★「老いの断章」手探りながら書いていくことにした! | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。


<★彼岸と此岸(しがん)のはざまで大切な人を想う>


私には死に向かっての覚悟がない。


65歳になった。還暦を5年も超えたのにだらしいない話だ。
そんな私が「遺言相続・エンディング」のブログを始めることにした。行政書士の端くれでもあるので、まあ、ホームページ代わりでもある。


それは少しずつ充実させていくつもりだ。
先は急がない。
息せき切って充実させようなんて、さすがにそこまでの馬力がない。
第一、冒頭に書いたように「死」が身近ではない。
でも、若いころからずっとそれは、考えてはきたのだ。
人生の大きなテーマのひとつだった。


それなのに、まだ何もつかめない。わかっていない。
それでいて私は今、「人生のおしまい」に向き合う仕事をしようとしている。正直にいっておきたい。全然まだ、手探りだ。


先日、ブログを立ち上げた。
まだほとんど埋まっていない。
そうした中で、きょう急に思いついて「老いの断章」というカテゴリーを追加した。
死のことを知らず、老いのこともしらないのに!


言い訳すれば「老いつつある私がこれから見聞きし、感じ、思ったことを正直につづっていく」ただそれだけの、エッセイみたいな、日記のような記事になるだろう。「老いへの準備日記」というとウソになるので「断章」とした。
だって老いの準備なんて、ぜんぜんする気がないから。





ただ、受け入れたいと思っている。
負け惜しみだ。
若いころから、いつでも死ぬのは怖かった。
今もそうだ。意識がなくなるのがこわい。
自分の存在を自分が感じられなくなる、そんなことを怖いと思い続けている。


たぶん違うのだろうな、その結論。
若造時代より少し利巧になって、そういう自意識過剰は青臭くて幼稚だ、とは思うようになってきた。
しかしそれに代わる思い、今はまったくない。
死に向かっての覚悟なぞ、いつになったらできるものやら。


今は時どき、「老いと死」ということについて、感じることがあったら書いていきたいと思う。
このカテゴリーが他のテーマよりなにより、ずっと書き続けていくテーマのような気がしている。


その1本目。
妻に先立たれたとしたら私はどうその事実を受け止めるのだろうか、と想像しながらつづった。