ジャーナリスト 石川秀樹 -38ページ目

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。


高校が舞台になっているTVドラマを観ると、いじめがテーマにならないときがない。
まことにワンパターンな日本!
いじめる側は巧妙だというが、いじめの主目的が人を支配し、金をせびり取るところなぞは、まさにパターン化している。
精神がケチくさく、次元が低い。


いじめる側にも何か事情はあるのかもしれない。
生まれながらのサディストや犯罪者予備軍のような者も中にはいるが、多くは、自身何か心の憂さを抱え、荒れているようにも見える。
そういう者は、きっかけを与えてやればまともな人間に回帰する可能性はある。
しかし今は、いじめ加害者の心を救うより、被害をなくすことの方が先だ。

ジャーナリスト 石川秀樹


リーダーになるような者は、それなりに集団を率いる素質があり、まあ才覚もあるのだろう。
今は直接手を下すより、陰で君臨して「空気」とやらを操る。
実につまらない才の使い方だが、社会や会社自体が閉塞している日本では「その場の空気」とやらに染まり、自分のランクを気にしてしまう。
子供じみた幼稚な世界観だ。
が、いじめの標的になりたくないばかりに教室がコントロールされる。


どこから見てもばかばかしい無価値なことにエネルギーを使うなら、起業でもしたらどうだといいたくなる。
アメリカならそういう人はいくらでもいる。
なにが「空気」だ。
そんなことをいっているからこの国は20年間も停滞しているんじゃないか。


教師もそう。
国や県や市町村が丸抱えする発想をいい加減に捨てたらいい。
つまらない集団の中で出世を思うからスクールカースト上位の生徒にこびて、愚かなゲームにうつつをぬかすのだ。
教師も外部委託し、プロを雇えばいい。
出世競争などやめてさっさと独立し「先生会社」を作って高く技術を売りつける。
生徒も教師も教育委員会も発想を変えなければだめだ。
現体制でいじめをなくせないなら、体制そのものを変えるしかないではないか。


以上はもちろん極論だ。
片隅から何を提案しようが、聴く耳持つ者はいないだろう。
しかしこれだけはいえる。
学校や教室が閉塞状態にあり、それを誰もただすことができないなら「行かなくていい」ではない。
行ってやるだけの資格が学校や教室にはない!


社会の大方の価値観がサラリーマン風に染まっている。
それもメディアが戯画(カリカチュア)のように作り上げたカビの生えた階層社会風に。
牢屋の囚人じゃあるまいし、小権力を取りいって弱い者をしいたげて何とする。
ご近所も、会社も、学校も、ものを言えば唇が寒いようではお先が知れている。
戦後68年、私たちは何をやってきたんだか……。



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【筆者から】
このブログの元になっているのはFacebookへの書き込みです。
主にFacebookページ「ジャーナリスト 石川秀樹」に投稿しています。
ミーツ出版(株)という小さな出版社の社長をしています。61歳で行政書士の資格を取り開業しました。さらにこの数年は「ソーシャルメディアを愛する者」としてFacebookで熱く語り続けています。ブログは私の発言のごく一部です。ぜひFacebookページもご覧ください。コメントをいただけたら、こんなにうれしいことはありません。


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「Facebookの本を書いていて思うんだけど、今の日本、どうしてこう“損得”ばかりになっちゃったんだろうね」
車中の家内「……??」
「なんでもかんでも勝たなきゃ損だ、みたいな話。まことに卑しい」
「そうかと思えば、大の大人が“空気”におびえて神経をピリピリさせて、書きたいことも書けないなんて。取引先に見られていたら具合が悪い、上司が見てると思うと憂うつだなんて」
「なーに、いじめのことをいってるの?」
「日本は変てこな気兼ね社会になっちゃっている、ってこと」
「そういえばきょう、新聞に『教室内(スクール)カースト』ってあったわね」


そこから急に妻の反応がよくなった。
助手席で、彼女は怒っているのである。
「教室内(スクール)カーストなんて。書いた人は本を売りたいから付けたんでしょうけど、子どものことなんて少しも考えていないわね」
ここ数年、「格差社会」などという言葉が生まれ、状況はいっそう悪くなった。
そのずっと前には「荒れる教室」「学級崩壊」があり、それ以前には「積み木くずし」などという言葉があった。
事象があって、誰か知恵者がいてその事象にネーミングする。
言葉が的を射ていればまずマスメディアが飛びつき、さまざま話題として取り上げるので一気に「言葉」は浸透していく。


