走ることについて語るときに僕の書くブログ

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タイトルの通り。
ワタナべの走った記録です。時折、バスケット有。タイトルはもちろん村上春樹さんのエッセイのパクリ。


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踵痛をいいことに映画館で座りっぱなしです。
つくばを走る予定の方々は今週、再来週、再再来週と30km走ですよね。

良い評判の映画には興味が持てず賛否が分かれる映画にばかり足が向く。うーむ、コレはPBを狙いたがる、ギリギリをしたがる性向と似ているのでしょうか?映画館でPB出そうとしてるんでしょうか俺は?と無理矢理こじつけたところで、、、つくばマラソン招集状が届きました。


このソックス、底が抜けてるYO!
どっちが上だかわかんないYO!


という嫁のベタなリアクション…。

…と、書いてよいか?と尋ねたら「絶対ダメ」と言われました。そんなことを嫁は言ってません。


アームバンドが今回のオマケ。
アームバンドを初着用すると、、、


ほお、腕が軽くなった感じがアルネ。いいね。



お腹の周りにつけたら体重が軽くなるかな??



…と、書いてよいか?と尋ねたら「絶対ダメ」と言われました。そんなことを嫁は言ってません。


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夕方走ろうかな。


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東京に出て10年。なんとなく地元に戻ってきた27歳の「私」(橋本愛)は、同じく東京から戻ってきたカメラマンの須賀(村上淳)と組んで地元タウン誌のライターをしている。
高校時代の親友サツキ(柳ゆり菜)と合流し、高校の人気者だった椎名(成田凌)に会いに行くことになった。道すがら懐かしのゲームセンターに立ち寄ると高校の同級生神保(渡辺大知)がいた。椎名と仲がよかったはずの神保を誘うもののなぜか拒まれる…。



山内マリコの同名小説が原作。彼女の出身地、富山でのロケがほとんどだったと思います。地方都市に住む人々が抱える閉塞感と幸せポイントを彼らの高校時代のエピソードを交えて表そうとしています。
原作を前日にあわてて購入。三分の一くらいしか読めずに観ました。映画は現在と過去を往き来しつつ複数人物が交錯するストーリー…分かりにくい。少しでも読んでおいたほうが分かりやすいと思います。

監督は『花嫁』(09)、『軽蔑』、『きいろいゾウ』(13)、『ストロボ・エッジ』、『さよなら歌舞伎町』(15)、『夏美のホタル』(16)、『PとJK』、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』、『彼女の人生は間違いじゃない』(17)などで知られたベテラン廣木隆一。

なんだか久々な感じのする橋本愛が主演。高校生と27歳を演じます。彼女、実年齢は22歳なんですね。雑誌などで書いてる文章からするとアラサーくらいかなと思い込んでました。精神年齢高いんすね、ゴメンナサイ。

俳優陣に不満なしです。
短い出演時間ながら印象を残す門脇麦。納得の存在感成田凌。かわゆすパンチラ乙、柳ゆり菜。成長著しい渡辺大知は難しい役どころを演じてました。長回しでの橋本愛の香ばしい横顔ショット、ここでエンドマークでよいとさえ思えやした、視線の先にあるものを感じさせる稀有な女優さん。実生活で先をいつも見ているからでしょう。



おそらくですが、
観る人の住処や経歴、経験、年齢などで作品への共感度がかなり違うような気がします。

自分には好きな作品になりました。
「勝手にふるえてろ」「南瓜とマヨネーズ」「レディバード」「桐島、部活やめるってよ」といった「痛々しいらぶ系映画群」中、も一度観たいランクに入る作品ですね。
もちろん自分評価です。


一番気に入ったのはカメラと被写体の距離です。適切な距離から少し引いてる感じ。画面の端っこに余白が出来、カメラのレンズの手前にムダな空間が存在する感じです。
この余白やムダな空間が地方都市の空気感を醸し出してるように思いました。


余計なモノが映り込むんですよね。ファミレスで食事するシーンでも不要な手前のテーブルが写り込んだりする。画面から緊張感が失われ散漫な印象になる。前半は長回しでそんなシーンが続くので多分退屈。車移動とセックスとファミレスでダベる、、、そんなことで時が流れる。でもそれが地方都市。

