はじめに

こんにちは、ひでちぇろです。

 

毎度ながらお久しぶりで恐縮です。

今回は「引き寄せの法則」について書いていきます。

 

先ほど本棚で数えたら、

このテーマについて、これまでに50冊以上の本を読んできました。

思った以上に色々読んでいた反面、

正直、

この知識を生かせている実感がありません。

そして似た感想を持っている方(お仲間?)は、

たくさんいらっしゃるのではと想像します。

だからこそ、

今回はこの引き寄せの法則について、

何回かに分けて掘り下げてみたいと思います。

 

なぜ引き寄せの法則か

引き寄せの法則をテーマとしたのは、

このブログでは精神世界の観点から音楽を紐解いてきたからであり、

精神世界という意味では引き寄せの法則は避けて通れないテーマだからです。

 

音楽分野に限らず、

例えば稲盛和夫や松下幸之助といった日本の偉大な経営者たちも、

仏教や神道のような宗教をバックボーンとして、

引き寄せの法則に近いポジティブな思考や信念によって成功を収めてきました。

 

また最近では9×9マスの目標達成シートを使った大谷翔平さんなども話題になっていますが、

これも、ゴールの明確化の手法として、

引き寄せに近いことをしているのだと思います。

 

ですので、音楽分野に限らず人生全般の向上のために、

この分野の知見は必要なものという感覚はおかしくないと思っています。

 

未来の原因作り、コントロール

ところで、未来はどうやって形作られるのでしょうか。

 

そして、

引き寄せの法則で示される方法で人生はどこまでコントロールできるのでしょうか。

 

答えは、人それぞれ異なるかもしれません。

また、現代の科学ではまだまだこれらを証明できることはできません。

しかし、

未来を改善するこの方法についてメカニズムを仮定しながら考えること自体は有益であると考えていますので、

自分なりに考えを明らかにしていきたいと思います。

 

もしかすると、これが皆さんのお役に立つかもしれません。

 

引き寄せの法則を再確認し生かす

次回以降このブログで引き寄せの法則について音楽と精神世界の観点から書いていく予定です。

皆さまにもお付き合いしていただければ幸いです。

 

まずは、この思想の源流を探ります。

 

その後、科学や量子力学との関係、

 

輪廻転生との整合性についても触れたいと思います。

 

そして、

最終的にはこれらの思想をどのように音楽に生かすことができるのかを考えていく予定です。

 

まとめ

引き寄せの法則は、

えせスピリチュアルとかで片付けられることも多いですが、

科学の側が追い付いていないだけで、

真理を含んだ重要なテーマだと感じます。

 

これから何回か分けてこのテーマを深掘りしますので、

皆さんにお付き合いいただければと思います。

 

それでは。

こんにちは、ひでちぇろです。

 

今回は音楽とお金の関係についてです。

 

以前、国や大企業に影響を受けない

横のお金の流れが大事だと、

何度か書きましたが、

今回はまた違う角度から書いていきます。

 

 

まず、

音楽とは?

お金にとは?

ということで定義を考えます。

 

 

まず音楽の定義から。

目に見えない領域を科学的に研究し、

教育学者でもあった、

ルドルフ・シュタイナー先生によると、

 

「音楽家は、神の意志の脈拍が世界を貫くのを直接聴く。

神の意志がいかに表現されているかを、音楽家は知覚する。」

 

ということで、

「神の愛の様な領域に直接触れることで幸福を感じ、

それを分かち合うこと」、

が音楽であると定義します

 

 

次にお金。

かの偉大な経済学者、カール・マルクスによると、

(詳細は長いので省きますが)

お金は、

交換手段、価値の尺度、貯蓄手段である

とのことです。

 

人を幸せにできるエネルギーを数値化したもの、

交換したり、貯めたりできるもの、

がお金であると定義します。

 

 

 

ここでまず、

音楽を価値とし、

お金を交換手段とすれば。

音楽という価値とその他の価値とを交換するのが

お金ということとなります。

 

楽譜、演奏、映像、音などの音楽という価値が、

お金との交換でだれかの手に渡ります。

ちなみに、ここで言う価値は、

商品価値としての価値、

人にとって有用であること

のようなニュアンスです。

 

ここまでは、抽象的ながら

当然というか当たり前の話です。

ここでもう少し具体的に見ていきます。

 

 

 

音楽における価値の交換について、

3パターンに分けてみます。

 

 

まずパターン1。

愛はお金に変わらないパターンです。

 

世の中には値段のつけられないものがたくさんあります。

笑顔、

あいさつ、

家族愛(ペット含む)、

ボランティアなど無償の愛、

などなど。

 

