昨日の投稿では、豊臣秀頼を守ってくれると期待された「関ヶ原勝ち組の豊臣家恩顧の大名」たちの多くが、徳川家康よりも早死にし、大坂の陣に間に合わなかったことを紹介させていただきました。
ところが、そんな彼らより、もっと強力な親秀頼派がいたのです。それは、次男にもかかわらず実父徳川家康から嫌われ、養父豊臣秀吉から愛された悲劇の武将、羽柴(結城)三河守秀康(1574~1607)です。
秀康の母は、家康がまだ遠江国浜松城主だった頃に湯殿で手をつけた於万という女性でした。 家康の正室築山殿は嫉妬して、懐妊中の於万を裸にして縛り上げ城中の一隅に捨てました。これを家康の重臣の一人である本多重次が助け出し無事に出産させたといいます。家康も秀康をあまり愛さなかったようで、当初は自分の子として待遇せず、面謁さえ許しませんでした。これを不憫に思った家康の長男徳川信康が、無理やりに父子の対面させたほどでした。
このように不幸な境遇で育った秀康は11歳の時、家康から豊臣秀吉への人質として大坂城に送られてしまいます。この時、長男信康は既に死んでおり、一番年長で徳川家を継ぐべき地位にいたはずの彼を、多くの弟がいたのにあえて人質に出したのですから、家康は本当に彼を愛していなかったのでしょう… 不安な心持ちの秀康を待っていたのは、良くも悪くも感情豊かな天下人豊臣秀吉です。秀康の不幸な生い立ちについて当然耳にしていただろう秀吉は大いに同情して、胸襟を開いて彼を受け入れ、愛情を注いだことでしょう。秀康も、実父とはあまりににも異なる秀吉の暖かさに感激したものと思われます。秀吉は、秀康を己の養子の一人として、従五位下 羽柴三河守秀康と名乗らせました。
その後、秀吉に実子鶴松や秀頼が誕生したため、彼は秀吉の命により下総国の大名結城氏を嗣いで10万石の大名となりますが、きっと秀吉への恩義を忘れずにいたことでしょう。
秀吉死後の関ヶ原の戦では実父家康に味方した秀康は、一躍越前国68万石の大大名となりました。ところが、征夷大将軍になった実父家康は、二代将軍に秀康の弟である秀忠を任命しました。
彼は家康の側近本多正信に向かって、
我こそが徳川家惣領であるのに、弟秀忠を家督としたのは何故か?
と詰め寄りました。正信は、
秀康様は、いったん太閤の養子となられた事ゆえ
と返答しました。秀康は憤然としてこう言い放ったといいます。
よし、さらば自分は徳川家の者でなく豊臣家の者として、義理の弟である秀頼殿を助けよう。万一、大坂城の秀頼殿に対して不軌を図る者があれば、自分は大坂城に立て籠もって一戦し、秀頼殿と共に死のうぞ!
残念ながら秀康は関ヶ原の7年後に病死してしまいますが、彼の武将としての器量が一流であっことは、当時の誰もが認めるほどのものだったそうです。次のようなエピソードがあります。
■秀康が家康と伏見城で相撲観戦をしていたとき、観客たちが相撲に熱狂し興奮状態になり、どうにも収拾がつかなくなりました。すると、秀康が観客席から立ち上がって、観客たちを睨みつけました。その威厳に、観客の誰もが驚き、騒ぎは一瞬にして静まったそうです。この秀康の威厳に家康は驚き、
今日の見物ある中に、三河守の威厳驚きたり!と、叫んだといいます。
既に秀忠に征夷大将軍の座を譲っていた家康の心持ちは、さぞ複雑だったに違いありませんね(笑)