ネタバレに近いので詳しく書けませんが、「つまんないオトコよ」という山下南(岸井ゆきの)のセリフが作品の要です。このセリフでの南はささやかに幸せそう。ネガティヴなニュアンスはなさそう。ほのかな温かみがあって万感がこめられてる印象。原作には出てこないセリフと思います。つまり映画作品での意図。タイトルに呼応させて「退屈なオトコよ」と言わせたら野暮になったとこ。ナイス。

このセリフと、ラストである人物がある場所でささやくセリフが対比してます。ソコにもあるニュアンスがこめられていますが捉え方は観る人に任せてる感じ。
作品中、様々なセリフが行き交いますがこれら端的な二つのセリフに作品テーマがこめられてます。しかも映画では非主要と思われてた人物が口にするという渋さ。
何が人を退屈にさせるのか?を作品は実に繊細に表してると思いました。もっと言えば何が映画を退屈にさせるのか?と観客に問いを向けてるのかも。


一方で、
不満なのはエンド近くの歌です。要になるセリフは地味にささやかに伝えてるのに歌による伝え方は蛇足にしか思われませんでした。

歌自体は実に好ましいものなのですが作品の中で歌われるとわざとらしくなってしまう。歌とはいえ、コトバになると説明過多。

うん。
映画を楽しむために不要な場面は観ないテクを身につけたオレです。メロディだけ聴くようにしました。延々繰り返されるギターリフ。「永遠の日常」、実にニンゲンらしい。よいじゃないですかソレで。




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健康的ではありますがマラソン的ではないみたい。15拍(28%増)余計に打つようになったみたい。

 

 
カラダも自律神経が困惑してるみたい。息苦しいときがあります。
 
 
たぶん、
心臓はいままで通りのリズムでうつんだけど、
カラダの末端には酸素足りなくなって、クレームが来てる。
 
「はなし違うじゃん!」
カンジ。
 
 
特に夕方の副交感神経が優勢になるあたりが妙なカンジになります。
 
 
カラダが劣化してる。でもこのぐうたらリズムにカラダも心の臓も馴れてゆくんだな。ッテ思う。つくば終るくらいには70くらいうつようになるんだな。
 
 
で、
昨日の夜に8キロくらい走りましたが、キチンと痛い。なんかむしろ増してるカンジ?
 
 
 

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精神疾患のある母から生まれたエンジェル(男)は生まれながらに姿が見えない透明人間だった(因みに父は手品師で出産時には既に失踪)。人目をはばかり生きてきたが隣家に住む目の見えないマドレーヌに存在を指摘され恋に落ちた。マドレーヌから目の手術を受け目が見えるようになるとエンジェルは知らされる。姿が見えないことがバレてしまうことに怯えるエンジェルくんは…。

 

 

マドレーヌに「匂いと音」で見出されるエンジェル。手を差し伸べるマドレーヌ。
公式サイトより引用

 

 

 

 

見えないものを撮る、という一見矛盾したテーマ。だけどそれが映画の本質で存在意義とさえ思う。フランス語で展開されるからフランス映画?と思うけどベルギー映画。フランス語で語られるとトンデモ設定も受け入れちゃうのは俺だけでしょうか?

 

画像がキレイです。

基本、エンジェル視点で撮られてます。手ぶれカメラによるものなんだけど適度な手ぶれ。酔うような不快感がない安心設計。焦点も浅くて目の前の人物に当てられてるみたい。だからエンジェルの視線で映像を見てる効果が出てます。

 

たとえば、

お風呂に入ってるマドレーヌ。カメラはその裸体をなめるように映していきます。ふいにカメラがマドレーヌの顔に移動するとマドレーヌが「何、見てるのよ」的な表情でカメラ目線でいるので、、、ドキリとします。「チガウ。やらしい気持ちじゃない」って言い訳してる自分。
そんなふうにいつしか気持ちをエンジェル寄りにさせるカメラワークと演出。もとよりトンデモ設定だから観客の共感が不可欠要素。監督の意図通りと思います。

 

 

 

フランス風映画だから難解?かと思いきや、シンプルに「見えないものを撮る」ということに徹していて、複雑なメタファーやら、引用やら、思考パズルやらを考えなくていいみたい。
哲学みたいに理屈じゃないから、詩なのかな。だから画像イメージにココロを委ねて眺めてました。眠くなる手前の79分間の終り間近、水に浸かってる人物をぼけーっと観てるワタクシの脳裏に、

「ヒトが性交時に裸体になる理由」。
そして「接吻時に鼻がじゃまにならない目を閉じる理由」

が画像から伝わってきてびっくりしました。理解の前に分からせてくださる。さすが映画!