浸透してどうなるか。
事態は確実に悪化する。
なんとかしよう、より、日本では「認知された」みたいな錯覚が当事者及び当事者予備軍に蔓延して、子どもたちはわけもなく追随して、行き着くところまでいってしまう。

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「教室内(スクール)カースト」
意味を説明されなくても状況が分かる。
それだけ「言葉」としてはインパクトがあるのだろう。


イケメン、フツメン、キモメンだそうだ。
今の教室では“顔”でも階級ができる。
親の財力や学歴、会社歴でも差ができていく。
教師も“上位階層”には黙ってこびへつらうそうな。
そういうばかばかしい図式が見えるから、妻は怒るのである。
健全な怒りだと思う。
正義感といいたてるほどのものではないが、大人の良識である。


大の大人が良識をなくしているから、こんなおばかな言葉が生まれ、もてはやされるのだ。
この光文社新書、早くも8万部突破だそうだ。
この本をまだ読んでいないから、中身を批判しているのではない。
筆者が付けたタイトルであるのかどうかも知らない。
利口な担当編集が思いついたのかもしれないし、子供たちの世界ではとっくにいい回されている言葉かもしれない。
しかし、一つの言葉の普及によってカーストはより顕在化し、かつ深化するだろう。
事実があることが当たり前に認識されることで、事態の悪化に加速度がつく。


実につまらない。
顔の美醜や脚の長さで勝ち負けが決まるのか。
親が貧しければ負けなのか。
かつて貧しい日本では、貧から立ち上がり一家をなした者がたたえられた。
刻苦勉励、努力する者が認められた。
60数年生きてきて、美しい人、ハンサムすぎる男は損をするとつくづく思う。
本当の才があっても才として認められないからだ。
ましてや親の優劣など、うっとうしいだけだ。
財ある親の子に生まれた者は宝くじに当たったようなもので、何をやっても「運」としか見られず、張り合いがない。


カーストがなんだというのだ。
そんな発想はクソである。
(うす汚い言葉に汚い言葉で返して申し訳ないが)


いつのまにか学校社会にカーストが蔓延しているとすれば、それはすべて大人社会の稚拙で、いっそう残酷なコピーに違いない。
ワァーワァーうろたえ騒ぐより、浮利に踊らず“まっとう”をばかにしない、大人たる毅然とした立ち居振る舞いを子どもに見せなければならない。


生来の階層なんざぁ、チャンチャラおかしい。




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主にFacebookページ「ジャーナリスト 石川秀樹」に投稿しています。
ミーツ出版(株)という小さな出版社の社長をしています。61歳で行政書士の資格を取り開業しました。さらにこの数年は「ソーシャルメディアを愛する者」としてFacebookで熱く語り続けています。ブログは私の発言のごく一部です。ぜひFacebookページもご覧ください。コメントをいただけたら、こんなにうれしいことはありません。


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時々、Facebookの基本的なルールである「実名」「プロフィール写真を載せる」を守っていない人を見かける。
ルールを知らないのは論外だが、知っていてあえて写真を載せない人も少なくない。
「職場の人や取引先にFacebookをやっていることを知られたくない」
「個人名や写真を出すと怖い目に遭うかもしれない」
「連絡用に使っているだけだから」……。
事情はわからないでもないが、ソーシャルメディアを使う以上、顔を出さないことはあなたの印象を悪くし、やはり『損だ』と思う。
そういう人のために、Facebookはそれなりに対策を用意している。
顔出しリスクを99%減じる“専守防衛策”を紹介しよう。


◎真っ先に「ブロック」が浮かぶが、お勧めしない
 苦手な人をあらかじめブロック。
確かに一理ある。
ブロックすれば、相手からはあなたの存在はほぼ見えない(グループ、アプリは例外)。
「あの人がFacebookをやっているので私がFacebookを使えない」という事情があるなら、まあ仕方ない。
でもブロック多用は“神経戦”になりがちで精神上もあまりよろしくない。
あくまで非常手段だ。


◎あなたの投稿を特定の人にだけ見せる
顔出ししたくないというのは多くの場合は、リスク回避か、気兼ねする関係先に見られたくない、という理由なのだろう。
ならばページ右上の メニューから「プライバシー設定」を選択しよう。
「私のコンテンツを見ることができる人」の先頭に「今後の投稿の共有範囲」という項目がある。右隅の「編集」をクリック。「共有範囲」として、「公開・友達・知りあい以外の友達・自分のみ・カスタム」を選択できる。
「カスタム」がけっこうスグレモノだ。
「カスタムプライバシー設定」のメニューから「対象者またはリスト」を選択。
選択すると空欄が出てくるので、つながりたい友達名を入れる。あらかじめ作ってあれば「リスト」を選ぶことができる。