シュタイナーの言葉から考えると、

音楽も神の愛が表現されたもので、

神の愛ならば無償ということになります。

(神の愛の有料化はNGという立場です)

 

アマチュアオーケストラなども

無償でチケットを配りますが、無償ですね。

 

神の愛という性質をともなった音楽だからか、

本来は価値が伴っているのに、

タダでよいと勘違いされるケースもありそうです。

 

 

次にパターン2。

単純な等価交換です。

演奏して、その対価をもらう。一対一の交換です。

 

ただ、その技術を獲得するまでの訓練や、

膨大な準備の時間がすべて含まれるのではなく、

あくまで受け取り側が幸せになれる度合いに応じての、

対価であるお金との交換となります。

 

なので、労力に対して割に合わないことが多いかもしれません。

 

 

そして、パターン3、

ストーリに大きくお金が動くパターンです。

 

個人の生い立ち、生き様、志向、

キャラクターなどが強い個性となり、

それが音楽と組み合わさって、

ひとつのコンテンツとなって、

受け入れられるパターンです。

 

元々人間は、脳科学的に見て

物事の判断を99.9%以上感情でする人間です。

 

キャラクターとストーリー(音楽とは別の)は

人の感情を大きく動かしますので、

お金も大きく動きやすいものと考えられます。

 

クラシックでも、

〇子の部屋によく出るレベルの方々なんかは、

その代表かと思います。

 

 

 

3つのパターンに分けて考えてみました。

音楽そのものは神の愛ですが、

お金は愛だけではそれほどは動かない様です。

 

つまり、お金は主に魅力(好きという感情)によって動く

ということです。

 

音楽の純粋に人を幸せにする機能に加え、

何かの意志、個性、そして人生があって、

感情は強く動くものです。

共感ということなのかもしれません。

 

人は音楽に感動するだけでなく、

同時にその音楽の作り手に共感したいのでしょうね。

 

個性と音楽の両方が抜きんでていると、

歴史に名を残すような音楽家になるのかと思います。

 

チェリストだと、

カザルスやデュ・プレ。

ロックだと、プレスリーとかビートルズとか。

(例が豊富でなくすみません)

 

 

つまり、音楽を通してお金と付き合う場合、

 

・神の愛に基づいた奉仕(人や神への)で多くのお金は期待しない。

 

・ストーリーを前に出して相手の好むコンテンツ作りをして、

 トータルの魅力を作って楽しんで頂き、

 お金もいただく。

 

・両方考えつつどちらかを優先優先度を自分なりに決めて活動する。

 

のどれかを、

覚悟を決めて選ぶことになるのかと思います。

音楽を求道的に極めたからといって、

収入が少ないことを嘆くのは少しおかしなことです。

 

お金を得ることが主目的の場合、

聴き手の感情の満足を第一

としなければならないということになります。

 

 

ということで、

音楽は人を幸福にするもの。

お金は価値の交換。

魅力という付加価値をつけて初めてお金が動く。

というお話でした。

 

なお、

自分はアマチュア演奏家なので、

ほとんどお金は動きません。

 

ただ真面目に音楽をやっているだけでは人が集まらない。

自分(または自分達)が個性を出し、

ストーリーを作って楽しむことの大事さを、

認識して活動していきたいと思います。

 

 

それでは。

 

こんにちは、ひでちぇろです。

 

死にたいとは物騒な表題ですが、

この気持ちを持ちながら生きている方も

世の中には一定数いると思われます。

 

自分に

とって状況があまりに辛く、

生きたくない、

しかし死にたくもない。

という死を意識しながら板挟みの状態ですね。

 

これと同じ状態がクラシックの曲の中にも存在します。

特に私の経験上でよく表現されていると感じるのが、

バッハとマーラーです。

 

 

日常からはかけ離れた、死にたいけど生きたいという状況に対して、

現代において共感や救いを与えてくれるものは少ないのかなと思います。

 

中世までの宗教、近代までの理性と科学も、

二度の世界大戦で否定され、

これらの大きな物語は崩壊しました。

よって現代は、

自分の物語を自分で創らざるを得ない時代です。

なので、生きる苦しみを一人で引き受けざるを得ないのも必然かもしれません。

 

しかし、

死目前の精神状態であっても、

現代においてなお救済される物語を示してくれるのが、

先ほど挙げたバッハやマーラーの音楽です。

 

特にこの二人はクラシックの中でも節目のポジションにいます。

ここでインド三神による宇宙の創造の三段階である、

創造、維持、破壊をクラシックに当てはめるます

(ちょっとかけ離れたインドですみません)、

 

創造:バロック音楽でバッハが完成

維持:古典派、ロマン派でマーラーが完成

破壊:現代音楽で破壊が進行中

 