べつだんそれらに関連する説明や台詞やシーンがあったわけじゃありませんが。

 


総じて分かりやすい寓話でした。
「目に見えないヒト」の寓意は観るヒトの自由。宗教的な存在ととらえてもいいし、この作品そのものを表してるのかも知れません。最初は監督の頭の中にあって見えない作品イメージをこうして感じられる作品に仕立てていく・・・。

あるいは、、、ほら、これ読んでるあなた様はおいら互いに見えないヒト同士であるわけで気が向いたら、、、

↓これ、押して下ちい。存在が伝わるとうれしいものです。

 

 

 

おまけ

アニメ化希望。

アニメは堂々と「ウソ」がつける媒体と思います。実写だとホントらしさを求めてしまうからリアリティについついきびしくなる。


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自堕落な生活をしてるカイジ。友だちにだまされ多額の借金を負いギャンブルを開催してる船に送り込まれた。負けたら死に等しい扱いが待ってる。勝ち抜いて下船。借金返済する他はない。勝負方法はカードジャンケン。命の掛かった闘いが始まる。



以下、若干内容に触れています。





Netflixによる配信です。監督、脚本はハンイエン。監督二作目で「メモリー」というスイーツを撮ってるみたいです。中国人スタッフによる作品で言語は中国語。

人気漫画「カイジ」の設定通り。ジャンケンカードゲームも原作通り。しかし、看護婦の彼女がいる+寝たきりの母+カーチェイス有+数学が得意+ストレスがかかるとピエロに変身し怪物どもをやっつける、といった大幅改変があります。


でもねえ、この改変は大してストーリーに影響がないみたい。

金を貸してくれるカイジのナースな彼女。こんなオトコとはとっとと別れなさい。原作には女性キャラが登場しない。じゃあ、出しとく?みたいなノリで。

カイジはトラウマを抱えてて、嫌なことがあるととっても強いピエロにヘンシーン。電車内で怪物たちを倒しまくる(妄想)。だけどストーリーには影響なかった感じ。

あと、逃亡しようといきなりカーチェイスが始まる。それも妄想。あれれ?何設定?
古くて誰も分からないと思いますが、郷ひろみの元嫁、二谷友里恵「愛される理由」で散々繰り返されたパターン、、、「彼に会いに来てと伝えると分かったと彼は答えて250kmの道のりをタクシーで乗り継いで来てくれしかも100本のバラを持って、、、というのはウソで」のフラッシュバックがありました。誰得のウソ? はい、簡単に言うと短い夢オチが繰り返し起こる。でもストーリーは全然進んでない、というね。


とんでも映画に思われるかも知れません(でもある意味その通り)。が、とんでもパーツが凝ってるんで吉。監督、あんたこっちをやりたかったんだろ?って思うくらいしっかり撮ってる。タメを使ったスピード感ある時空自在なカメラワーク。魅せてくれます。損しない。

…してみると、
原作にないコトで観客を寄せる要素、、、カーチェイス、アクション、病床母を想う母愛、献身彼女を無理矢理つけ加えてみた。「止められるか、俺たちを!」そんな中国映画のエネルギを感じます。結果的に面白い。私的には原作ファンの顔色うかがって作品作るより、俺はコレ撮りたいんだ的な挑戦的な態度が好ましく思いましたです。

俺の妄想ですがAIに客の喜ぶ要素をぶち込んで脚本を書かせたらこんな風になるんじゃないかと。さては中国仕込んだか?と。




なんと、謎組織の幹部、利根川役にはマイケルダグラスの登板。「ラストベガス」か「ウオール街」かと。中国は本気だ。←謎


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2017年イギリス映画。日本未公開、Amazonにて視聴。

作品の内容にふれています。気にされる方は読まないことをおすすめします。
 
「何もしないをしに」森を散歩する父子とプー。「グッバイクリストファーロビン」から引用
 
 
作家のアラン(ドーナルグリーソン)は、第一次世界大戦から帰還後にPTSDが発症。折りしも授かった赤ん坊の男の子はクリストファー・ロビン(ウィル・ティルストン/アレックス・ロウザー)と名づけられた。
アランは静養のためにロンドンから田舎に引っ越すが派手好きの妻ダフネ(マーゴットロビー)は何も書かなくなったアランに愛想を尽かし、単身ロンドンまで家出。ロビンが懐いていた乳母ヌー(ケリーマクドナルド)も母親の看病で実家に帰り、アランとロビンは2人暮しとなる。
 
