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What's Entertainment ?

映画や音楽といったサブカルチャーについてのマニアックな文章を書いて行きます。

『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)


 

監督・製作総指揮:アミール・“クエストラブ”・トンプソン/製作:ジョセフ・パテル、ロバーロ・フィヴォレント、デイヴィッド・ダイナースタイン/撮影:ショーン・ピーターズ/編集:ジョシュア・L・ピアソン/音楽監修:ランドール・ポスター
出演:スティーヴィー・ワンダー、チェンバー・ブラザーズ、B.B.キング、フィフス・ディメンション、デヴィッド・ラフィン、エドウィン・ホーキンス・シンガーズ、ステイプル・シンガーズ、オペレーション・ブレッドバスケット・オーケストラ、マヘリア・ジャクソン、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、モンゴ・サンタマリア、レイ・バレット、ハービー・マン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ソニー・シャーロック、マックス・ローチ、アビー・リンカーン、ヒュー・マセケラ、ニーナ・シモン、チャック・ジャクソン
公開:2021年8月27日

1969年6月29日から8月24日までの日曜日午後3時からニューヨークのハーレムにあるマウント・モリス・パークで開催されたフリーコンサート「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」を記録した映像に、関係者や参加した観客の証言、当時の社会情勢映像を加えて編集されたドキュメンタリー映画である。
黒人公民権運動の高まりやマルコムX、マーティン・ルーサー・キングの暗殺、ベトナム戦争等の背景もあり、黒人のアイデンティティを強く打ち出したイベントでナイトクラブ歌手のトニー・ローレンスが主催した。当時のニューヨーク市長ジョン・リンゼイも開催に協力している。警備を担ったのは、ブラック・パンサー党である。

フェスティバルの映像はテレビ・プロデューサーであるハル・トゥルチンが40時間にわたってビデオテープに収録したものの、発表する機会がないまま50年間地下倉庫に眠っていた。
映画の中では、この映像が公開されなかった理由を同じ年に開催されて映画も公開されたウッドストックと比較して「所詮、黒人のコンサート記録など歴史に残す意義がないと思われたし、誰も見たがらなかったってことだ」みたいなことが語られている。
だが、それよりも何よりもこのフェスティバルのコンセプトが黒人の問題意識と当時の白人による政権に対する批判といったある種政治的ラジカルさを前面に出していたことと関係していたではないか。
このフェスティバル開催期間中の7月24日、アポロ11号が人類初の月面着陸に成功しているが、そのことを聞かれた黒人たちは「そんな物に金を使うなら、貧困にあえいでいる人々を助ける方に回してくれ」といった発言を繰り返している。

あと、このフェスティバルを映像に記録した行為がある種の気紛れというかビジネス戦略なきまま恣意的に行われたことこそ、お蔵入りになった最大の原因のように思えてならない。このフェスティバルから3年後の1972年8月20日にスタックス・レコードが企画してロスアンゼルス・メモリアル・コロシアムで行われたコンサート「ワッツタックス」は、スタックス・レコードが『ワッツタックス/タックス・コンサート』として1973年に映画公開しているからだ。当然、ライブ盤もレコードとしてスタックスからリリースされて映画共々高い評価を得た。


 

コンサートの映像は今観ても十分に刺激的で興奮するが、如何せん音楽に対する愛情が希薄に思えてならない編集に苛々してしまう。というのも、フェスティバルの性格上演奏シーン以上に当時の社会情勢や個人の思いを語ったコメンタリーの方に重きが置かれているからだ。
しかも、そのコメントが音楽に被せられたり中途半端にカットインされてしまうのも興覚めである。貴重な演奏シーンを堪能したいのに、何ともフラストレイトさせる編集なのだ。
それから、市井の人々の感傷やミュージシャンに対する過度の政治的思想的期待も1969年当時ならまだしも、それから50年以上も経過した今日に語ってしまうのはどうにも違和感がある。まるで竜宮城から帰って来た人のように見えてしまう。


 

さて、肝心の演奏だが驚くほどバラエティに富んだ人選がなされている。ソウル、ゴスペル、ブルース、ポップス、ジャズ、ジャズロック、ラテンジャズ、サルサまで。
ただ、あまりにもゴスペル色が強くていささか宗教映画を観ているような気持ちになってしまった。その尺がまた長いので、不謹慎とは思いつついささか眠気が襲ってきた。聴衆がほぼ黒人で占められているという事情もあるが、ポップ・グループ寄りのフィフス・ディメンションでさえボーカル・スタイルがゴスペルなのである。スタックスと契約後、ソウル・グループとして大ヒットを飛ばすステイプル・シンガーズもこの時期はまだゴスペルがメインだった。


 

製作者の指向性もあるのだろうが、ミュージシャンの映像フィーチャーにはかなりの偏りが見られた。重きを置かれていたのは、スティーヴィー・ワンダー、ステイプル・シンガーズ、マヘリア・ジャクソン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ニーナ・シモン辺り。

 


 

個人的に興味深かったのは、フィフス・ディメンションの「アクエリアス~レット・ザ・サンシャイン・イン」、ソロで「マイ・ガール」を歌うテンプテーション脱退後のデヴィッド・ラフィン、後にハービー・ハンコックがカバーしてヒットする「ウォーター・メロンマン」を演奏するモンゴ・サンタマリア。
サム&デイヴの「ホールド・オン」を演奏するハービー・マンは、バックでロイ・エアーズがヴィブラフォンを演奏していた。ソニー・シャーロックのパワフルなギター・プレイは、ジャズロックというよりもはやロフトジャズのようだった。