ということで、節目で大きな仕事をした二人は、

生き死にのレベルで説得力がある、というのが私の見解です。

 

 

ここで私個人が、バッハとマーラーに救われた経験を書きます。

 

まず一つ目。

会社に就職してから3年目くらいの頃の話です。

 

私の仕事はプラントの設計をする技術者なのですが、

当時仕事では間違いだらけで、納期も守れず、書類も管理できず、

毎日が針のむしろでした。

しかも残業させられ放題だったので、本当に生き地獄でした。

 

死を意識しつつ、死ぬこともできない、本当に限界状態でした。

 

ある時、西湖に入水自殺できないか(富士五湖が好きだった)と急に思い立ち、

実際に車で西湖のほとりまで行って、

車の中でどうしようか悶々としていました。

 

結局なにもせずに車でそのまま帰って来たのですが、

帰りの高速でかけていたFMラジオの音楽がなにやらマーラーっぽい音楽で、

破滅的な状況から少しずつ紆余曲折を経て、

第九を超える様な歓喜と勝利の大合奏と大合唱となって曲が終わりました。

マーラー作曲の交響曲第二番「復活」でした。

 

この時、死目前状態の最底辺の状態から最後は歓喜し勝利した状態に至る物語を、

リアルに体験でき、人間最後は祝福されるんだと深いところから感じることができました。

 

二つ目ですが、

こちらは、自分が演奏する方で、

バッハの無伴奏チェロ組曲の1番から6番の全曲を、

一人で弾いて録音した時の話です。

 

救われたのは バッハによる曲のストーリの構成です。

バッハの曲は特にですが、

 

日常

→雲行きが怪しくなる

→困難に直面で苦しくなる

→一段成長して自由を獲得

→成長した後元の日常に戻る

 

という様な感じの成長ストーリーになっています。

これを自分で音にすることで、

仕事での死にたくなる様な状況もいつか抜け出せるということと、

この苦しい状態は自分だけではないと、

身体で感じることができました。

 

バッハだけにできるストーリーの誰にでも通用する普遍性

と精密さがあってこそでした。

 

録音はとても人には聴かせられないものですが、

3年くらいで全曲録音し、

人間の成長とか生きる意味と音楽を繋げられる様になりました。

また成長過程での苦しみは自分のことだけではないんだということが、

分かる様になりました。

 

 

私としては、

クラシック音楽において、

人間、そしてそれと相似な宇宙の成長発展のサイクルの表現を、

バッハが生み出してマーラーで完成させたと感じています。

その後は現代音楽次の成長に向けて破壊が始められたのかなと思っています。

 

 

お金が宗教(一番信じられている)になっている時代に、

バッハとマーラーにある意味命を救われたと思い、感謝しています

この二人の作曲家は一生最優先で付き合いたいですし、

良さを伝えていきたいと思います。

 

 

死にたいけど生きたいなら、

バッハとマーラーを聴こうというお話でした。

 

それでは。

こんにちは、ひでちぇろです。

前回のキリスト教つながりで、
今回は「GODと音楽」です。


「GOD」の語源は一説(あくまで一説ですが)
によると、
インド3神の役割から来ているのではないか
という考え方があります。

3神の役割とは、
・ブラフマー 創造の神(Generator)
・ビシュヌ  維持の神(Operator)
・シヴァ   破壊の神(Destroyer)
です。




これらの頭文字から「GOD」となります。
この世は創造、維持、破壊の繰り返しということですね。
そして音楽はまさに、この「GOD」、神の性質そのものを体現しています。


経営コンサルタントの故船井幸雄さんは
著書のなかで、
「生命体の本質は意識体である。
生命体は、全体が、より生成発展する為に、
生み出された。
創造主も宇宙も人間も生成発展中である。」
と書かれています。

つまり、
創造主も我々も常に「成長」下にあるということでしょうか。
GODの3要素で成長していくことが宇宙の理、
かつ我々の存在する目的であり、
音楽も同じ性質を持っているものと思います。


ここで、音楽について具体的に見てみます。

まずクラシック音楽の、
ソナタ形式がGODの3要素をよく表しています。
・提示部、第1主題  (創造、Generator)
・提示部、第2主題  (維持、Operator)
・展開部  (破壊、Destroyer)
・再現部  (再度創造、維持、Generator、Operator)
展開部までがGODで次のGやOに回帰しています。

交響曲だと、
ベートーベンの田園が分かりやすいです。
・1楽章  (創造、Generator)
・2楽章  (維持、Operator)
・3、4楽章  (破壊、Destroyer)
・5楽章  (創造、Generator)
これも同じくGに回帰しています。
マーラーの交響曲も複雑ですが、
これらの要素を明確に意識しているように思えます。

