「目的地までどう行きますか?」
と彼は聞いてきた。私には少し皮肉に聞こえた。目的地には、反対側からのほうが明らかに近かった。出発地点が違えば、道順も当然変わってくる。アプリの仕様や道路の構造上、仕方ない面があるのは理解している。であったとしても、結果として私の意図と正反対の場所にタクシーは停車した。運転手は悪くない。システムも手順も、それぞれ理にはかなっている。でも、誰も間違っていないのに、何かが間違っている、そんな違和感が残った。
このとき感じたことが、川崎で起きた事件に重なった。
長期間にわたって知人からの嫌がらせを受けていた女性が、警察に複数回相談していたにもかかわらず、最終的に殺害されるという痛ましい結果に至った。警察は「事件性がない」と判断し、介入を見送った。対応としては、種々の制度やマニュアルに従っていたのであろうことは想像に難くない。だが結果として、人の命が奪われてしまった。
この出来事に、「誰が悪いのか」を明確にすることは難しい。誰もが正しい範囲で行動していた。しかし、全体としては最も間違った結果を導いてしまった。そこには、個別の合理が積み重なって、全体としての非合理に転じる構造的な歪みがあったように思える。
誰も間違っていないのに、何かが間違っている。そんな社会に私たちは暮らしている。タクシーが反対側に来る程度なら、受け流すこともできる。だが、それが命に関わる問題となったとき、私たちは立ち止まって考え直さなければならない。
一人ひとりの正しさが、全体の正義を保証するとは限らない。その矛盾とどう向き合うかが、この社会に問われているのだと思う。
川上川下理論
「知っている」「理解している」と「体得している」は、同じようでいてまったく異なる。
この違いを実感したのは、私が料理の修業をしていた時期のことだった。たとえば、鯵や鱸の三枚おろし、平目、鰈などの五枚おろし。手順は頭では理解しているし、理屈もわかっているつもりだった。しかし、実際に手を動かすとなると話は別だった。魚の骨の位置、骨の構造、包丁の角度、その滑らせ方。それらすべてを繊細に感じ取りながら、正確に手を動かすには、経験の蓄積が不可欠だった。何度も失敗し、修正を重ね、ようやく体が覚えてくる。このとき初めて、「理解していたはずのことが、実は理解できていなかった」ことを知った。
こうした「知っているつもりだったけれど、本当には分かっていなかった」ということを、私はビジネスの場面でも何度も経験してきた。
大学時代、哲学科で学んでいた私は、卒論で「人生論」をテーマに選んだ。「人生とは、願望を実現するプロセスである」と定義し、自分なりに論文をまとめた。ゼミの指導教授は、その論文に目を通し、一通りの感想を述べた後で、静かにこう言った。
「時には、人生に休息も必要ですからね。」
当時その言葉を聞いて、「それは当然のことだ」と思ったし、意味も理解しているつもりだった。けれど実際に社会に出て、経営という現実の中で浮き沈みを経験するうちに、その言葉の重みがようやく心に染みてくるようになった。努力だけではどうにもならない局面。冷静に立ち止まり、状況を俯瞰して判断する力。人生にも、事業にも「休息」という選択肢が不可欠であるということを、年齢と経験を重ねた今、ようやく理解できるようになってきた。
ビジネスの現場で、特に印象深かった学びがある。それが「川上川下理論」だ。10年以上前、当社の社外役員を務めていただいていた方から教わった理論である。ある日、問題のある社員について相談した際、その方は私の話を一通り聞き終えたあと、やわらかく微笑みながらこう言った。
「坂井さん、“川上川下理論”ってご存知ですか?現場で起きている問題は、すべて経営層の判断や姿勢の結果なんです。川上で決めたことが、そのまま、どんぶらこと川下に流れていくんですよ。」
その言葉を聞いた瞬間、「そんなの当然のことだ」と反発に近い気持ちを抱いたのも事実だ。
しかし、それと同時に、頭を棒で殴られたような、冷や水を浴びせられたような衝撃も受けた。もちろん当時の私も、「企業は経営者次第」ということは知っていた。経営者次第で会社は大きくもなるし、小さくもなる。だが、その「責任の重さ」や「影響力の大きさ」を、本当の意味で体得していたかと問われれば、当時の自分にはまだ覚悟も自覚も足りなかったと思う。あれから10年以上が経ち、さまざまな事業を立ち上げ、困難な局面を乗り越えてきた。今でも、あの「川上川下理論」の言葉は、折に触れて思い出す。そして、あのときよりも今の自分の方が、少しだけ「体得」に近づいている――そう思いたい。
ビジネスにおいて、知識は重要だ。しかし、本当の意味での「理解」を形づくるのは、現場に根ざした実践と、そこから得られる経験である。「知っている」と「体得している」。この二つの間には、越えるべき深くて大きな溝がある。
私は今もなお、その溝を少しずつ埋めながら、歩み続けている。
今思うこと。
コロナ禍が収束しない。「来年も桜は咲きますから。」と自粛した花見は、今年もできなかった。「短期集中で」行う、とされたゴールデンウイークの緊急事態宣言は、未だに続いていて、再々延長までなされた。日本がコロナウィルスの影響を受けてから早や1年以上。諸外国と比した時に、桁違いに少ない感染者数であるにも関わらず、医療が崩壊寸前なのだそうだ。であるなら、コロナ病床数を増やすことに注力すべきなのではと思うが、ほぼ増えていない。