当初はぎこちない二人きりの生活も森を散歩したりクリケットに興じるようになる。アランは息子との日々から「クマのプーさん」の着想を得る。出版された本はたちまちのベストセラー。ダフネも(ちゃっかりw)、そしてヌーも戻ってくる。
 
ところがロビンは作品中のクリストファーロビンと同一視され本の宣伝などで図らずも有名人に。次第に普通の生活が出来なくなる一家…。
 
 
プーと大人になった僕」はファンタジーでしたがこちらは実話。PTSDの父親、派手好きの母親と必ずしもロビンをかえりみない両親の生活態度が気になります。唯一、乳母のヌーが心の拠り所なのですが彼女にも自身の人生があるわけでずっと一緒にはいられない。作中ではロビンの年代の近いともだちは一人も出て来ませんでした。
 
終始、暗めのストーリーですが、父子で暮らし森の中を散歩するうちに創作のヒントを得て物語を書き始める過程が明るい。川に棒を流して競争させるエピソードや風船で空に浮かぼうとする試みがあり、次々にプーのキャラたちやストーリーのオリヂンが登場して楽しい。映画としてのクライマックスかも知れませんが、彼らの人生で最高のとき、、、だったかも知れません。
 
プーさんのハナシが、PTSDを経て「何もしないをする」期間から生まれた創作物だということがよく分かります。「何もしないをする」なんて言葉はついぞ出てこないのですが。ハエの羽音や風船の破裂音で戦場を思い出していたアレン。ハエ→ハチとアレンは脳内変換、ハチも風船も物語上にあえて登場させることでPTSDを克服しようとしていたのかも知れません。
(ハチから逃げるのに成功したり、泥でカモフラージュしたり、風船は破裂することなく空気が抜けるだけ。これら小道具の使い方とPTSDとは、深読み妄想すれば関連がありそうで興味深い)
 
 
ところがファンタジーではなく実話だから起承転結のある話じゃありません。
映画は事実を淡々と描くことに終始していてロビンの身の上に起こる不遇を伝えます。家族のキズナがテーマのようですがそれに対峙するリアクションが各キャラからは伝わってきません(特に妻のダフネ)。尺の関係もあるのでしょう、ロビンの寄宿舎時代の話や彼の心理がいまひとつ伝わってきません。出征するロビンがそれでも真意を吐露しますが台詞中心での説明に終始してとってつけたような印象です。
 
それでもほっこりするラストを映画は用意します。しかし映画の後も彼らの人生は続きます。結局、アレンが死ぬまで父子は仲違いしたまま、ロビンにはさまざまな職業を経る人生があったようです。生涯を通じてロビンは「クリストファーロビン」に「GOODBYE」できなかったのかもしれません。
 
莫大な印税をクリストファーロビンは一切受け取ることがなかったそうです。
 
 

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結婚して娘さんがいるくらいの「大人」になったクリストファーロビンが幼いころの遊びともだち、プーに出会った。週末、家族旅行に行かれないくらい多忙で責任のある職務に就いているクリストファーロビン。家族には見放され気味。かつてプーや仲間たちと遊びまわった100エーカーの森から仲間たちが消えたとのこと。プーに探すように頼まれたクリストファーロビン。週明けには自部署の命運がかかったプレゼンをしなきゃならないのに・・・!

 

 

プーさんは1926年に発売された絵本「クマのプーさん」(岩波書店)。ディズニーキャラが定着してるのでアメリカ生まれっぽいですがイギリス生まれのキャラのようです。

 

 

1960年代にディズニーがアニメーション作品として発表してます。プーの赤いカーディガンはその時初めて着用したもの。この映画作品でのプーはディズニーキャラを継承してることになります。


 

多くの人は後年に出たディズニーアニメシリーズやディズニーアニメを基にした絵本で親しんだ人が多いのだと思います。

自分も登場しただけで笑っちゃうこの愛すべきキャラは大好きです。満腹で部屋から出られなくなって、おしりの上に花瓶を乗せられたエピソードはいまでも、いつだって思い出し笑い出来ます。プーが風船にのってはちみつを採りに行くときに口ずさむ歌、「ぼくは空のくも~、はちみつなんかいらない」、適当なメロディをつけて母が歌ってくれた日のことがまるで昨日のようです(それはおおげさ)。

 

 

 

