こんにちは、ひでちぇろです。
ずいぶん久しぶりの投稿です。
今回は備忘的なとりとめの無い文面にて失礼します。
つい最近のことですが、
クリスチャンの知り合いから紹介があり、
教会でのキリスト教の集まりでベアンテ・ボーマンさんの演奏を聴いて来ました。
その後30分くらい話ができたので、
そのときのことを書いていきます。
ボーマンさんはスウェーデン生まれで、
北欧が生んだ魂のチェリストという感じの、
情熱的で信仰心の篤い方です。
東響で31年間チェロトップをされ、
宣教師で神学博士、山岳写真協会員で写真集も出版していて非常に多才な片方です。
私自身、チェロ、風景写真、精神世界がメインテーマで生きている感じなので十数年前から憧れの存在でした。
当日の教会で演奏された曲は、大きい曲としては、
ハイドンのチェロ協奏曲2番、そして小品、
最後に皆さんの讃美をに合わせて演奏は終わりました。
チェロの音に魅力の宿った演奏でした。
本当に豊かで深くて、そして金色に輝くような艶やかな音でもありました。
特にハイドンの後の、黒人霊歌の2曲が最高で、
聴きながら涙がじんわり出ました。
演奏が終わった後、こちらも同じくチェロを弾くということから、
30分ほど話す機会をもらえました。
せっかくの機会なので質問に答えてもらうことにしました。

まず、わざわざスウェーデンから日本に来た理由を聞いてみました。
答えは、チェロでなく、宣教師として活動する目的で日本来たとのことでした。
しかし、宣教師では労働ビザが取得できず、
ビザのためにチェロ団員になろうと東響受けたそうです。
そうしたら予想外にトップ待遇での採用となり、
その後そのまま31年続けたとのことでした。
つまり、ボーマンさんの最優先はキリストの信仰者であることの様でした。
次に本題として、
ボーマンさんの中での音楽と信仰の関係について聞いてみました。
すると、信仰心と音楽一体である、と即答されました。
信仰心を音楽で表現する意識で演奏されているということです。
順序としては信仰が先に来る様です。
信仰により心の中のより高いところにあるものを表現しているとも言われていました。
この日弾いたハイドンですが、
ハイドンも敬虔な信仰の持ち主であり、強く共感されていました。
信仰というテーマから、心と技術どちらが先かという話題になり、
かのポール・トゥルトゥリエに教わった時のことを引き合いに出されました。
ポール・トゥルトゥリエもやはり心を表現することをを重視しており、
ある弟子が上手いだけで心の宿っていない演奏をした直後に、
二度と来るな、国へ帰れ!と言ったというエピソードを語ってくれました。
上手下手でなく音楽には心が伴っていることが大切なことを何度も強調されていました。
また、音楽だけでなく山岳写真も撮るが、
大自然に感動する心は、信仰と全く同じとのことでした。
その後、教会で買ったボーマンさんのCDを聴きましやはり
「音楽=信仰、心(信仰)が大事。」というキリスト教への信仰に
裏打ちされた信念が音楽に現れている感じがしました。
音の輝き方にそういうものを感じました。
ここで、
自分の演奏の元になる信仰?について振り替えってみます。
河合隼雄流に考えてみると、
キリスト教は父性型の一神教で、
人が神の規範に従うか否かが決定的に大事な世界です。
厳しく善悪を区別する神ですね。
一方、日本人の縄文ルーツとなる感覚は、
母性型の多神教で、主体客体、自然、人間、善悪も一体と思われます。
最初から共感するベースです
(皆さんが同じでは考えではないかもしれませんが)。
日本だけでなく、アイヌ、沖縄、北米先住民族などの、
祖霊崇拝、自然崇拝的な母性型の共感と感謝によって
得られる信仰というか、心に根差した何か。
これとクラシック音楽を果たして結びつけられるのでしょうか?
宗教の相違でいえば、私の中には希望があり、
それはヨーヨーマの音楽です。
ボーマンさんは、信仰は音楽に現れるとおっしゃっていましたが、
ヨーヨーマさんの音楽には、
中国古来の道教的な世界観とそれによって立つ人類愛の様なものが
現れているのを感じます。
さらに最高峰の才能とアメリカの最新の教育とが結び付き、
東洋的な何ものかがクラシック音楽に
新しい地平を拓いたのだと考えられます。
つまり、キリスト教を初めとする一神教である必要はなく、
自分のルーツと思うものを掘り下げて行けばよいのだと、
考えています。
ボーマンさんによればキリスト教への信仰と音楽は一つ。
また音楽は上手下手より心があるかでした。
対して日本に生まれた自分はどうするか。自分の確信できる何物かを探求しながら演奏を続けていきたい。ボーマンさんと出会って心を新たにしました。
それでは。