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◎ゼッタイに見られたくない人を排除
念のためなのか、Facebookは同じ画面の下欄に「シェアしない相手」を用意している。
これはいわば忌避リストだと思えばいい。
見せたくない人、またはリストを選択できる。
他の人には見せても構わないが、『この人にだけはイヤ』という場合に使える。

これであなたの投稿は、特定の人しか見られなくなる。
めでたし!めでたし!といいたいところだが、専守防衛にはまだ足りない。
“イヤな人”に自分のタイムラインに投稿されたら目も当てられない。そこで――


◎他人がタイムラインに投稿することを禁じる
右上の メニューから「アカウント設定」でも「プライバシー設定」でもいい、クリックして左側「タイムラインとタグ付け」を選択。
先頭行に「自分のタイムラインにコンテンツを追加できるユーザー」がある。
ここで「あなたのタイムラインに投稿できる人」を設定できる。
「編集」メニューから「自分のみ」を選ぶと、タイムラインの投稿欄が消える。


◎メッセージすら(誰からも)受け取りたくない
投稿を禁じるなら「メッセージ」も受け取りたくないだって? 
残念ながら、メッセージ欄を非表示にする設定は、現在は存在しない。


◎プロフィール写真を特定の人にのみ見せる
そうか、あなたは自分のプロフィール写真を特定の人にしか見せたくないんだね。
しかしこれはできない。
誰かと友達になったとき、友達のタイムラインの「友達」欄にはあなたのプロフィール写真は自動的にアップされてしまう。
友達が欄を公開設定していれば、あなたの写真は誰からでも見られてしまう。
自分のプロフィール写真の「公開を制限する設定」は見つからなかった。
投稿はいくらでも自主管理が効くが、名前とプロフ写真を隠すというのはFacebookの想定外なのだろう。
どこの誰だかわからない投稿は無責任であり『あってはならない』という発想なのだろう。
アメリカ人には理解しがたい発想なんだろうね。
“自分”を消してしまうというのはアイデンティティの喪失であり、「生きている意味は何?」といいたいのだろう。


▼シェアとタグ付け対策
なるほどなぁ、それでシェアとタグがある意味が分かったよ。
日本人にとっては「意味不明」「大きなお世話」と感じられることが多いこの2つの機能。
やはり日米の価値観(自分が立っている位置)には大きな隔たりがあるようだ。

シェアとタグ付けに踏み込むと話が極端にややこしくなる。
なので、ザッとの説明にとどめようと思う。
「シェア」はあなたの投稿を誰かが自分のタイムラインなどに再表示することだ。
例えばあなたは、投稿の見える範囲を「友達」に限定している。
だからあなたの投稿をシェアできるのは友達だけだ。
でもシェアした友達Aさんは、投稿の表示範囲を公開にしている。
するとどうなる?
Aさんがシェアしたのだから、投稿は(実際にはあなたが投稿したコンテンツは)Aさんの設定に従うことになる。
だから記事はAさんの友達のニュースフィードに表示され、あなたと友達になっていないBさんもあなたの投稿を見られることになる。


一方、タグ付けについて。
タグは、誰かが記事や写真に「あなた」という「タグ」を埋め込むことをいう。
タグを付けられるとどうなるか。
通常、その記事や写真はあなたのタイムラインに表示される。
その上、あなたの友達・フォロワーのニュースフィードにも表示される。
しかしタグについてはアメリカでも「プライバシー侵害だ」という騒ぎがあったために、かなりタグ付けされた側がコントロールできるようになり、実害が出にくくなった。
あなたのタイムラインに表示しない設定や、表示・非表示を選べる設定もある。
またニュースフィードへの表示“流出”もコントロールできる。


◎Facebookの土壌、日米では大きく違っているようだ
ここまで書いてきて、どんなに専守防衛・アナグマ作戦を採用しても「あなたを苦手な人から完全に隠すこと」はできないことがわかった。プロフィール写真や名前の公開範囲を「自分のみ」に設定できない以上、100%の安全はありえない。
逆にいえば、名前(実名)、プロフィール写真(実在の人物)、シェアとタグ付けの機能についてはFacebookの根幹であり、譲る気はないということなのだろう。
その前提にあるのは「友達」への絶対的な信頼だ。
友達に悪事を働く者はいない、友達の信頼を失ったらおしまいだ、コミュニティの中で生きていけない。だから友達が、何をするに場合にも“最大の安全保証になる”といった感覚。
日本では、「友達は見込み客」「数のうち」よくいえば「一期一会」「来る者は拒まず、去る者は追わず」といった功利的、もしくは淡い関係が一般的だ。
やはり土壌が違う。
違う中で、「異質な文化」を利害や効率のためにやみくもに利用しようという人が多い。
危ういことだ。


