日本の、世界の、食の常識を超えていく。 -4ページ目

憧憬の人

前回のブログで自分を「変わり者」と呼んでしまったのは、いささか言い過ぎだったろうか。

「御社の社長さんは、変わり者なんですか?」

と社員が聞かれるらしい(笑)。皆様、少なくとも自分では常識人であると信じているのでご心配なく。いや、自分で常識人だと言い張る人間が一番危ういのだろうか(笑)?



最近、事あるごとに思う。人間の真価を分けるのは、その人の「本気」だなと。曖昧な言い方が気に食わないが、あえて言うなら「人間力」と言い換えられるかもしれない。

以前は「頭の良い」人間に嫉妬した。その知識に、記憶力に、表現力に、さらには社会から歓迎されているであろう事に嫉妬した。しかしいつからだろう。嫉妬をおぼえることが無くなった。

それは、人間の「頭の良さ」にも限度があり、その幅がある程度は見えてきてしまった、という人生経験から来るものかもしれないし、社会人として日々奮闘するがあまり「他人のことなど気にしていられない」という視野狭窄なのかもしれない。いずれにせよ、嫉妬することも、自分と比べることもなくなった。



しかし、憧れるもの、私が身に纏いたいものはある。それは「迫力」だ。一つ事を徹底追求する、自らの全てを投げ打ってでも達成したいものを持つ、男の「迫力」だ。



私が初めて男の「迫力」に接したのは大学3年の時だと思う。当時は既に起業を志してはいたが、まだ自分の人生をいかに歩んでいくかはもちろん、自分がいかなる人間なのかさえ分かっていなかったように思う。そんな大学3年生の私が、同好会テニス部の部長をしていたからか、はたまたそのテニス部のOBが要職に就いていたからか、湯島にあるスポーツ用品メーカーのヨネックス本社を訪ねたことがある。恐らくマーケティングリサーチの一環だったのだろう。各大学のテニス部部長が様々なモニタリングを受けていた。そんな、多くの人が集う場で、私はいつものようにあまり発言もできずに、会はお開きになった。一階に下るエレベーターを最後の一人となって待っていた時に、その時はおとずれた。私がエレベーターを待つ、その横の部屋から、ヨネックス創業者であり当時社長の米山稔氏が、客人を見送るために出ていらしたのだ。私は小学生時代からテニスに親しんできたので、米山氏のことを知らないわけではない。が、大変失礼だが深い思い入れがあったわけでもない。しかし、その想像よりも小さな背丈からは、何か「意思の強さ」としか言えないような、何とも言葉にできない「プレッシャー」を私は感じた。そして次の瞬間、米山氏はその客人に頭を垂れたのだった。たぶん、その客人はヨネックス社にとって「要人」でないことは、米山氏を取り巻くその他の方々の立ち居振る舞いで分かった。しかし、米山氏の頭の垂れ方は、その他の方々とは全くもって違った。その直立した姿勢から、腰から深々と頭を垂れた姿に、米山氏の過去の「苦悩」と「苦闘」が表れていた。一つ事を追求する人間の「自信」と「プライド」が表れていた。そして社業隆盛への節なる「想い」、「願い」が表れていた。それらが混じり合って、光輝く、男の「迫力」となっていた。大学3年の私は、たじろいだ。社会に生きる男に畏怖した。



あれから15年以上が経った。まだまだ道は長いなと思う。いや、長いということすら、先を見通せないがために実感できない有様だ。これから「苦悩」や「苦闘」が待ち構えているのだろう。しかし、あの「迫力」に少しでも近づけるのであれば、これほど素晴らしい人生はないなと思う。

「頭の良さ」も何もいらない。私は、あの「迫力」が欲しい。

変わり者

「親の顔を見てみたい、とずっと思っていたんです。でもお子さんと違って、お母さんは意外に常識人なんですね。」

小学校3年時の担任の教師は、家庭訪問で、そう私の母に言ったという。

私は、小学校高学年時には教師から毎週のように平手打ちを受け、高校時代にも教師から殴られたことがある。今であれば大問題になるような体罰であったのだが、なぜ私がそのような体罰を受けることになったのかと言えば、上記の教師の言葉に象徴されるように、私が相当な変わり者であったからなのだろう。今でも私は少し「変わり者」であると思う。しかし、「変わり者」であることで平手打ちを受けるようなことは無くなった。いやむしろ「変わり者」であることで社会から一定の評価を頂けていると思う。

私が社会人になって一番印象的だったこと。それは学生時代に、あれほど求められた、他者との同一性というものが全く求められないということだった。実社会において、ビジネスにおいては「他者(他社)との違い」こそが最高のバリューになる。「変わり者」が大手を振って活躍できる場が実社会だと思う。

現代世界において、社会主義、共産主義は世界で多くの矛盾を露呈している。であるにもかかわらず日本では、その見地から発言、発想する人間が少なくない。それは、知識人と呼ばれる団塊の世代に多く見受けられる。私はこれを今まで、団塊の世代が青春時代に専心していた学生運動を引きずっているからだと考えていた。人生におけるある種のサンクコストとして、彼らの学生運動があるのではないかと考えていた。しかしどうもそれだけでは無いようだ。

