ジャーナリスト 石川秀樹 -16ページ目

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。

★ちょっと辛口、私のエンディングセミナー! 生き抜くあなたへエール
http://yuigonsouzoku.net/ending-seminar/


先日書いたブログを読み返していた。
取り越し苦労、大きなお世話ではないかと思う、
しかし私には危惧があるのである。


エンディングセミナーばやりなのだという。
はやり方はどうでもいい、しょせんそれほど普及はしまい。
それでも私は何度かセミナーに駆り出されている。
世間の関心がないかといえば、関心はあるのだろう。




問題は、その関心の深さだ。
とても「理解が進んでいる」とは思えない。
例えばエンディングノートについて。
ブログに書いた通りを以下に列挙してみる。


1. まず、身仕舞いのこと(捨てる。「断捨離」も流行語になりました)
2. アッ、そのまえに「自分史」「家族への思い」がありましたね。
3. そして「いざというときのために」家族や周りの人に迷惑をかけないよう各種のメモ
4. 家族、親せき、友達などの連絡先情報
5. この後突然、わが身のことになって病歴や薬の記録
6. 病気になったらどのような治療を受けたいか、また受けたくないか
7. その延長のように突然「延命治療拒否」つまり“尊厳死宣言書”なども出てきます
8. さらに介護の話
9. どんな施設が望みか
10. 少し言葉をやさしくしながら「判断力がなくなったときの日常の家事や金銭管理の希望」
11. そして最後は死後の話に飛んで、葬儀や戒名の希望、納骨・お墓の選択の話まで


どうだろう、実に雑多で多彩ではないか。
エンディングノートを書くというのは
<“今までと同じ私”があしたにはいないかもしれない>
ということが前提になっていなければならない。
その観点から上の項目を見ると、確かに“衰えていく私”を前提にしているように見える。そして「やがて死ぬ」ことも当たり前になっていて、一足飛びに死んだ後のことまで心配している。


見事な覚悟、のように見えるが、ほんとうだろうか。
むしろ私には、人ごとだから「楽しんでエンディングセミナーを聞き、試しにエンディングノートを書いてみようかしら」と思っているように見える。


それはこれからの老いの日々の現実に比べ、あまりに楽観的ではないか。「あしたもきょうの私」でいられるかどうか、こんなことを書いている私でさえ定かでない。それが現実のはずだ。
こういうことを考えながら私はエンディングセミナーに臨んでいる。「ちょっと辛口」どころではないかもしれない。


思うところがあり、ブログを書き直した。




<★Facebookが「トップに表示」機能を追加、ユーザーの権限が強くなる!>
http://denhon-charisma.com/dc/top-on-the-display/


この意味、かなり大きいと思うのだけれど。
Facebookのニュースフィードへの表示、今まではFacebookが一方的に決めてきた。
そう、アルゴリズムというやつだ。


ニュースフィードはユーザーのものでありながら、テレビと同じように「誰の投稿、どんな投稿が現れるか」はただ見ているほかなかった。「この人の記事を読みたい」と言えなかったのだ。声を届ける術もなかった。





でも、Facebookがカジを切り替えたみたいだ。
今月から、ニュースフィードにトップ表示される人をユーザーが決められるようにした。
あれほど頑なに守り続けてきた「アルゴリズム優位」を、一部ではあるがユーザー側にゆだねる。
どんなに精緻に、どんなにビッグデータをたよりにしても、コンピューターが完全に人間心理を読み切り人間関係を推測するなんて、完ぺきにはできっこない。でもFacebookはこれまで、「できる」という前提でユーザーに、大きなお世話を焼いてきた。


それがFacebookだった。よくも悪くも。
今考えれば、ユーザー側に譲る萌芽はあったみたいだ。奇妙奇天烈に見えた「フォローをやめる」もその1つだったのだろう。


いずれにしてもこの改革、注目に値する。
Facebookの意図がいまひとつはっきりしないけれど、今後を注視していきたい。
<★解約金拒否の論理、総務省の英断に拍手!「2年縛り」がストップへ>
http://wp.me/p4q7xb-1du


昨年のゴールデンウイーク明けに「解約金拒否の論理」を書いた。
大反響をいただいたが、それで携帯キャリアを動かすほどの力にはならなかった。しかしもちろん、解約しようとする人ほぼ全員が感じる怒りは燎原の火のように全国に燃え広がっている。