してみると、顔出ししないのも何分(なんぶ)かの理があり、というべきか。
誰とでも(というか、相手をきちんと選んでいるのだが)つきあうには度胸もいるし、判断力も必要。


結局、論旨滅裂な解説になってしまったね。
Facebookは実名、顔出しが基本だが、「友達」という最も基本の人間関係のコンセンサスが取れていない日本では、リスク回避の顔出し拒否も仕方がないのかな。


でも、顔を出しても出さなくても「青い枠」で囲ったおかしな連中がFacebookの中にうろうろしているご時世だから、どなたさんもご用心、ご用心!!




<ここからは「著者ページ」と「著書」の紹介です>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんな視点、はじめてだ!
「なぜ?」を徹底追究
ジャーナリストの視点で電本3部作

※著者ページ
http://denhonkan.jp/meikan/detail.html?ab_id=7



※著書
『秀樹さんが教える まだまだ奥が深い Facebookの教科書』



 Vol1.
 Facebookの基本のキ」。
 「入門書」ですがかなり濃い内容です。
 いいね!の原理、エッジランクやクチコミ発生機能について  核心を伝えます。
 
 









 Vol.2
 Facebookのビジネス活用術。
 個人やお店、小さな会社は大企業や有名人を見習ってはい けません。
 バラマキマーケティングより友達を大切に。
 











 Vol.3
 Facebookのスーパースターたちを紹介しています。
 「誰か」って? 
 まあ、立ち読みでご確認ください。
 インフルエンサーの投稿術を詳しく伝えます。




朝刊に「就活解禁 大学3年3月」とあったので、<そんなに早くからか!>と一瞬目をむいた。が、僕の勘違いであった。
よく読めば、今までは3年生の12月から解禁、それを「あまりに早い」というので4年生になる直前の3月からにしようと、安倍首相が経済界トップと会談した、という話らしい。


それならば、僕が就職した40年前となんら変わらない。
僕も3年生の12月ころには学生服を着た。
あさま山荘事件(1972年2月末)は就活最中、都心のショールームで見たような記憶がある。4月中には大方の連中が内定を決め、マスコミ志望の僕は夏までは試験がないため、5月には大いに焦燥感があった。
正直にいえば、夏までに“滑り止め企業”で内定をもらっておこうといろいろ動き、7社受け面接ですべて蹴られていた。


今思えば、一流企業を“滑り止め”とは不遜の極み。
結果、七転び八起きで地方紙にようよう拾ってもらったわけだが、それもコネがあってのことで胸を張れる話ではない。
とはいいながら、実はこの話をするのが僕は好きである。


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就職活動。
筆記試験はなんとか通る。
しかし面接では小気味よく明快に応答したつもりが、全部袖にされる。
これは自分が悪いのか、世間が悪いのか。
いうまでもなく“自分のせい”である。
醸し出している雰囲気、人間性、それまでに培ってきた知識やら教養やら常識力が問われたのである。
その結果、全社「ノー!」
大概、ヘ・コ・タ・レ・ル。
僕の場合は7社でやめにしたが、現在は50社、中には100社に蹴られたなんて話さえ聞く。
人間性を否定されたような気分になるだろう。


<これはヤバイ。今の俺では通用しない>


さっさと宗旨替えして、コネ採用を公言していた地元の新聞社を受けることにしたところが僕流だ。
二重三重、お願いできる人にはお願いし、試験の傾向も聞き出して真剣に勉強した。
面接は実になごやかだった。
大学の成績はひどく悪かったのに、それさえほめてくれる人がいた。
結果、トップで入社を許された。
試験結果のせいではないだろう、引きが強かったのである。


「不公平だ」というだろうか。
確かにその当時も「あそこはコネ入社だよな」と否定的ないい方をする人は多かった。
しかし当事者たる僕の見方は違う。
よくぞ私のような者を拾ってくださった、さすが地元だ、と思う。
と同時に、拾ってくれたおかげで会社もずいぶん助かった、ウインウインになった、と思っているのである。