「日本という国は古来、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かち合いながら、秋になれば天皇家を中心に五穀豊穣を祈ってきた瑞穂の国」と安倍晋三氏は言ったが、このような文化に端を発する平等主義が日本には備わっている。そしてこの平等主義は、行き過ぎると、悪しき均一化主義となってしまう。私が学生時代に感じた、教育現場に漂っていた「変わり者」を排除しようとする空気。あれも均一化主義に「堕落」してしまった、日本の村社会の縮図だったのではと私は考えている。この均一化主義こそが、教師に平手打ちをさせ、昭和の初めには、勝ち目のない戦争を肯定させ、3.11の大地震時には看板を点灯しているのは「不謹慎」という言葉を日本人に吐かせたのではないだろうか。この平等主義、均一化主義なるものが文化としてあった日本で、社会主義と出会った団塊の世代が、その理論に酔いしれたのは当然であろうし、その理論が今でも彼らの精神性を支えていたとしても不思議では無い。

五穀豊穣を願い、他者を思いやる文化の美しさは認める。しかし、その表裏としての均一化主義というのであれば、日本にとってその損失はあまりにも大きい。今こそ日本人は、美徳はそのままに、似非平等主義たる均一化主義から脱却すべきなのではないか。日本の文化、経済の潮目が変わりそうな今こそ好機だ。フランスの経済学者、J.B.セイは、今日とは違う未来をつくるというリスクにかける者、それを企業家だと言った。国作りも一緒だろう。これまでの連続性の上に無い文化を創ることができれば、大きなバリューを日本は手にすることができると思う。

反抗期

最近、試食会を目黒の弊社店舗で行うことが多い。ある晴れた日曜日、その日も新しいコース料理の試食が目黒であった。試食会終了後、地下の店舗から地上に上がると、都心の日曜独特の、澄んだ空気が僕を迎えてくれた。冬の合間にのぞかせた温かな日差しにも誘われて、自宅のある南青山まで歩くことにした。

目黒から白金のプラチナ通り、そして広尾を抜けていくと、いろんな光景が目に入ってきた。外国人の集う、雰囲気の良いデリカテッセン。客は見あたらないが、時代や様式の幅や奥行きを感じさせるアンティークの家具屋。ビンテージとおぼしきオープンカーに乗って、外苑西通りを走る老夫婦。そんな光景が、辺りに平和な空気感を漂わせていた。おそらく、50年後も、そして100年後も、店は変わり、車は変わり、人は変わってはいても、こんな平和な日常がここにはあるのだろう。しかし、50年後はともかく100年後、自分は確実にこの場にいないし存在さえしていない。跡形もなくこの世からいなくなっているのだ。そう思うと、何かもの寂しい気分になった。人間とは実に儚い存在である。天現寺交差点の歩道橋から見える、夕日のあたる都営広尾5丁目アパートが、やけに美しく感じた。


幼少の頃、幼稚園生くらいの時だろうか、自分の体は仮面ライダーか何かのように機械でできているのではないかと夢想していた。自分の体が朽ちていくイメージが全く持てなかったのだろう。しかし、時というものは厳然としていて残酷な存在だ。残念ながら、わずかではあっても、朽ちていくイメージが持ててしまう年齢に私もなってしまった。


きていく、年齢を重ねていくということは、様々な決断の連続だ。しかし、最近まで私は、決断という行為が他の可能性を摘む行為であるということを知らなかった。人生の様々な場面で、決断、選択、を重ねることによって、人はそれぞれの方向に収斂していく。その善悪良否にかかわらず、いずれにしても一つの方向に収斂していく。それを最近ふと寂しく思うこともある。若い頃は様々な可能性に心弾ませるものだ。私も色々な夢を抱いていたが、気付けば、そんな可能性を論ずる歳ではなくなってしまった。


左官職人の挟土秀平さんという方がいる。the 3rd Burgerの左官において大変お世話になった方だ。私には挟土さんと深くお話した経験がない。打ち合わせ、そしてパーティーの席でご一緒した程度だ。しかし私は、彼にお会いする度に、「迫力」ある「背中」に気押される。それは、一つのことを極めようとする、そのこと以外は一切顧みない、一途な、真剣勝負をする、大人の「背中」だ。そこには、自らの決断で人生を一つの方向に収斂させていった、本物の「迫力」があるのだ。彼の作品の「迫力」も、そこから来るものなのだろう。the 3rd Burger の版築の壁しかり、ペニンシュラホテルの25メートルの吹き抜けの壁しかり。一つの道を徹底して突き詰めているからこそ、人を感動させる仕事ができるのだ。


人は弱い。恐ろしく弱い。しかし、無知の知も、自らの無知を認めたところから新たなる知が生まれたように、弱者の弱者たる認識から始まる、力強い生もあるだろう。私は生きてきた証を残したい。足跡を残したい。一つの道だけを突き詰めることで残していきたい。証や足跡、それが悠久の時の流れの前では、永遠に残るものでもなく、平和な日常に刻まれるものでもないということは私にもわかっている。しかし、たとえそうであったとしても、私は残していきたい。
残酷な、時の流れに対する、私のささやかな反抗である。