私たちが成長していくためには、

たくさん失敗すること、

そして、

それを「正しく(=本人が望んでいる結果に沿って)」修正してくれる人が、

あるレベルまでは必要です。




たとえば、起業をする時、

もちろん自分のやりたいようにやってみることが一番大事ですが、

それがうまくいかないとき、

「こうやってみたらうまくいくんだよ。」

と指導してくれる人(=メンター)がいてくれると、

人というのはグングン成長できるのです。




日本って、こういう「指導員(スーパーバイザー)的存在」がほとんどおらず、

またその蓄積がない、

ということが分かります。




人というのは、

はじめてのことは基本的には「怖い」。

しかも「失敗したとなったら現実的に大変なことが起こる」となれば、

そりゃあみんななかなか「はじめの一歩」が踏み出せないでしょう。

「はじめの一歩」が踏み出せなければ、

なにも生み出すことはできません。




教育には、

まず「本人がやりたいこと」

そして「それにあった指導員」

が絶対に必要。





英語だって、

「これを伝えたい」

という時に、

とりあえず話してみた後、

「こういえば伝わるんだよ」と
(本人が見本を見せるなり、説明してあげるなり、方法は様々ですが)

サポートしてあげる人がいたら、

あっという間にグングン英語力は伸びるでしょう。




「正解は1つではない」

ということは確かだけれども、

「正解の選択肢」

を提供してあげる人がソバにいてくれるのは、

やっぱり大事じゃないかな。




教える立場にいる人は、

ぜひそういう風に接してあげて欲しい。

そうすると、

まず自分のやり方でやらせてみて、

失敗をさせ、

「こういうやり方もあるよ。」

と伝えて、または手本をみせてあげれば、

あなたの教え子、部下は、グングン伸びていくことでしょう。




野生動物はこういう教え方をします。

それが「教える」ということの、本質なのです。
セミナーを開催している人間として、

どうして「質問はありますか?」と聞いても、なかなか日本の人は手を挙げないのか・・・

ずっと気になっていました。




「日本人はシャイだから。」

とか

「聞きたいことがあっても、最初は難しいから」

とか、いろんな説がありましたが、

一昨日ふとしたことがあり、その理由が分かりました。




それは、

日本人は「議論」ができない

そして、

先生には逆らってはいけない

という2つの理由から成っていました。




僕は昔から、

何かを言うとすぐに嫌われたり、

「キマちゃんはすぐに反対する・・・」

とか言われて育ってきたわけですが、

僕的には「?」で、

なんでみんな「議論」ができないのだろう、

と思ってきたわけです。




まず、たとえば、ある人が、

「◯◯は☆☆なんです。」

といったとき、

「◯◯は、△△△ということじゃないんでしょうか?」

というと、

これは、日本では「批判」と受け取られます。




これがとくに、

「◯◯は☆☆なんです。」と言った人が、

「目上の人」「先生」なんかだと、

完全に嫌われます。

経験がある人、いっぱいいますでしょう?




でもこれができないなら、

授業や会議の場なんかで、質問がそんなに出るわけがないんです。




授業や会議、というのは、ある人がまずなにかを主張するわけですよ。

「◯◯は☆☆だ。」

というわけです。

で、

日本では、まずそれを「正しい」という前提で質問をしなければいけないのですが、

今まさに話されたばっかりの話について、理解して、さらに疑問を持つ、

なんてことが急にできるわけないんです。

そもそも「理解しているかどうか」が怪しい。




理解しているかどうかを確かめるためには、

「◯◯は、△△△ということじゃないんでしょうか?」

という質問が必要です。

そして、説明している人から、

「◯◯は、こうこうこういうことから、☆☆なんだよ。」

と言われて、はじめて納得できたりするわけです。




でも、日本ではこのプロセスが踏めない。




だから、授業や会議の場では、

「◯◯は☆☆だ。」と説明者が言っている文脈に沿って質問や意見をいわなければいけない、

という非常に「困難な場」ができあがってしまうのです。

で、

理解を間違って「カドが立つ」よりは黙っておこう

となります。

当たり前の話ですよね。




日本にこの「場」がある限り、

日本では発展性のある話はできません。





間違わなければ、理解なんてできるわけがない。

異なる想いや、異なる理解を、納得するまで説明してもらって、

はじめて「ああ、そういうことか」とか「ああ、そうなのか。」と思えるはずです。




たとえば、この記事について、

「いやいや、こういうことじゃないんですか?」

というコメントがもらえなければ、

僕は自分の気づきから「外」に踏み出すこともできないのでそれで終わり、

または自分一人で思索を続けるしかない。




また読んでいる人は、

「キマちゃん、そりゃ、違うでしょ。」

で終わってしまう。

読んでいる人も、「外」に出られない。

情報の交流がまったく行われません。




なので、ぜひこのブログの読者には、

ご自身の意見、

反論、

これはどうなの?と思うケースとか、

批判でも、

どしどしコメントお願いします。




僕は、議論して、

お互いに知恵と経験をシェアし、

お互いの理解を高めあっていくことが大好きですから☆







僕はほんの数年前までは、

「最新のテクノロジー」

というヤツが嫌いでした。




たとえば、「遺伝子治療」とか、

「そんなことやらなくてもいいやん。」

とか思って全く相手にしませんでした。




でもそういうのって、

絶対に現実化されちゃうんですよね。




これは、

陰陽師の尾畑さんの話を聞いていたのがきっかけ。




尾畑さんは、

「最新のテクノロジーや知識は、知っておかないといけない。」

といってた。

「10年~20年たったら、携帯みたいに、それが必ず普通に当たり前にこの世界にあるよ。」

とか。




僕は、基本的にはそういうのって嫌いで、

「なるべくローテクでいいよ」、

って思っていたんだけど、

それから何年もたって、

「それは無理なんだなあ。」と思って、

最新のテクノロジーなんかも、

否定せずに目を向けるようにした。




それでもなんか、ずっと釈然とはしなかったんだけど、

でも今、

ようやくそれが何でなのか、分かった。




それは、

「否定」は何も生み出していないからなんだな。

生み出されたものだけが、世界をつくっていく。

否定、反対、保護は、

生み出さないから、いつかこの世界から欠落していく。




もし「こういう世界がイヤ」っていうなら、

「じゃあ、こういう世界になって欲しい」

という「何か」

を生み出さないといけない。




この世界には、

「否定」はありえなかったんだ。




だってそれはすでに、生み出されて「ある」。

だから、

肯定しないと仕方がなかった。

それしか現実じゃないから。




もしそれに何かを自分が思うところがあるなら、

自分は何かを生み出さなきゃいけなかったんだ。




もちろん「反対運動」は意味がある。

でも、「生み出す」反対運動でないと。

ただの「否定」の反対運動では、いけないんじゃないかな。




新しいテクノロジーや学問、発見があったら、

これからアナタはこう思うべきだろう。

「じゃあ、アレを使ってこんなことをしよう。」

って。




納得いかない?

まあ、今はそれはそれで、いいんじゃないかな。

これはだって、「納得する」ことじゃないんだから。