軒並み落とされるというのは、自分が悪いのか、社会が悪いのか。
そんなことは誰にもわからない。
学校歴、成績は似たようなものなのに、何社からも内定をもらえる器用な人もいる。
そんな人たちに比べ、自分が劣っているとは思わない。
しかし「就活」という一事を取れば優劣は明らかだ。
自分には足りないものがあった(はずだ)。
足りないけれども、実はそここそが僕の最大の売りでもあった。
学生時代、いろいろ考えていたから面接に際し、一切猫をかぶったつもりでいたが、見る人には“普通の学生と違う雰囲気”が見えたのだと思う。
うん、彼らはさすがにプロだ。
地元紙だって、それを見抜く人はいたことだろう。
しかし僕には圧倒的なコネがあった。
有無をいわせず僕を押し込んでくれるパワーが。


いいたいのは就活の技術論ではない。
普通は「否定的」に見られる、屈託・世辞のなさ・青臭い正義感・反社会的というより半社会的というべき未熟さ……。
それらは就職時点というただ1点で見る限り、「ノー」といわれてしかるべき性向だ。
しかし、それがあったからこそ僕は拾ってくれた会社になにがしかの恩返しをする功績を残せたのである。


<編集局長か、さもなくば1面コラムを書く記者になる>


なんの根拠もないのに、入社早々からそう決めつけていた。
7社すべてに落とされた経験など、微塵も萎縮させなかった。
20歳そこそこの若造の「完成度」などしょせん取るに足りない。
その時点の俺や僕や私を、ただその時点の尺度だけで選ばれてたまるものか。
どうしようもない自意識強い未熟者をなだめたりすかしたり、怒鳴りつけたりしながら使える記者・編集者にまで育ててくれたのは会社である。
その感謝があるから、全力で仕事ができた。


さて、就活経験者としてアドバイスを送るなら、
「用意周到にやれ」ということに尽きる。
たくさん受けても道は開かれない。
好きな会社を見つけられたら、徹底的に調べて全力でラブコールする。
ただしあなたは未熟者だ。
あなたの思いなど(企業側から見れば)取るに足りない。
届かなくても自分を否定することはない。
否定せずさらに戦術を磨き自分を変えていく。
覚悟をもって粘り強く!


そして最後に、会社に入ることだけがただ一筋の道ではないこともいっておきたい。
61歳で行政書士になり、62歳で出版社を起業した自分の経験からいえば、サラリーマンになる以上にエキサイティングな道はいくらでもある。
全力で生きるつもりなら、そんな道もあることを意識していてもらいたい。
1度きりの人生、何度でも楽しみたいから今もあくせくしている。


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夏の参院選に向け与野党が「ネット選挙」の運用指針を作り始めた。その一端が朝刊に載っている。
「おやおや」という内容だ。
彼らが気にしているのは「メール」のことらしい。
有権者にメールは送れるが、有権者が転送することは禁止。
プリントして人に配ることもダメ。
頭がだいぶお固い。


メールのことでさえそんな非現実的なことをいっているなら、TwitterのリツイートやFacebookのシェアなどまで禁止しかねない(もっといえば、リツイートやシェアという意味が分かっているのか疑問)。
ソーシャルメディアは元々「シェア文化」を前提にしている。
ことの本質が全くわかっていないで、議員たちの議論が進む。
お寒いことだ。


昨年末の衆院選、僕はみんなの党の若い候補者が自宅前で演説を始めたので、それをFacebookで書いた。もちろん応援するつもりで。
だから本人にタグ付けした。
さて、こういう行為は「違反」になるのかどうか。
などといっても、「タグ」の意味自体がわからないのではないか。


シェアを前提にしているソーシャルメディア(ネット選挙の一部に入るだろう)での選挙運動を解禁する以上、オールフリーが当然である。
政治家が有権者に向かって書くのはよいが、リツイートやシェアはダメなどというのは、およそ非現実的だ。
リツイートもシェアも、有権者の表現(行為)のひとつである。
有権者の表現の自由、行動の自由を縛るのは憲法違反であろうし、有権者の自発的な“勝手な行動”を「選挙違反」として候補者に罪を着せるのも筋違い。


解禁するならすべて自由。
すると、ネットリテラシーが高いか低いかで優劣に差が出てくる。
至極、公平ではないか。
公職選挙法はカネのあるなしで優劣が出るのはまずいという良識に基づいていろいろな規制を設けた。
しかし人の知識や経験で差がつくのだとしたら、それは当然のことだ。
差がつくからと一律に縛れば悪平等となる。


間違っても、有権者の行動を縛るようなおろかな法律を作らないでもらいたい。
「選挙」とは別の問題が出てきて、またぞろ戦わなければならないなんて、真っ平だ。



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