ポピュラーな音楽でも、
・イントロ、Aメロ  (創造、Generator)
・Bメロ  (維持、Operator)
・さび  (破壊、Destroyer)
・Cメロ  (創造、Generator)
またもやGに回帰していますね。

もう少し小さい規模だと、基本的な和声進行でも、
トニック(ドミソ、Generator)
サブドミナント(ファラド、Operator)
ドミナント(ソシレ、Destroyer)
トニック(ドミソ、Generator)
とGODでGに回帰と言えなくもないかと思います。

メロディ、小節、拍、音階等、すべての要素にGODを当てはめる事が可能です。


人間の琴線に触れるのは、GOD3要素の揃った成長物語と言えますし、音楽はいつも成長を表現できる様に設計されているのでしょうね。


ということで、音楽=GODというお話でした。

それでは。

こんにちは、ひでちぇろです。

ずいぶん久しぶりの投稿です。

 

今回は備忘的なとりとめの無い文面にて失礼します。

 

つい最近のことですが、

クリスチャンの知り合いから紹介があり、

教会でのキリスト教の集まりでベアンテ・ボーマンさんの演奏を聴いて来ました。

その後30分くらい話ができたので、

そのときのことを書いていきます。

 

ボーマンさんはスウェーデン生まれで、

北欧が生んだ魂のチェリストという感じの、

情熱的で信仰心の篤い方です。

東響で31年間チェロトップをされ、

宣教師で神学博士、山岳写真協会員で写真集も出版していて非常に多才な片方です。

私自身、チェロ、風景写真、精神世界がメインテーマで生きている感じなので十数年前から憧れの存在でした。

 

当日の教会で演奏された曲は、大きい曲としては、

ハイドンのチェロ協奏曲2番、そして小品、

最後に皆さんの讃美をに合わせて演奏は終わりました。

チェロの音に魅力の宿った演奏でした。

本当に豊かで深くて、そして金色に輝くような艶やかな音でもありました。

特にハイドンの後の、黒人霊歌の2曲が最高で、

聴きながら涙がじんわり出ました。

 

演奏が終わった後、こちらも同じくチェロを弾くということから、

30分ほど話す機会をもらえました。

せっかくの機会なので質問に答えてもらうことにしました。

 



まず、わざわざスウェーデンから日本に来た理由を聞いてみました。

答えは、チェロでなく、宣教師として活動する目的で日本来たとのことでした。

しかし、宣教師では労働ビザが取得できず、

ビザのためにチェロ団員になろうと東響受けたそうです。

そうしたら予想外にトップ待遇での採用となり、

その後そのまま31年続けたとのことでした。

つまり、ボーマンさんの最優先はキリストの信仰者であることの様でした。

 

次に本題として、

ボーマンさんの中での音楽と信仰の関係について聞いてみました。

すると、信仰心と音楽一体である、と即答されました。

信仰心を音楽で表現する意識で演奏されているということです。

順序としては信仰が先に来る様です。

信仰により心の中のより高いところにあるものを表現しているとも言われていました。

この日弾いたハイドンですが、

ハイドンも敬虔な信仰の持ち主であり、強く共感されていました。

 

信仰というテーマから、心と技術どちらが先かという話題になり、

かのポール・トゥルトゥリエに教わった時のことを引き合いに出されました。

ポール・トゥルトゥリエもやはり心を表現することをを重視しており、

ある弟子が上手いだけで心の宿っていない演奏をした直後に、

二度と来るな、国へ帰れ!と言ったというエピソードを語ってくれました。

上手下手でなく音楽には心が伴っていることが大切なことを何度も強調されていました。

 

また、音楽だけでなく山岳写真も撮るが、

大自然に感動する心は、信仰と全く同じとのことでした。

 

その後、教会で買ったボーマンさんのCDを聴きましやはり

「音楽=信仰、心(信仰)が大事。」というキリスト教への信仰に

裏打ちされた信念が音楽に現れている感じがしました。

音の輝き方にそういうものを感じました。

 

 

ここで、

自分の演奏の元になる信仰?について振り替えってみます。

 

河合隼雄流に考えてみると、

キリスト教は父性型の一神教で、

人が神の規範に従うか否かが決定的に大事な世界です。

厳しく善悪を区別する神ですね。

一方、日本人の縄文ルーツとなる感覚は、

母性型の多神教で、主体客体、自然、人間、善悪も一体と思われます。

最初から共感するベースです

(皆さんが同じでは考えではないかもしれませんが)。

 

日本だけでなく、アイヌ、沖縄、北米先住民族などの、

祖霊崇拝、自然崇拝的な母性型の共感と感謝によって

得られる信仰というか、心に根差した何か。

これとクラシック音楽を果たして結びつけられるのでしょうか?