…ですがどうも今回の作品は相性が悪かったようです。

 

家族と過ごす時間を多くとれば幸せになれるという発想でゴリ押ししてくる展開

 

その発想自体は間違いじゃないです。実際、そうだと思います。でもそれができないのでお母さんやお父さんは困っているのだと思います。何年も前から言われ続けてるこの言葉で物語を押し通すのは自分には無理を感じました。


この映画が普通のディズニー映画だったら「夢があっていいね」、別段なにも言わないです。しかし今回のディズニー映画は「大人になった僕」へ向けての映画。大人っぽく観た場合、受け入れがたさがありました。

 

「大人」の会社の仕組み、政治のありかた、家族のありかた、、「何もしない時間」の大切さと、それが確保できない現状などの問題点を多方面でとりあげてくれれば「大人」が真剣に考えられる「大人」のための映画になったはずです。

 

「何もしないをしよう」っていかにも政権や厚生労働省が一般市民の現状を知らないふりして押し付ける美辞麗句の類のように聞こえます。「何もしないをしよう」を「大人会社語」で翻訳すると、


 

「厚生労働省のご指導がやかましいからカタチだけでも休んでくれよん、たちばあるしさ。休んだ分の給料はもちろん払えないよ。相変わらずいつまでもキビシーんだよなにがあるかわかんねえ社会情勢だしさ。をっと!生活残業なんて古い風習は止めてちょーよ。休んでも金がないから行くとこない?知らないよ給料安いのは会社のせい?お前の能力不足だからだろうが!厚生労働省さまの旗印の下、人件費削減の好機を逃すもんかね!」 

 

そんな先入観があったのでこの映画にはまったく入り込めませんでした。泣いたけど。レビューが一般的に高評価なのは確かです。良識がキチンと伝わってくる映画だからいい映画です。ですが「大人向け」を標榜する映画としては納得できませんでした。もちろんプーに罪はない。

 

 

 

おまけ

ご存知の通り、クリストファーロビンは原作者の息子さんがモデル。

実際のクリストファーは、両親と絶縁にあった親戚の娘さんと結婚したため両親とも絶縁状態だったそうです。映画と違ってカバンを売ったりせず、書店経営者でした。父親の死後、クリストファーは父と精神的な和解を果たしたようです。1996年に75歳で亡くなっています。(Wikipediaより抜粋)

 

 

おまけのおまけ

「持っているだけで幸せになる」風船が作中出てきます。心の重しがとれるからでしょうか?

とても心に響くメタファーだと思いました。


そのくらいのシアワセをテーマにしてくれれば心が騒がずに観られたはずです。、多少、会社を簡素に描き過ぎてましたが。


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この秋に山田裕貴、齋藤飛鳥で公開されてる「あの頃、君を追いかけた」のオリヂナル台湾映画を観ました。


2011年公開時台湾で大ヒット。日本でも単館系を中心に公開された作品です。原作は人気作家ギデンズコーの自伝的小説。そのまま脚本と監督を自身でこなしました。

1990年代、男子高校生コートン(クーチェンドン)は個性的な悪友たちとつるんで教師を困らす問題児。彼らはクラスの優等生でかわゆすチアイー(ミシェルチェン)に憧れてます。教師から問題児のメンドをみるよう言われたチアイー。コートンはわずらわしく思いながらもチアイーに惹かれていく…。


まず、
チアイー役のミシェルが可愛い。ショージキ、どこにでもいるかわい子ちゃん。
だけどツンデレ落差がよいから心にしみる。

ツン

からの、


ホントの笑顔はキミだけに!

と言わんばかりの、


デレ




エクセレン!!