 

そして、圧巻だったのはスライ&ザ・ファミリー・ストーン。「シング・ア・シンプル・ソング」「エブリデイ・ピープル」に、煽りまくる「ハイヤー」の熱狂。
だが、最高に素晴らしいと僕が思ったのは夫のマックス・ローチが叩くドラムをバックにアビー・リンカーンが歌った「アフリカ」だった。ニーナ・シモンのようにアジる訳でもなく、他のミュージシャンたちのようにゴスペルライクに熱くなるでもなく、ある種の静謐ささえ感じさせるアビーの透明な歌声にこそ彼らのルーツであるアフリカの大地を思わせる壮大なスケールがあって、心が浄化されるようだった。

 

 

とまあ色々と思うところはあるのだが、あらゆる音楽ファンが避けて通ることのできない希少なドキュメンタリーであることには違いない。必見である。

『プリズン・サークル』

監督・制作・編集:坂上香/撮影:南幸男、坂上香/録音:森英司/アニメーション監督:若見ありさ/音楽:松本祐一、鈴木治行

製作:out offrame/配給:東風

公開:2020年1月25日

 

凄いドキュメンタリーだった。

6年間にわたる取材申し込みでようやく許可が下り、2年に渡って日本の刑務所内部を初めて撮影した作品。

 

「島根あさひ社会復帰促進センター」という官民協働の新しい刑務所は、更生プログラムに組み込まれた「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」という教育カリキュラムがとにかく斬新で、初犯者がメインの受刑者たちを精神的にどう更生させていくかに重きが置かれている。その内容が、本当に理にかなっていて刑務所のあるべき姿を思わせる。

ここから出所した元受刑者の再犯率は、他の刑務所に比べて格段に低いことから見てもその効果のほどが分かると言うものだ。

20代の受刑者4人に対するインタビューもしているのだが、彼らはそれぞれ幼少期にとても酷い環境で過ごしていた。幼い頃の一定期間、親からちゃんとした愛情を受けていない子供は著しく自己肯定感が乏しくそれが成長するにしたがって深刻な問題を引き起こすことは広く知られているが、彼らもその例外ではない。

その少年時代から犯罪に手を染めて逮捕される過程、あるいは逮捕されて以降の彼らの思考を見ているだけで胸が苦しくなってくる。

ただ、この新しい刑務所の収容人数はたったの40人に過ぎない。犯罪者をどう更生させるかというのはもはや深刻過ぎる課題だが、間違いなくこの刑務所には一つの光を感じた。

個人的に気になったのは、度々挿入されるアニメーションが過剰に情緒的なことだった。

 

必見のドキュメンタリーとして、強くお勧めしたい。

『はりぼて』

監督:五百旗頭幸男、砂沢智史/撮影・編集:西田豊和/プロデューサー:服部寿人/語り:山根基世/声の出演:佐久間脩/テーマ音楽:「はりぼてのテーマ~愛すべき人間の性~」作曲・田渕夏海/音楽:田渕夏海/音楽プロデューサー:矢崎裕行

配給:彩プロ

公開:2020年8月16日

 

本当にやるせないと言うか色々なことを考えさせられるドキュメンタリーだった。

 

自民党が大半を占める保守王国の富山市議会で、政務活動費を不正に受け取っている議員がいることを2016年に開局したローカルテレビ局「チューリップテレビ」が次々とスクープしていき、結果的に14人の市議が辞職に追い込まれるという内容。

議員報酬を月額60万から70万に引き上げる法案が提出されたことが発端となって、チューリッピテレビが取材をしていく中で、次々と不正が明らかになっていく。市議会への情報開示を手段としてその資料を解明していくんだけど、当初はのらくらかわしていた市議たちもそのうち言い逃れ出来ない事実を積み上げられて、遂には認めざるを得なくなる。

 

おまけに、チューリップテレビの記者が情報開示請求したことを担当部局が議会局の担当にリークするという守秘義務違反まで発覚する。

市長に意見を求めても、「それは制度的に私がどうこう言える立場にない」と逃げまくる。

その市議たちの右往左往ぶりが最初こそ滑稽で笑えるくらいなんだけど、そのうち何とも息苦しくなってくる。それは、市民の税金を正しく市政のために使うという当たり前のことを何の躊躇もなく不正に受給した挙句、追及されるまで(あるいは、追及されても)あの手この手で言い逃れしようとする世の中の常識から乖離した彼らの意識に暗澹たる気持ちになっていくからだ。

市議会レベルでさえこうなのだから、これが都道府県議会、国政と規模や利権が大きくなればどうなるのかは容易に想像がつく訳だ。

 

おまけに、市議にはなり手がいない自治体も多く、さらには投票率も低い。それを考えると、悪い冗談では済まされない。今のコロナ禍や東京オリンピックに鑑みても、本当に考えさせられる。

映画は、それだけでは終わらない。監督に名を連ねる二人はチューリップテレビの記者で五百旗頭はキャスターも務めているのだが、二人にも思いがけないオチがついてこのドキュメンタリーは終わる。

そのエンディングは、まるで伊丹十三監督『マルサの女2』のような後味の悪さなんだけど、この映画はドキュメンタリーなのだ。

 

とにもかくにも、一人でも多くの人に観てもらって考えて欲しいドキュメンタリーだった。