 

宗教の相違でいえば、私の中には希望があり、

それはヨーヨーマの音楽です。

ボーマンさんは、信仰は音楽に現れるとおっしゃっていましたが、

ヨーヨーマさんの音楽には、

中国古来の道教的な世界観とそれによって立つ人類愛の様なものが

現れているのを感じます。

さらに最高峰の才能とアメリカの最新の教育とが結び付き、

東洋的な何ものかがクラシック音楽に

新しい地平を拓いたのだと考えられます。

 

つまり、キリスト教を初めとする一神教である必要はなく、

自分のルーツと思うものを掘り下げて行けばよいのだと、

考えています。

 

 

ボーマンさんによればキリスト教への信仰と音楽は一つ。

また音楽は上手下手より心があるかでした。

 

対して日本に生まれた自分はどうするか。自分の確信できる何物かを探求しながら演奏を続けていきたい。ボーマンさんと出会って心を新たにしました。

 

それでは。

 

ひでちぇろです。

前回投稿から1ヶ月以上空いて、
やっと投稿することができました。

ちょっと感情がきつくなる様な出来事あり、
記事を書くのが不可能な状態でした。

まさか自分がそういう状態になるとは
思いもよりませんでした。
ブログを始めて2年ちょいですが、
本当に、途中に色々ありますね。

重い腰を上げてなんとか書くことができて、
自分でも少し安心できました。

また、リハビリ的な感じで、
少しづつ記事をアップしていきます。

読んでいただいている皆さん、
またよろしくお願いいたします。

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

今回は、気功の「姿勢」に学ぼう!

です。

 

 

説明するまでもありませんが、

「気功」は、中国において古代から伝わる、

民間療法の医術を体系化したものです。

 

また太極拳のように、

武術などにも応用されてきました。

 

この気功は、西洋医学とは異なり、

メカニズムを科学現象として証明はしたりはしません。

 

証明はされていないものの、

たしかに現象として存在したり、

体感されるエネルギーを気として捉え、

理論化、体系化されてきました。

 

非常に長い年月をかけて蓄積されたもので、

西洋医学にはない

身体と心を統合して捉えている知恵の集合体です。

 

 

この気功において、

「姿勢」は大事な要素であり、

なかでも重要視されるのが「正中線」です。

 

達磨大使の書いた易筋経によると、

「垂脊通天」という言葉が使われています。

 

脊椎を垂らして天に通じるという意味です。

 

背筋を伸ばすのではなく、

天から垂れる、

つまり吊るされイメージです。

 

この感じ方だと、

自然に体幹を垂直にしやすいです。

これが出来ることがベースであり、

一番重要です。

 

この垂直な体幹を「正中線」と呼びます。

 

 

次に、「双手下垂」。

腕、肩に力を入れず、

自然に重力の方向に垂らすことを意味しています。

 

動功という、動きの理論の中でも、

動き出す前の基本条件となります。

 

 

さらに、「上虚下実」。

上半身の意を薄めにして、

下半身に対する意識を充実させた状態が望ましいとされます。

 

 

これらをまとめると、

体幹部、脊椎は上から吊るされる様に伸ばし、

手は力が抜けて自然に脱力して、

下半身を充実させる。

 

という感じです。

 

 

このような姿勢を維持できれば、

脳に送られるアウターマッスルの余分な情報(ノイズ)が消えるので、

精神的に大局を見渡しやすくなり、

心もぶれにくくなります。

 

 

 

ここで、

気功において特徴的であり、大切なのは、

物理的な身体と共に、

情報身体、

つまり心で感じる身体を重要視していることです。

 

 

身体で「正中線」を感じるのがまずスタートで、

物理的身体はそれに従う感じです。

 

身体を動かす際にも、

「正中線」は重要視されます。

 

西洋発祥のスポーツでは、

身体の動きの中心である、

体軸を固定された中心として考えます。

しかし、軸を固定させると動き少なくなるものの、

軸の維持に筋力を多く使い、

故障の原因になりやすいのです。

 

一方気功では、

「正中線」からまず動き出します。

体軸を中心とは考えません。

 

さらに、

正中線は変形と復元を繰り返しつつ動きを主導します。

 

 

 

私自身の参考例ですが、

チェロの演奏で正中線を意識します。

 

まず正中線は、楽器を弾かない普段の姿勢から

できるだけ維持できる様に意識しています。

 

良く気功あるやり方なのですが、

 

光る気の塊を正中線上で呼吸に合わせて何度か上下させて、

(吐く時に頭頂部から下げ、吸うときに丹田から上げる)

正中線を意識してから、それを維持しています。

 

そして楽器を弾く時には、

正中線を垂直に維持した状態を通常の状態とします。

そうすると、

身体からの余計なノイズが減って、

演奏に集中しやすくなります。

 