そんな声を、司法は裏切った。
昨年12月、解約金訴訟3件に原告敗訴の判決。
『この国では理不尽に対するごくふつうの抗弁も通らない』
と思ったものだ。







一方で総務省は有識者懇談会を随時開いて「携帯通信料金」についてさまざまな検討をしていた。そんな中から、キャリアの乗り換えを事実上自由にする「SIMフリー」が実現した。
そしてきょうにも同省は携帯キャリア各社に対して「2年経過以降については解約金を取らない料金をつくるよう」迫るという。
解約金拒否の論理が総務省という“外圧”によって、ようやく実現することになりそうだ。


総務省を動かしたのは私たち庶民(ふつうの利用者たち)の怒りである。

<★彼岸と此岸(しがん)のはざまで大切な人を想う>


私には死に向かっての覚悟がない。


65歳になった。還暦を5年も超えたのにだらしいない話だ。
そんな私が「遺言相続・エンディング」のブログを始めることにした。行政書士の端くれでもあるので、まあ、ホームページ代わりでもある。


それは少しずつ充実させていくつもりだ。
先は急がない。
息せき切って充実させようなんて、さすがにそこまでの馬力がない。
第一、冒頭に書いたように「死」が身近ではない。
でも、若いころからずっとそれは、考えてはきたのだ。
人生の大きなテーマのひとつだった。


それなのに、まだ何もつかめない。わかっていない。
それでいて私は今、「人生のおしまい」に向き合う仕事をしようとしている。正直にいっておきたい。全然まだ、手探りだ。


先日、ブログを立ち上げた。
まだほとんど埋まっていない。
そうした中で、きょう急に思いついて「老いの断章」というカテゴリーを追加した。
死のことを知らず、老いのこともしらないのに!


言い訳すれば「老いつつある私がこれから見聞きし、感じ、思ったことを正直につづっていく」ただそれだけの、エッセイみたいな、日記のような記事になるだろう。「老いへの準備日記」というとウソになるので「断章」とした。
だって老いの準備なんて、ぜんぜんする気がないから。





ただ、受け入れたいと思っている。
負け惜しみだ。
若いころから、いつでも死ぬのは怖かった。
今もそうだ。意識がなくなるのがこわい。
自分の存在を自分が感じられなくなる、そんなことを怖いと思い続けている。


たぶん違うのだろうな、その結論。
若造時代より少し利巧になって、そういう自意識過剰は青臭くて幼稚だ、とは思うようになってきた。
しかしそれに代わる思い、今はまったくない。
死に向かっての覚悟なぞ、いつになったらできるものやら。


今は時どき、「老いと死」ということについて、感じることがあったら書いていきたいと思う。
このカテゴリーが他のテーマよりなにより、ずっと書き続けていくテーマのような気がしている。


その1本目。
妻に先立たれたとしたら私はどうその事実を受け止めるのだろうか、と想像しながらつづった。








<★統計は正しいがニュースは時どきウソをつく。「SNSトラブル」は大記事か ? ! >
http://wp.me/p4q7xb-1af


久方ぶりに新聞記事を真っ向から批判した。
きのうの日経新聞朝刊、社会面準トップに出ていた記事だ。
「SNSが消費者には危険」と言わんばかりの紙面の組み立てになっていて、私は大いに違和感を感じたのだ。


以前に書いた「★再掲!<SNSしない「NSN派」を報じる『AERA』の不見識> 取材先匿名に信はない!」に通じるようなニュアンスを感じ取った。
書いた本人、記事の編集責任者そのものがSNS、わけてもFacebookやLINEを使ってない人ではないかと感じた。




いや、記者は使っていると思う。そうでなければ統計データに関心をもたないはずだから。
書いている後半で、「この記事はデスクによって中途半端に切り刻まれたのではないか」という疑念をもつようになった。
証拠はない。現場を見ていないのだから。
でも、そうとしか説明がつかないような意味不明な記事になっている。


そしてそういう記事を、ただ大新聞の社会面に載っているというだけで、大半の新聞読者はうのみにしてしまう。
見出しの通りだ。
「ソーシャルメディアのトラブルが増えてるんだってねぇ」
「そうなんですよ。僕は危ないと思ったから、はじめから使ってませんけどね」
そんな会話が聞こえてきそうで、はなはだ不愉快になる。


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