和歌山県にある高野山金剛峯寺といえば真言宗の総本山として有名ですが、その中にある奥之院という墓域には、全国の戦国大名が立てた石塔が多数あります。そこには豊臣秀吉とその一族の石塔も11基あるのですが、最近になって高野山大学の木下氏という職員の方が石塔ごとの詳細を調査されました。
11基のうち秀吉本人のものが中央にあり、その手前に10基の石塔が並んでいます。ただ秀吉のものは昭和14年(1939年)に豊公会という当時の秀吉のファンクラブの皆さんが立てたもので、意外にも11基の中では最も新しい石塔となります。次に残りの10基(以下に①~⑩で示します)についてですが、向かって左に位置するものから順に説明していきます。
①銘文なしの石塔:秀吉が活躍した安土桃山時代に立てられたものですが、残念ながら銘文がまったく見えないため誰の石塔か不明です。
②智(秀吉姉):秀吉の姉が生前の天正20年(1592年・息子豊臣秀次が関白に就任した年)に自らの石塔を立てました。
③法名のみで誰のものか不明な石塔:慶安4年(1651年・3代将軍徳川家光の治世)に亡くなった法性院という女性のもので、相模国(今の神奈川県)の武士だった浅野清兵衛友重という人が立てました。秀吉正室の実家である浅野氏の関係者の可能性がありますが、豊臣秀長正室の石塔の隣に並んでいますので、秀長夫妻の関係者の可能性もありそうです。
④豊臣秀長正室:秀長の正室である慈曇院が、夫が死んだ天正19年(1591年)閏1月の100日後に立てた自分のものです。つまり彼女は1620年に亡くなっていますので、夫の死去を機に自らの生前に立てたことになります。
⑤豊臣秀長(秀吉弟):亡くなった100日後に正室により立てられました。
⑥仲(秀吉母):亡くなる5年前である天正15年(1587年)に自ら立てたものです。彼女はこの時に高野山の中に青巌寺という寺を建て、自らの生前葬をしたそうです。
⑦浅野長勝(秀吉正室の養父):秀吉正室北政所お寧の養父浅野又右衛門長勝のもので、彼が死んだ天正3年(1575年・秀吉が長浜城主になって2年後)に立てたとしています。ただ秀吉の主君織田信長は当時高野山のある紀伊国(今の和歌山県)とは敵対関係にありましたから、仲がこの地に自らの石塔を立てた時に長勝のものを改めて立てたのかもしれませんね。
⑧豪姫(秀吉養女):前田利家が実子のいない秀吉夫妻に譲った娘で、成人すると宇喜多秀家に嫁いでいます。ただ秀家が関ヶ原の戦いに負けて八丈島へ流罪となってからは、実家の前田家に戻りました。これも彼女の生前である慶長20年(1615年・大坂の陣で豊臣家滅亡の年)に自ら立てたものです。どのような心境で立てたのか、非常に気になりますね。
⑨鶴松(秀吉息子):天正19年(1591年)8月に僅か3歳で死んでしまった秀吉の息子のものです。鶴松の守役だった浅野長政(お寧妹の夫で豊臣政権五奉行)が立てたようです。
⑩寧(秀吉正室):以前は淀殿(秀吉側室・茶々)のものと言われていましたが、天正17年(1589年・鶴松誕生の年)に立てられたことから、今では正室のお寧(北政所)が生前に自らの石塔を立てたとされています。
※以上のように生前に立てたものばかりですから、遺骨や遺髪などが埋葬された正式な墓所とは、当然ながら少し意味合いが違います。おそらく秀吉母の仲が最初に自らの石塔を立て、それに倣って子供や嫁が続いたのだと想像しています。どのような人物か不明な①と③が気になりますが、化学が発達して消えてしまった銘文が解読できる日がもしかしたら来るかもしれません。特に法性院という女性は、私自身も調べてみる価値がありそうです。