このコロナ禍が、日本人がどれほど非常時に弱いかを浮き彫りにした。それがある種、国民性として存在しているのではないかと感じたので、そのあたりを今回生じた問題点を元に考えてみたいと思う。
まずは「戦略の欠如」だ。戦略を立てる上で重要なのは「何をやるか」ではなく「何をやらないか」を決める事だ、と楠木健氏はその著書「ストーリーとしての競争戦略」で語っている。戦略は、何を立てて何を立てないのか?その犠牲を強いる部分を決めるからこそ「戦略」になり得るのだ、と教えてくれている。しかし日本の対応はどうだろう。Go Toトラベル、Go Toイートの施策(これも、必要としている業界に直接お金は流れず、癒着を思わせる企業、関連団体にお金が流れていることに疑問を感じているが、ここでは触れないこととする)と感染対策を同居させる発想には驚いたが、挙句の果てに、緊急事態とオリンピックの開催やその準備を同居させるとはどういう了見なのだろうか。これは、アクセルとブレーキを同時に踏み込むことと同義である。感染対策という車は全く前に進まないのに、ガソリン(税金)は垂れ流しなのだから始末に負えない。
次に、やる事成す事「Too Little Too Late」であるということも印象的だ。アメリカのコロナ対策は、極めて早く、資金援助も十分なものだった。PPP(Paycheck Protection Program)によって、融資という形で銀行から直接、速やかに企業へ資金を供給。人件費や家賃などに費やした分は返済の必要のない事実上の補助金で、これをもってフードサービス業界を救済した。その補助金の支給額は当然企業規模別である。日本の補助金は1年近く規模別ではなく、企業ごと一定額であったため、個店には過分な額であった一方、チェーン企業には赤字を補填するには全くもって不足する額であった。結果、規模の大きな企業であればあるほど大きな赤字を垂れ流し続けた。最終的には日本の補助金も規模別となったが、時既に遅し、複数の大手外食企業が大規模増資を余儀なくされた。現在、アメリカはワクチン接種も急速に進み、経済も平静を取り戻しつつある。一方の日本、ワクチン接種率は先進国最低水準である。そもそもコロナ発生後の中国からの入国制限も後手に回り、昨今のインド型変異株対策のためのインドからの入国制限も遅れた。少なくとも諸外国に先立って入国制限を行うという事は出来なかった。この5月末に出された、アメリカの速やかな日本への渡航中止勧告とは対照的である。
そして「組織の縦割り、連携不足問題」。飲食店への時短営業協力金の国と都のちぐはぐな動きは、本当にストレスを感じた。国は大企業には出す、都は大企業には出さない(後に撤回)、国はデパートには休業要請をしない、都は休業要請をする、などなど、多くの企業が、ぎりぎりまで対応の判断がつかない状況となった。また、各種補助金の申請先が、都道府県、市区町村、厚生労働省とそれぞれあり、当然書式も違い、補助金対象となるならないも微妙に違い、申請にかなりの手間と時間が求められた。(補助金の甚だしい支給遅れはToo Little Too Late問題と言えるだろう。)PPPで、手間、スピード、規模、全てを両立させたアメリカの補助金制度との対比が、非常に印象的である。
最後に、悪しき「平等主義」である。先日ニュースで、日本のとある島のワクチン接種が完了した、ということが報じられていた。現在ワクチンは、感染者数などに依らず、全国の都道府県に満遍なく配布されている。緊急事態宣言下において、人の往来を抑制しているのにも関わらず、離島のワクチン接種を早期に完了させることに、どれほどの意味があるのであろう。大都市中心に感染が拡大し、大都市中心に医療がひっ迫しているのなら、大都市中心に接種を進めることが重要であるし、それこそが「平等」であると思う。出走者全員で手をつないでゴールさせる運動会の徒競走を想起させる、本来の民主主義的平等と全く相いれない、異常な「平等主義」である。
このように列挙すると、日本人の特徴が良くわかるのではないだろうか?非常事態においても戦略無しで物事を行い、やる事成すこと小さ過ぎて遅過ぎる。縦割り組織の中で融通が利かず、異常なまでに「平等」にこだわる極めて残念で頼りにならない人、それが日本人だ。だからこそ戦争には負け、バブル崩壊では失われた20年となり、福島の原発も「Under Control」に置くことが出来ず、いまだコロナも収束しないのだろう。日本人は「国民性」として、異常なほどに危機対応が下手なのだ。
太平洋戦争時「兵は一流、指揮官は三流」と言われた日本。現代のリーダーも「三流」であるからこそ、先進国最低のコロナ対策となったのであろうか?私はそうは思わない。我々は一部の為政者やリーダーだけに責任を押し付けるべきではない。為政者の意思決定は、確かに「三流」であったかもしれない。しかし「一流」の「兵」(日本国民)が意思決定していても、しょせんは同じ穴の狢、似たような意思決定となっていた事は想像に難くない。諸外国は今回の日本の感染対策を、極めて典型的な日本人らしい危機対応、と評するだろう。このコロナ禍を「喉元過ぎれば」にしてはいけない。今後、隣国からミサイルが飛んでくるような事態が発生したら、この国は本当にどうなってしまうのであろうか?冒険投資家ジム・ロジャース氏は、氏が日本の若者であったら「日本を飛び出すか、AK-47を手に入れる」と言ったが、これはもう笑い話では済まされない。いまだコロナ禍ではあるが、いやコロナ禍の真っ只中であるからこそ、危機対応においても日本が「一流」であるためにどうあるべきか、議論を深める必要がある。