また、動作と正中線の関係ですが、

 

物(楽器)を扱う操作する時には、

それに接している末端の手や足に意識が向きやすくなります。

 

しかし、正中線を意識していれば、

身体の中心に近い部分の動きも意識化できるようになります。

 

そして、意識した正中線側の部分を

末端の動きに対して少しだけ先行動作させることで、

動作が効率化され、精度が上がります。

 

チェロで言うと、

右手で弓を弦を弾きますが、

自分から見て右側の低い弦を弾く時に、

一瞬先に身体を右側に少しだけ向ける動作を入れると、

末端の腕側の動作が格段に上昇します。

 

正中線側と末端側の動作の協調を意識する訳です。

練習曲などを通じて、この動作の協調を最適化していき、

少しずつ動作が洗練されていく訳です。

 

私が正中線をチェロの演奏に使う参考例でした。

 

 

 

ここで、

気功をあえて取り上げる意味についてもう少し書きます。

 

気功がスポーツ科学や脳科学の様な「科学」と違うのが、

「心」が起点なことです。

 

「心」が持つ「情報としての身体」をコントロールすることで、

結果として「物質としての身体」のパフォーマンスをアップさせます。

 

「心」と「物質」は相互に影響を与え合いますが、

科学では物質側からの一方通行であるため、

「心」の側からの働きかけ、つまり「気功」が必要になる訳です。

 

 

 

音楽では、

心(作曲、演奏)→物質(楽器、音)→心(聴く人)

という情報の流れなので、

物質的、数値的なパフォーマンスだけでなく。

「心→物質」に関する知恵の塊である気功の視点は

非常に大切だと考えられます。

 

ということで、

 

音楽での演奏においても、

気功の「姿勢」、「正中線」を育てることをに学ぼう。

という話でした。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!!

 

能を確立したと言われる観阿弥、世阿弥親子のうち、

息子である世阿弥が書いた能の秘伝書、

「風姿花伝」というのを、

ご存知でしょうか。

 

能の演者が醸し出す魅力を「花」と呼び、

この「花」をどう作り、どう出していくか、

という内容で、

現代に置き換えても、

まっとうなアドバイスがぎっしり詰まった本です。

日本版コーチングの原点とも言えます。

 

年齢ごとの修行の仕方、能の種類ごとの演じ方、

才能とは、奥義とは、修練とは、という様な、

能を極める為の豊富な知見、

などについて平易に語られています。

 

また、日本固有と思える美学についても、

触れられています。

 

書かれた時代は、室町時代初期の15世紀です。

 

当時の日本の美の頂点にいた人が書いたものだと言えます。

 

 

 

ここで、私にとって、

この書の中で特に異彩を放つ様に感じられるのが、

 

「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」

というものです。

 

芸能の道において、

その家で秘密とされている技、ノウハウは、

観客に気づかれず秘密であるから効力がある。

という様な意味です。

 

当時の能の世界では、

家に伝わる芸能のノウハウは家から外に出ないものでした。

 

さらにそこで、

観客にも明確にはそれと分からない仕掛けを入れておくことが、

非常に効果的であったということです。

 

現代にはない考え方ですね。

 

この現代では誰もやっていなさそうな、

「秘すれば花」というのを、

現代のわれわれに適用できないか?が、

今回のテーマです。

 

 

現代の芸術では、

伝統によって継承された、

「秘するもの」という様なものは

ほとんど話題にされません。

 

情報がオープンにされ、

皆んなに共有されることがもてはやされる時代です。

 

しかし、

すべてを表に出さず、

あえて「秘する」ということで、

そこに何らかの力が蓄積されるのではないかと

考えられます。

 

そしてその力が、

観客の意識、無意識に訴える何かを作り出すということは、

十分に考えられます。

 

 

 

現代では、

一人一人が秘するものを自ら創る時代と思われます。

 

インターネットがこれだけ発達すると、

誰でもが表現者になりうる状況です。

 

その中で、表面的にとどまらず、

自分の表現に説得力を持たせるには、

 

心の中に、誰にも明かさない「秘密の楽園」を創り、

そこに観客を導く仕掛けを創るということは、

一つの有効な手段になり得ます。

 

例えば、一人だけでの演奏であれば、

曲の一般的な解釈とは別に、

自分オリジナルのストーリーを考えておき、

そのストーリーに沿って、

楽譜には無いフォルテやアクセントを入れてみる、

という感じです。

 

 

 

仕掛けということで思い出されるのか、

大学生の頃に出た小編成の団体で、

バッハのくブランデンブルグ協奏曲第5番の演奏をした時の事です。

 