主人公くんも


爽やか。


難は、
映画全般下ネタが露骨でエグい。女性は下を向いちゃうかも。

でもこの露骨さも作品のキーワード、「幼稚」ってことを表現してるのでしょう。たぶん監督のこだわり。「青春はと後悔と初恋でつくられる」ということなのでしょう。

後半のシツコイ回想シーンも、
最後のサービスっぽいラストカットも、
作品は「幼稚」さを表そうとしてます。

この映画は「幼稚さを寛容出来ないと、どうなるか、は映画を観てのお楽しみ。謎。

いま1990年に高校生だった人を想定してます。スラムダンク、飯島愛、ワンピース…。日本の文化が台湾に入ってたことが知れて楽しいです。


…ってかね。なによりこの手の青春回顧映画は、「幼稚」だろうと、懐古だろうと、観終わって何も自分に残らない。それが一番よい。そう思います、はい。

この映画の「幼稚」が日本版ではどのように消化解釈されてるか楽しみです。



当時。ミシェルは28歳!
日本版でも山田裕貴くんは28歳すね。


今週はちと高いプルーレイ買った「ハッピーアワー」ので金欠。映画館は自粛です。
ので、日本版はそのうちに。



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禁煙話が流行ってるみたいなので便乗。


選挙権を持ってる同級生の多い高校で、いちばんの長老、ゴトウサンはイーペーコウ(1-1 2-2 3- )がテンパイしてる方で22歳。母校に訪れる教育実習生と同い年だったりした。ナニもかも一回りしたオトナで落ち着いた人でした。これも人生。じっくりやる人が多い高校でした。

だからタバコもオッケーでした。トイレでは吸わず休憩時間に教室でゆったり吸うのが基本です。授業時間になって先生がいらして「煙いぞー」と指摘されても、「ゴトウサンでーす」と言えば解決、という(人生の)段取りだったけど「煙いぞー」なんて言い出す先生はいらっしゃらない。「窓、あけろー」とは言われたけど。

吸殻はね、ベランダから投げ捨ててオッケーでした。あまり授業を持たない教務主任のノグチ先生が吸い殻を拾う役割だったので。一度、ノグチ先生が拾ってるのに気づかず吸い殻を投げ捨てたヒデはさすがに気がとがめて「すみませーん」と謝ったところ「こらー上から謝る奴がいるかー」と叱られてた。ここにも人生。

、とか書いてるとトンデモない高校に行ってたと思われちゃうかも知んないんでフォロー。いい奴もいたす、コンドーさん。高校だとよくある「カンパ箱」が回ってきた。「妹が失敗しちゃって」とコンドーさんが。「妹思いじゃん(はーと)」とほめると「…オレの子だしな」とシビアな顔。いつもはチャラ男なのにマジな顔することあるんだ、と感心したなあ。父親ともなると。これも人生。


んなわけで呼吸をするように始まった喫煙人生。禁煙まで届かないや。またコンド。







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酒井耕と濱口竜介監督による「なみのおと」「なみのこえ」に続く東北三部作と呼ばれる作品群のの第三部。
前二作は「百年」先への被災体験の伝承がテーマ。本作は東北地方の伝承民話語り(佐藤玲子、伊藤正子、佐々木健)と聞き手(小野和子/「みやぎ民話の会」)による対話を交えたドキュメンタリー作品になっている。
 

 語り部の方々

 
聞き手、インタビューア小野和子氏
 

 

 

聞きたい人がいて語りたい人がいる。口頭により伝承されてきた民話語りは芸能の原型と認識して観ていた。つまり映画の作り手と観客と。あるいはSNSとも。

 

語りたい動機には「語ることで、嫁姑問題や家事のストレスを発散するため」というやりとりがあった。聞く側も「幼少時に聞いて忘れていたと思い込んでいたがある時点ですらすらと語れるようになっていた」、という不思議な話があった。民話は語られたがっているのかもしれない。

 

 

「偉い人は出てこない。ダメな人ばかりが主人公」だと語り手は言う。(民話が)「タメになってんのかどうかわかんね」、と。また、語り手が話す前に「前にこれ話したことあるかも知れねえけど」と言うとみな口を揃えて「いんや、また聞きてえ」と言う。

 

荒唐無稽で「タメにならねえ」話を繰り返し聞くことをいとわない心理。ストーリーがすべてではなく、聞き手が聞く場を求めたがっているように思えた。

 

 

民話を映画に想定して観ていると示唆に富んだ会話がところどころ出てきて興味深かった。映画中話される東北弁は70%以上分からなかった。英語の字幕が出ていたが東北弁以上に難解www。なので「オチ」が分からないお話もあった。しかしなぜだか惹きつけられる。

 

言語よりさきに「うた」があったと自分は思い込んでる。メロディ、リズム、抑揚は如実にヒトの感情を伝えただろうから。ある「うた」を聴いてヒトが共通した感情を抱けるのはそういうDNAをヒトが持っているからじゃないかと。

 

民話に惹きつけられるのは、民話の本質が「うた」と同様、ヒトを共感させるものだからだと思ってみる。エモいなにかが民話語りにはある。たぶん映画にも。言葉やストーリーだけじゃない、「タメにならねえ」お話でも。

 

 

 

 

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