原始のネズミみたいな哺乳類(ヒトの先祖)は見る、聞く、嗅ぐなどの五感を統合して外界でなにが起こりつつあるか予想する能力を備えた。つまり知性のあけぼの。
現代のヒトがいういわゆる「知性」とちょっと違う。よい視覚や聴覚を活かす「知性」は本流から外れちゃったみたい。一般的に知性というと物書き算盤が知性のものさしになってる感じ。
バスケでパスが通る通らないを判断する。バレーのスパイカーがブロックの隙間を見つける。、視覚とか、積み上げた筋肉記憶とか、モノを素早く投げるとか、空間認識能力とか。昔、狩猟採取に役に立っただろう能力は「知性」とは呼ばれない。どころか筋肉バカを自称(傷)する選手も多い。読み書き算盤より体育を下にみるのが一般。
でも、おいらはスポーツは、読み書き算盤と【同列】の優れた知性の表れだと思ってる…。というか、んなことみんな気付いてる。
そんなことを思ってたら愛聴してる coten radio で神回を見つけた。
36分の番組内容と自分が思ったことを混ぜこぜして端的にまとめると、
現代は論理性に基づく言語能力ばかりを知性のものさしにしている。文書や言語中心(書籍)で公的情報は伝達される。インスタやTikTokなど画像、動画での表現は(言語でないことを理由に?)知性とはみなさない。それどころかTikTokは知的ではない、文章を書けなくなった人類の退廃、、とすら言われることもある。
ところが知性の表現系は言語だけじゃない。言語化できない表現型があることを実は我々は分かっている。たとえば、論理的にまとめられた文章よりも15秒ほどで視覚、聴覚にうったえる「CM」は首相のながーい「指針演説」より世間の広範に浸透する。これは論理的文章より「CM」で用いられる表現の長所やその可能性を示している。
広範に伝わる「CM」を作成する能力も文書表現能力と同列の「知性」で尊重されてもよいはず。それなのになぜ学校教育の一環で導入されていないのか。「本の感想文」や「作文」ばかりが宿題に出され、「漫画」「YOUTUBE」の作成が教科にならないのはなぜか?知性を一つの尺度だけで測る単なる習慣を信じているからだ。
…って感じになる。端的じゃないじゃん、長いじゃん。YouTubeRはもっと短くできる。笑
coten ラジオの番組中、深井龍之介が「人類はオロカだね。知性のカウントさえ把握できていない。」という意味のことを言ってた。膝打ちまくり。
、でマラソン。
「ランニング王国で文化人類学者がエチオピアで走りながら考えたこと」
この本はエチオピアで人類学者がエチオピアランナーたちと走りながら気づいたことを書いたエッセイ。
エチオピアのトップランナーとその卵たちは才能を信じていないそうだ。速く走れる人と自分を比べ「才能が違う」という発想を抱かないそうだ。誰しも2時間10分で走れる。走れないのは努力が正当じゃないから。多分、「筋肉バカ」という言葉は使わない気がする。
長くなったので後日。