数分間続く長いチェンバロソロを指揮者自身が弾いていたのですが、

途中で突然指揮者によるソロの音が無くなりました。

 

演奏している指揮者は平然としていましたが、

事故の様でもあり、ホール全体に緊張が走りました。

 

が、3秒くらいするとに何事もなかったかの様に演奏は再開され、

特になんの問題も無く演奏会は終了しました。

 

しかし、みんなあの3秒の沈黙で心を奪われたことで、

聴く側、弾く側両方の集中力がアップして、

結果としていい演奏会になりました。

 

演奏会後、

指揮者になぜあそこで沈黙を入れたのか聞きましたが、

明確には教えてくれませんでした。

 

今考えると、これも一つの、

「秘すれば花」だったんじゃないかと思います。

 

これは単なる一例で、

明らかにうわべだけの極端な仕掛けをいれても、

しらけさせるだけなので注意は必要です。

 

しかし、

自分だけの秘密の楽園を一瞬魅せる様な、

分かるかどうかの仕掛けを創るというのは、

なかなか魅力的な考え方だと思います。

 

もし、一人で弾く機会があれば、

何か仕掛けを創れないかなとも思います。

 

あとは、それが生きる様にするためには、

いかに、自分の中に「楽園」を育てられるかですね。

 

「秘する」べき何らかの魅力が創れるかとうかです。

 

このテーマ、

まだ考え始めたばかりなので、

また進展があったらお伝えしたいと思います。

 

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

 

今回は、

「自我を消す」ことで初めて個性が出てくる

 

という話です。

 

 

 

文学の世界の話になりますが、

皆さん、「則天去私」という言葉をご存知でしょうか。

 

私の頃には高校あたりの国語の教科書に載っていたので、

ご存知の方も多いかと思います。

 

夏目漱石が言った言葉で、

小さな自分に囚われず、

大きな自然や普遍的な妥当性に従う、

という様な意味です。

 

文学者として最晩年に到達した一つの境地です。

 

未完の絶筆である「明暗」辺りの時期に当てはまる様です。

 

詳細は省きますが、

この「明暗」では、

まさに怒涛の展開が始まる直前で絶筆となってしまいます。

しかし、そのあたりの描写は、

これまでの作品を一段超えた凄みを感じます。

 

なんというか、

小さい自我が思いついたのでは無い、

運命の必然性の様なものが感じられます。

 

まさに、則天去私の境地で書かれた作品です。

 

 

また、

文学ではありませんが、

手塚治虫の火の鳥とかブッダあたりにも、

そういう境地を感じます。

 

 

 

音楽で同じ様な境地を感じられるのは、

ベートーベンの後期弦楽四重奏曲(12番~16番)あたりでしょうか。

 

時代の分類ではモーツアルトと同じ古典派ですが、

小さい自我を超えて、

人の生き死にのレベルから物をみた様な、

凄みと不思議な透明感があります。

 

20代半ばの頃に、

仕事によるうつ状態で、

死にたいと思って富士五湖に一人で車で行った時に

(なにも無く生還しました)、

一番自分の心に寄り添ってくれる感じがしたのが、

この曲でした。

 

 

 

ここで演奏についてですが、

そもそも、偉大な芸術家によって作曲された作品は

小さい自我でつくられたものではありません。

 

その作品を演奏するのに、

演奏者が自我を出して演奏するのは何か変です。

出来るだけ同じ次元で応じようとすべきです。

 

非常に簡単に言えば、

作品に対して「献身的」になるということです。

 

音楽に対して、

作曲された作品に対して、

そして、自然の法則や普遍的な妥当性に対して、

まずは献身的に接することが大切です。

 

そうして演奏した結果、

出てくる音楽に対して、

自分が心を動かされるかというのが正しい順序です。

 

先に、小さい自我に従っても誰ともその音楽は共感できません。

 

 

 

そして、

自我を消した、

献身的な表現の結果によって出てくるものが

初めて個性を持つのだと思われます。

 

アマチュアでやっていると、

たまに、

偉い先生に見てもらったのを自慢げに吹聴する人を見かけます。

 

しかし、偉い先生は、

見本は見せてくれるし、

客観的立場からは色々言ってくれるけど、

結局は自分の力でその地点に行かなければならないと感じます。

 

仏教で言うところの、「自灯明」です。

自我という余分な明かりを消しての自灯明ですね。

 

私自身、

かすかな灯かもしれませんが、

自分で自分の道を照らしながら、

少しづつでも成長していきたいと思います

 

ということで、

「自我を消す」という話でした。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

演奏の上達シリーズ、

今回は、「音程」についてです。

 

 

 

アマチュアの演奏において、

もっとも真剣になるべきなのが、

この「音程」です!

 

アマチュア演奏家の皆さんは、

おおよそ自覚されていることと思います。

 

 

 

当然ながら音程は数学的に決まっていて、

例えば、

代表的な和音である長三和音では振動数の比率は、

4:5:6であり、

これを正確に再現しなければなりません。

(ピアノなどは少しずれていますが)

 

こういう「音程」を正確に再現することが、

音楽を演奏する上での最大のハードルと言っても

過言ではありません。

 

そして、

西洋音楽はメロディ、ハーモニー、リズムで

成り立つと言われますが、

「音程」が悪いと、すべてが台無しです。

 

 

 

 

そもそも、なぜ音程が正しいとか、

そうでないということが聴いて

「分かる」のでしょうか?

 

音感というのは、

どうやって成り立っているのでしょうか。

 

 

 

脳科学によると、

脳には聴覚野があって、

空気の振動を音に変換しています。

 

この変換された音の高さである

「音程」を判別する能力が音感です。

 

聴覚野では音程以外にも、

音色、強さ、長さなどが分析され、

メロディ、リズム、ハーモニー、

そして「音楽」へと情報が統合されていきます。

 

 

 

そもそも脳の聴覚野で行われるこの能力は、

太古の時代には、

自然の中で生き延びるのに欠かせない大切なものでした。

 

森の中で聞こえるかすか音を聞いて、

それが、動物によるのか、自然の風による、

木の実が落ちたのかを、

聴覚野を通して瞬時に判断できないと、

とっさの行動がとれずに生き延びられない場合も有ります。

 

また、

集団の中で音楽を使って他の構成員と感情を共有し、

一体感を得る能力が欠如していたら、

他のメンバーから仲間として認識されずに

やがて構成員から外される可能性も有ります。

 

さらに、

音楽を介してご先祖様や土地の神様の様な

見えない存在とも対話もしていたかもしれません。

 

そこから、集団にとって有益な情報が得られて、

コミュニティが生き延びてきたことも、

もしかしたら有るかもしれません。

(科学的には証明が難しいでしょうが)

 

つまり、

今使っている音感にしろ、

音楽を分析して統合する能力は、

太古から人類にプログラミングされ、

遺伝子に刻まれた脳の機能なのです。

 

ですから、

これを思い出すべく訓練すれば、

研ぎ澄まされてどんどん進化していくはずです。

 

3度、5度、7度などの相対音感も、

元々脳にプログラムされていて、

訓練すれば能力の高低はあれど

だれでも獲得できるということです。

 

音程に関しても、

より高度に正確な音程を強く求めるほど、

太古から元々備わった能力が発現していく訳です

 

 

 

ここで、私自身の音程に関する経験を書いてみます。

(現在でもつたない能力ですが)

 

まず、15歳でチェロを始めました。

ここがスタートです。

始めて1~2年くらいは、

指をそれらしい位置に置くのが精いっぱいで、

音感もなにも無い状態で音を出していました。

(ずいぶん周囲に迷惑をかけていたと思います)

最初は皆、こんな感じかもしれません。

 

3年くらいしてやっと、

緊張感を持って音程について注意する様になりました。

 

その後、大学のオーケストラに入りますが、

さすがに音程が悪いと怒られました。

 

この時から、チューナーを使って分からないながらも、

自分の音程を補正する様になりました。

 

その後、レッスンでプロの先生についたり、

NHK主宰の音楽祭で、

のちにプロになる様な

経験豊富なメンバーに出会ったりしたおかげで、

音程に対する意識も高まりました。

 

このころから、

逆に音程が合わないという悩みも大きくなっていきます。

 

しかし、

的確な音程を求める気持ちは強くなったので、

この時期に音程力?はだいぶ向上したと思います。

 

その後、

社会人になり、音律についての著作にも出会い、

音程に対する自分なりの世界を片鱗ながら持つようになり、

今に至ります。

 

やはり、的確な音程を求め続ける気持ちと、

常に音程に対する集中力を維持することが、

最も大事だと感じる今日この頃です。

 

また、音程を正確にしようとするほど、

音楽に魂が宿るとも感じます。

 

あのカザルスも、導音の「シ」を、

あえて高めに取るなど、

音程を少しずらして「音程で表現」したとのことです。

 

音程イコール表現くらいの気持ちが大切です。

 

 

 

音程を求めての真剣な試行錯誤という土台の上に、

音楽表現が築かれます。

 

本気で音程を「求めた」人に、

太古から宿る音感が発現する。

その土台の上に音楽表現を築くことができる。

 

ということです。

 

人任せでなく、自分なりに、

「音程を求める旅」に出かけましょう。

 

私の旅も相当先は長そうですが、

楽しんで音程を求めていきたいと思います。

 

では。